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「花の窟神社」(はなのいわやじんじゃ)は、三重県熊野市有馬町に鎮座される神社で御祭神は伊弉冊尊 軻遇突智神で、花の窟は七里御浜に突出する一大岩で、ご神体と仰ぐいわおは高さ七十mあり、いわおの根元には祭壇を設け、白石を敷き詰め玉垣をめぐらし伊弉冊尊の拝殿としています。また南に軻遇突智神を拝する王子の窟の拝所があり、また神殿が無く巨岩を以って御神体とする自然崇拝の太古の信仰形態がそのまま残っています。もっとも、花の窟は明治以前は神社ではなく伊弉冊尊の御墓として見られていたため社殿が造られなかった事も頷けますが。
史料の初見は養老四年(720)に編纂された『日本書紀』神代の巻「一書に曰く伊弉冊尊、火神を生む時に炊かれて神退去りましぬ。故、紀伊の国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には花を以って祭る。又鼓吹幡旗を用いて、歌ひ舞ひて祭る」という記事で、これは花の窟の初見記事であると共に、花祭り・死者の祭り・民衆の神祭りの初見記事であると言えます。
平安時代の旅僧 増基法師の紀行文集であり長徳元年(995)に書かれた『いほぬし』には「この浜の人、花の窟のもとまで着きぬ。見れば、やがて岩屋の山なる中をうがちて。経を籠め奉りたるなりけり。『これは弥勒仏の出給はん世に、取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る』といふ。げに見奉れば、この世に似たる所にもあらず。卒塔婆の筈に埋もれたるなどあり。傍らに王子の岩屋といふあり。ただ松のかぎりある山なり。その中にいと濃き紅葉どもあり。むげに神の山と見ゆ」と書かれ、花の窟が墓として見られた証拠となります。延喜式式内社に入っていないのは墓として見られたからなんですね。
文化八(1811)年に成立した『紀伊名所図会』には「口有馬村の北一町ばかりの海辺にあり。境内東西六十五間、南北百十間、巌壁高さ二十七間にして南に面せり、窟前には方三間ばかりの壇を設け瑞垣をらして拝所を造れり。一に大般若の窟、隠窟、産立窟とも云ふ。華表(鳥居の事)の設けあれども神祠なし。伊弉冊尊を葬り奉りし所なりと云ふ。」という文章と共に今の風景とあまり変わらぬ姿の絵図が見られます。他に主な史料は多くありますが、また史料編でまとめましょう。
また、花の窟は熊野詣の流行も手伝い多くの人々が訪れ、あの白河上皇・西行法師・本居宣長・賀茂真も訪れ、和歌を遺しています。代表に挙げさせていただきますと、
紀の国や 花の窟に ひく縄の 長き世たえぬ 里の神わざ 本居宣長
咲きによふ 花のけしきを 見るからに 神の心ぞ そらに知らるる 白河上皇
というように皆、花の窟の神事や風景、神気を歌った歌が見られます。
花の窟神社と言えば、毎年二月及び十月の二日の大祭 「お綱かけ神事」が有名でありまして、この祭りは昭和四十四年三月二十八日に三重県無形文化財に指定されました。このお綱かけ神事は長さ約1260mのわらなわを編み、これを七つに折り束ねて180mの大綱とし、これに幡三旗の形を作り幡の下に時節の花(2月椿 10月菊)、扇をくくりつけ大綱をいわおの上から引き上げ、木の根方に結びつけ、これを浜辺に引いて境内の松の大樹のこずえに引渡し(今はこの松は枯れ、代わりにコンクリートの支柱になりました。大変立派な木だったそうです。)更に海浜を南方に引き延ばして境内南隅の松の根元に結び付けます。(これも無くなり、コンクリートに巻きます)この祭りの際、奉仕者は有馬町の人が選ばれ、7人の若人が白衣を着、供物と縄をいわおの頂上まで持って登ります。草鞋で登る過酷なもので、なかなか危険な奉仕と言えます。7人の若人の由緒は有馬町の伝承で、米作りの始まりが七人の常世の神の稲作りから始まったところから来ています。綱が七束なのも、これが理由です。また、歌舞でありますがこれは四人の有馬町の少女が巫女として奉仕し、花を奉ります。この舞は浦安の舞・乙女舞でありますが、明治以前は熊野那智大社に残る田楽舞 有馬舞であったと伝わっていますが、有馬町には今その姿は残っていません。明治に二つの舞に変更されたと聞きますが、これが本当ならば明治の神社政策の負の一面と言えますね。
謡は 「はなのいはやは神のいはやぞ うたえ子ら うたえ子ら」と伝わっています。
この祭りの盛況ぶりは大変なもので、全国からお綱を引こうと多くの人々が集まります。お綱に触れると大変有難いご利益があると言われています。
参拝者の方の、願意は主に安産祈願・健康祈願・航海安全・大漁豊作祈願で来られる方が多いと聞きます。
ちなみに神職さんは常勤ではありません・・・・・。クリーニング屋と近くの産田神社を兼務されていると聞きます。今回の参拝ではお会い出来なくて残念でした。明治以前は僧侶が祭祀を司り、明治の神仏分離ではその一族の人が神職になり、昭和中期までその一族の人が神職をされていました。
この花の窟の信仰を守ったのはなにも祭祀の責任者である神職・僧侶だけではありません。有馬の地の人々が1300年以上守り続けたのです。(町の古老は2300年と仰っていましたが、史料を重視して)これは驚くべき事例であると共に「祭祀とは個人のものではなく人々のもの」という日本精神の表れと言えます。
長文失礼しました。
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