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ズバリ、カントによる『春と修羅』序の世界
『春と修羅』序 カントによる『春と修羅』序の世界(意訳)
わたくしといふ現象は カントが「現象の世界」といい、ショーペンハウエルが「世
假定された有機交流電燈の 界は私の表象である」とした、この自然的世界。有機生命 ひとつの青い照明です 体として、この世界に生きるわれわれは、あらゆる生物と (あらゆる透明な幽霊の複合体) 共に、広大無辺なこの自然界で、それぞれの生態系を形成 風景やみんなといっしょに しています。この生態系は、合目的性を有する、無駄のな
せはしくせはしく明滅しながら い、美しいものです。
いかにもたしかにともりつづける 多様な有機生命体の生長のロゴスは、目に見えぬ相互因 因果交流電燈の 果に満ちていて、みんながせはしくせはしく、たしかにとも
ひとつの青い照明です りつづける、複合体としての、共生の存在なのです。
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ) (滅びても、その輝きは残るでしょう。) これらは二十二箇月の さてこの詩集は、過去22ヶ月間の、わたくしと対象との出
過去とかんずる方角から 会い、わたくしの身に起こったさまざまな出来事のその 紙と鑛質インクをつらね 時々の思考と経験を書き留めたものです。 (すべてわたくしと明滅し (すべての対象はいつどこでという、アプリオリな時間・ みんなが同時に感ずるもの) 空間の形式をもち、みんなに共通です。) ここまでたもちつゞけられた その明暗のひとくさりづつ、「感性的直感」と「時空のアプリ かげとひかりのひとくさりづつ オリな形式」による「現象」であり、そのとおりの心象のスケ そのとほりの心象スケッチです ッチです (*ア・プリオリ=経験に由来しない) これらについて人や銀河や修羅や海膽は 私たちは正しい認識、リアルな認識とは、私たちが本当に 宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら あると思っているもの、例えば、緑の木々や光り輝く太陽 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが や、青い空、森のささやきと静けさ。これらは、私たちと それらも畢竟こゝろのひとつの風物です は無関係にまずちゃんと実在していて、だから私たちはそ たゞたしかに記録されたこれらのけしきは れらを見たり聞いたりすることができる、という風に考え 記録されたそのとほりのこのけしきで ています。しかしカントは、「外界をそのままの客観とし それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで て認識できるのではなく、対象がわれわれの認識に従う」 ある程度まではみんなに共通いたします という「超越論的対象」の概念によって、経験的認識の客 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに 観性を基礎づけ、「超越論的真理」の成立する「経験の地 みんなのおのおののなかのすべてですから) 平」の領野を拓いたのでした。 けれどもこれら新世代沖積世の ところで、私がこれまで書いてきた童話に見るように、私
巨大に明るい時間の集積のなかで の感性と思考の対象は、もともと自然や人間のみではなか 正しくうつされた筈のこれらのことばが った。よだかやカラス、熊や鹿、自然の風景や木々、小さ わづかその一點にも均しい明暗のうちに な草花などの、有機体の生命をもつものの一切と、言葉を (あるひは修羅の十億年) 交わすことが出来た。そればかりではない。無機物の石こ すでにはやくもその組立や質を變じ ろや土壌、岩石やその下の地層さえもがわたくしには、か しかもわたくしも印刷者も って命あったもの、いまも生命ある者のごとく見えていた。 それを変らないとして感ずることは さらに太陽や銀河や星、、宇宙、コスモスさえもが生命体 傾向としてはあり得ます であるかのごとくに見えたのだった。『よだかの星』や『烏 け だしわれわれがわれわれの感官や の北斗七星』、あれらの物語は、ひとりわたくしだけの、
風景や人物をかんずるやうに 「ア ・プリオリな総合判断」に過ぎなかったのか。まさか、そ そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに んな筈はない。あのトランクいっぱいの、イーハトヴのほ 記録や歴史、あるひは地史といふものも んとうの物語は、世界の真理の論料として、確かにわたく それのいろいろの論料といっしょに しが書き残したものだった。 (因果の時空的制約のもとに) デカルトによって中世のスコラを脱し、明晰さを取り戻し われわれがかんじてゐるのに過ぎません た理性の力。「ひとそれぞれ」、私たちのだれもがもつ、 おそらくこれから二千年もたったころは この主観という場所は、近代になって人間が手に入れた、 それ相當のちがった地質學が流用され 自分で考えるための大切な足場だ。このとき人間は「わた 相當した證據もまた次次過去から現出し くし」から「世界」を考える力を獲得した。これは人間に みんなは二千年ぐらゐ前には とって、古代ギリシャ2000年来の、第2の火の獲得と 青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ 言っていい。斯くして、単なる純粋悟性や純粋理性からす 新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層 る物の認識は、すべて単なる仮象にほかならず、真理は経 きらびやかな氷窒素のあたりから 験のうちにのみ存する。真理は体系のうちに存するのでは すてきな化石を發堀したり なく、経験のうちに、対象との出会いによって得られるも あるひは白堊紀砂岩の層面に のであり、認識にとって感性的契機がぜひとも必要なので 透明な人類の巨大な足跡を ある。この度、新進の哲学士のこの小論が、膨大な賢治論 発見するかもしれません 料のなかで小さな発見の足跡になればと願うばかりです。 すべてこれらの命題は これらの命題は、感性的直感と時間・空間のア・プリオリ
心象や時間それ自身の性質として な「現象」として、私の理性が的確に判断、処理し、四次 第四次延長のなかで主張されます 元連続体という相貌の図式をもって、主張されます。 大正十三年一月廿日 宮澤賢治 2011年11月23日 石川ロウ
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