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大震災後、今住んでいるこの港町の石造物調査を始めています。調査といっても、自分一人で右手にカメラ、左手に地図と鉛筆を握りしめて歩き回り、出会った石仏や石塔、石祠などを手当たり次第に記録してゆくというもの。この地域に大地震が起これば、予想では15分後には5メートルの大津波が到達。実際、幕末の大津波では、この町は7軒(13軒とも)を除いて壊滅したといいます。その後、沖に堤防が作られたとはいえ、市街地のほとんどが海に面し、海抜1〜数メートルというこの町。一旦津波が来たならば、次回も壊滅は間違いないでしょう。
避難までの時間は10分あまり。以前から津波襲来が叫ばれている町であり、周囲を小高い岩山が囲んでいる小さな町ですから、ほとんどの人が避難できると思いますし、そう信じたいものです。でも津波が到達した地区の町並みは、石仏などの文化財は何も残らないでしょう。
そんなことを考えながら、昨日も歩き回りました。美しい町並み。これが恐らくは何も残らないのだと思うと心が沈みます。そんな時、一人の男性に声をかけられました。この人、地元ケーブルテレビで定期的にこの町の石仏や仏像についてなど、話をさせていただいているのですが、その番組を見てくれているとのこと。この町の歴史を愛し、色々と勉強されている方でした。そんなこんなで1時間余り語り込みましたが、その時に見せていただいたのがこの写真です。
ところでこの町、江戸時代の地図と現在の町並みを比較すると、現在の方が道路一本分、町並みが拡がっています。さらに良く観察すると、海岸沿いにあるはずの船宿が、道路一本分、町中に並んでいます。つまりこの町は地図が作られた後、町域が拡大されたのです。その契機となったのはこの町を襲い、全町を壊滅させた嘉永七年(1854)の大津波でした。
話を写真に戻すと、この写真、この町で道路工事があった時、先ほどの男性が撮影したものだそうです。底にこぶし大の敷石をした上に、石垣が積まれています。ところでこの石垣、左と右では積み方が大きく違っています。実は右が古くて、江戸時代初期、この町が綿密な都市計画に基づいて整備されたときに積まれたもの。江戸時代のほとんどの時期の港の護岸です。そして左の乱雑な石積みこそが、大津波後、被災した家屋や蔵の石材を用いて積まれた、新しい護岸なのです。
この写真を見て色々な感想があろうかと思います。積まれた大量の石材に破壊された町を思い、甚大な被害と被災者の悲劇を思う方。あるいは積み方の違いに技術の衰退を見る人。私はといえばこの写真に、震災と大津波を生き抜き、町を立派に再建した先人の姿と情熱を感じたのです。復興。テレビをつければ色々な人の口から聞くことができる言葉ですが、私は一枚の写真から、大災害によって壊滅した一つの町が甦った現場を目の当たりにする事ができました。
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