朝露日記

誰かの為に祈る、それは人である証拠です。

大学での研究

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 現在、私が一番神道の諸問題の中で関心がある問題は「伝統の喪失」である。

戦後教育の徹底は、多くの日本人から国体の正しい有り方を見失わせ、愛国心を失わせ、日本人の精神を荒廃させ、そして先祖代々が神代から守ってきた敬神崇祖の精神を失わせた。神代から一貫として我が国の精神そのものであった神道が他の約十八万の宗教法人と並べられた事はかつてなかった屈辱である。特に私達戦後世代は、正しい日本の姿を知らない。先人からの伝え聞きから戦前の日本の姿を偲ぶのみである。このまま我々が正しき日本の姿を再興しなければ、現在のだらしないまるでアメリカの属国の様な日本を真の姿として認識し、戦前の日本をさらに遠いものとして伝えてしまう。当然、神道も今以上に苦しい立場に追い込まれるであろう。

我々若い神道人は、先人が命に代えて守ってくださった神道精神を伝える事の重みを感じなくてはならない。私共はどこか先人の築いた基盤、守ってこられたものに甘えた気持ちで乗りかかっていないだろうか。もし、甘い気持ちで神社に奉仕すればそれこそ、他宗教・諸外国・売国者にたちまち潰され、乗っ取られ、先人の思いを裏切り、祭神の祭祀を止めてしまうであろう。戦後まもなくの神道人が命を掛けて神道を守ったような強い決意と信念を私共は持たなくてはならない。
 

「伝統が失われている」「最近の若い奴は何も知らない」と、若輩を罵り、愚痴の種にするだけなら誰でも出来る。私共はいかにしてその「知らない」人々を教化し、正しき日本人の姿に導かなくてはならないか日々考え、そして実行する立場の人間である。人々を教化する為には自身も学び、神職として恥ずかしくない人間として自身を律し磨き上げるのが当然と言える。昨今の若者が乱れている理由も知ろうとせず、正そうともせず身内に愚痴をこぼしているだけでは本当の神職とは言えない。伝統の復活、正しき日本の再生は行動をしなければ実現しない。
 

 昨今の若者を中心とする日本人が正しい日本の姿を知らず、日本の伝統・精神、なにより神道に関して驚くほど無関心であるのは何故か。それは家庭での精神の継承がおろそかになっていているという事が大きく要因となっている。神棚を家族全員で毎日お祭りするのが当然だった時代に比べ、驚くほど現代の家庭の神棚の祭祀は減っている。家庭環境の変化、農業離れ、住宅環境の変化など多くの理由が考えられる。しかし、神棚を自分達の代からお祭りをしたいと社頭を慣れない素振りで訪ねる若者が存在するのも事実である。神棚をお祭りしない人々を冷たい目で見ず、神職自ら人々に近づき神棚の祭祀をうながし、少しでも神棚をお祭りしたいという希望の声を大切にし心を込めて説明する。それこそが日本の神棚の祭祀の復活に繋がる。神棚だけの祭祀を強要せず、家庭ごとに合った、そして失礼の無いお祀りの仕方を教える事も神職は心掛けなくてはならない。


 祈りに個人差があるように人には人の家庭の事情、住宅環境がある。寛容な心を以ってその家庭の祭祀を支えなくては、折角の神棚のお祭りへの関心も冷めてしまう。よく私は神棚を祭らない人々からその理由を聞くがその多くが「面倒」「必要ない」、そして「お祭りの仕方がわからない」という理由である。神道は言挙げしない宗教、背中の宗教と聞く。しかし、家庭での心の継承、神棚祭祀がされていない現代社会に生きる人々の為には神職が自分から少しでも近づいていかなくてはならない。

 参拝者、氏子崇敬者に対し高飛車な応対をする先輩神職を見ることがある。果たしてその様な神職が無関心な人々を教化できるのだろうか。変な偏見を余計にもたらすだけではないだろうか。勿論、低姿勢になるあまり低俗化を招くという恐れはある。しかしながら、現代社会に疲れきっている人々は果たして自分達を見てくれない神職を求めているのだろうか。人々は神社に癒しや安心感を求めて参拝しているのも事実である。
 
 神職として神明に奉仕するのは第一の使命である。しかし、神職の使命はそれだけではない。この変わり果てた世を再び、元の誇りに満ちた、自然豊かな、人々が和の心を大切にお互いを大切にしあう社会をつくり固め成す大切な使命がある。確かに大変な使命である。しかしながら、これほど大きな使命を頂ける神職という生き方は、大変幸せな生き方であると思う。

 消えた杜は努力して再びその地に年数を掛けて育てれば良い。失った伝統は、再び正しく伝えれば良い。廃れた祭祀は復活させ、以前よりもさらに心のこもったものにすれば良い。失ったものは確かに大きい。しかし、それは永遠に無くなった訳ではない。
神道人、宗教者、愛国者、いや日本人全体で一体となって努力すればきっと失ったものは帰ってくるはずである。

花の咲く今は

私の卒業論文は「花に関する祭りの研究」と題したものになりますが、研究や参拝見学は花の咲く今がピークになっています。

特に来週から再来週にかけては全国に花の祭りが行われます。有名なものを挙げますと、
奈良県 薬師寺 「花会式」 3月30日〜4月8日

京都府 今宮神社・川上大神宮・玄武神社の「やすらい祭り」 4月8日

奈良県 吉野金峰山寺「花供懺法会・花供会式 」4月11・12日

滋賀県 日吉大社 「花渡り祭」 4月13日


奈良県 大神神社摂社 狭井神社 「花鎮祭」4月18日

京都府 出雲大神宮 「花鎮祭」4月18日

京都府 元伊勢籠神社 「葵祭(藤祭)」4月25日

が挙げられます。

こりゃあ講義出られませんねぇ・・・・。部活も進路指導も。

ちなみに今は京都の今宮神社・玄武神社・川上大神宮の下調べと氏神さんの奉仕の為大阪の実家に戻っております。

やっぱ大阪は落ち着くわ〜。

花の窟 概略

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「花の窟神社」(はなのいわやじんじゃ)は、三重県熊野市有馬町に鎮座される神社で御祭神は伊弉冊尊 軻遇突智神で、花の窟は七里御浜に突出する一大岩で、ご神体と仰ぐいわおは高さ七十mあり、いわおの根元には祭壇を設け、白石を敷き詰め玉垣をめぐらし伊弉冊尊の拝殿としています。また南に軻遇突智神を拝する王子の窟の拝所があり、また神殿が無く巨岩を以って御神体とする自然崇拝の太古の信仰形態がそのまま残っています。もっとも、花の窟は明治以前は神社ではなく伊弉冊尊の御墓として見られていたため社殿が造られなかった事も頷けますが。


史料の初見は養老四年(720)に編纂された『日本書紀』神代の巻「一書に曰く伊弉冊尊、火神を生む時に炊かれて神退去りましぬ。故、紀伊の国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には花を以って祭る。又鼓吹幡旗を用いて、歌ひ舞ひて祭る」という記事で、これは花の窟の初見記事であると共に、花祭り・死者の祭り・民衆の神祭りの初見記事であると言えます。

平安時代の旅僧 増基法師の紀行文集であり長徳元年(995)に書かれた『いほぬし』には「この浜の人、花の窟のもとまで着きぬ。見れば、やがて岩屋の山なる中をうがちて。経を籠め奉りたるなりけり。『これは弥勒仏の出給はん世に、取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る』といふ。げに見奉れば、この世に似たる所にもあらず。卒塔婆の筈に埋もれたるなどあり。傍らに王子の岩屋といふあり。ただ松のかぎりある山なり。その中にいと濃き紅葉どもあり。むげに神の山と見ゆ」と書かれ、花の窟が墓として見られた証拠となります。延喜式式内社に入っていないのは墓として見られたからなんですね。

文化八(1811)年に成立した『紀伊名所図会』には「口有馬村の北一町ばかりの海辺にあり。境内東西六十五間、南北百十間、巌壁高さ二十七間にして南に面せり、窟前には方三間ばかりの壇を設け瑞垣をらして拝所を造れり。一に大般若の窟、隠窟、産立窟とも云ふ。華表(鳥居の事)の設けあれども神祠なし。伊弉冊尊を葬り奉りし所なりと云ふ。」という文章と共に今の風景とあまり変わらぬ姿の絵図が見られます。他に主な史料は多くありますが、また史料編でまとめましょう。

また、花の窟は熊野詣の流行も手伝い多くの人々が訪れ、あの白河上皇・西行法師・本居宣長・賀茂真も訪れ、和歌を遺しています。代表に挙げさせていただきますと、

紀の国や 花の窟に ひく縄の 長き世たえぬ 里の神わざ 本居宣長

咲きによふ 花のけしきを 見るからに 神の心ぞ そらに知らるる 白河上皇
というように皆、花の窟の神事や風景、神気を歌った歌が見られます。

花の窟神社と言えば、毎年二月及び十月の二日の大祭 「お綱かけ神事」が有名でありまして、この祭りは昭和四十四年三月二十八日に三重県無形文化財に指定されました。このお綱かけ神事は長さ約1260mのわらなわを編み、これを七つに折り束ねて180mの大綱とし、これに幡三旗の形を作り幡の下に時節の花(2月椿 10月菊)、扇をくくりつけ大綱をいわおの上から引き上げ、木の根方に結びつけ、これを浜辺に引いて境内の松の大樹のこずえに引渡し(今はこの松は枯れ、代わりにコンクリートの支柱になりました。大変立派な木だったそうです。)更に海浜を南方に引き延ばして境内南隅の松の根元に結び付けます。(これも無くなり、コンクリートに巻きます)この祭りの際、奉仕者は有馬町の人が選ばれ、7人の若人が白衣を着、供物と縄をいわおの頂上まで持って登ります。草鞋で登る過酷なもので、なかなか危険な奉仕と言えます。7人の若人の由緒は有馬町の伝承で、米作りの始まりが七人の常世の神の稲作りから始まったところから来ています。綱が七束なのも、これが理由です。また、歌舞でありますがこれは四人の有馬町の少女が巫女として奉仕し、花を奉ります。この舞は浦安の舞・乙女舞でありますが、明治以前は熊野那智大社に残る田楽舞 有馬舞であったと伝わっていますが、有馬町には今その姿は残っていません。明治に二つの舞に変更されたと聞きますが、これが本当ならば明治の神社政策の負の一面と言えますね。

謡は 「はなのいはやは神のいはやぞ うたえ子ら うたえ子ら」と伝わっています。

この祭りの盛況ぶりは大変なもので、全国からお綱を引こうと多くの人々が集まります。お綱に触れると大変有難いご利益があると言われています。

参拝者の方の、願意は主に安産祈願・健康祈願・航海安全・大漁豊作祈願で来られる方が多いと聞きます。

ちなみに神職さんは常勤ではありません・・・・・。クリーニング屋と近くの産田神社を兼務されていると聞きます。今回の参拝ではお会い出来なくて残念でした。明治以前は僧侶が祭祀を司り、明治の神仏分離ではその一族の人が神職になり、昭和中期までその一族の人が神職をされていました。

この花の窟の信仰を守ったのはなにも祭祀の責任者である神職・僧侶だけではありません。有馬の地の人々が1300年以上守り続けたのです。(町の古老は2300年と仰っていましたが、史料を重視して)これは驚くべき事例であると共に「祭祀とは個人のものではなく人々のもの」という日本精神の表れと言えます。

長文失礼しました。

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熊野市有馬町へ

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花祭りの史料の初見であり、古代からの風が残る「花の窟」を目指し、私は伊勢から車で向かったのですが・・・・その道のりは易しいものではありませんでした。当たり前ですが。

午前四時に起床し、潔斎の形である風呂に入り、髭を剃り髪を整え、スーツに着替え神棚に拝礼し玄関を出て車に乗り込みましたが・・・・。あかん、車の窓が凍結している!しかも氷が厚い!

伊勢の気候をなめていました。最近温かいので大丈夫かな、と思っていたのですが。仕方なく家に戻りやかんに水を入れ火にくべて暖めそれを車全体に掛けました。うーん、大阪生まれには慣れぬアクシデント・・・・・。近所の早起きばあちゃんがその間抜けな光景を見ていましたが、恥ずかしかったですねぇ。スーツ姿でやかんを片手に走っている光景なんて異様ですし。

さて、伊勢から熊野は有料道路無しで行けるのですが、道がすこぶる悪いのです。尾鷲市出身の友達が「あそこらへんの道は最悪」と言ってましたがその通りでした。・・・・そしてマナーも悪い。度会周辺でも暴走トラックが横行し、えらい煽ってくれました。勿論私はまだ捕まりたくないので法定速度を守っていましたが。(道が危ないからっていうのもありますが)
国道42号線という一本道に近い狭い道路を走りましたが、思いっきり崖や急カーブばかりの危険な道路です。ガードレールがところどころへこんでいます。熊野は世界遺産になりましたが気軽に車で行くのはまだまだ難しそうですね。熊野信仰は浄土への信仰ですが、こんな所で浄土へ行きたくないですよ・・・。(平成20年に新しい高速道路が出来るそうです。しかし、これの為に多くの山が削られる為あまりいい気はしませんが)

数々の車に煽られやっとの思いで長島に着きましたが、なんとも美しい透き通る海とそれを見下ろす山々。いやぁ、苦労した甲斐がありました。巨大な造船所もあり、下車しサークルkで買ったお茶を片手についつい長島の浜を歩いてしまいました。

その後、延々と山道・・・・・。尾鷲はさすがに栄えていましたが。日本一の降雨量を誇る尾鷲も今日は晴天とあって青空に灯台が堂々と立っていました。尾鷲から先は険しい山道ばかりで下を見るのが恐ろしい箇所ばかり・・・・・。熊野道は車で行く場合高所恐怖症の人にはお勧めできないです。地元の人はよくこんな恐ろしい道を100キロ近く出して走られますねぇ。

さて、念願の熊野市有馬町に着くと・・・・。そこは海が広がり奇岩が連なる、神々がおわす熊野の地でした。熊野の語源の説に「熊野→クム→カム=神」という説がありますがこの光景を見ればうなづけます。この息を呑むような美しい自然、ただ深い山の姿だけではないありとあらゆる自然の姿が「神」の姿である、と言えますね。

熊野へ

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私の卒業論文の題目は先生との長い話し合いの結果、「花に関する祭りの研究」となりました。古来から我が国が大切にして来た「花と祭り」。これは意外と考えられない要素ではありますが、我が国の精神と神祭りを解するに大切な見方であります。花を何故、神や死者に奉るのか。見えぬ大きな存在を和ませ、思いを込める花。

科学が大いに進歩した現代になっても我が国では今でも死者に花を献じ、道端のお地蔵さんから寺・神社まで花を供え、三枝祭・鎮花祭・花祭りなど花に関する祭りは絶える事はありません。

そもそも花を供えるようになったのは仏教が入ってから・・・・と一般に言われていますが、形式こそ仏教色に占められたものの、我が国には元々花を大いなる存在に奉ったとわかる記事が存在します。それが『日本書紀』の「花の窟」での祭祀の存在であります。また、三枝祭の存在から仏教以前に大和地方に花と酒を神に献ずる風習があった事がわかります。もし仏教が入った後の成立でしたら、もっと仏教臭い形式なはずです。(石清水八幡宮の法上会のごとく)

奉る花とは「祈りの心」であります。祈りの心の現われが美しい花なのです。

そのルーツともいえる存在が三重県熊野市 花の窟であります。私はそのルーツを求め、日帰りで伊勢から行くという無謀な行動をしたのですが・・・・・。

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