私の闘病記

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2冊の 障害者手帳〜

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   〜当たり前のことが 当たり前でなくなった時〜

  私は、28歳で離婚してからの 3年間の記憶が ほとんどない。
  ただ、家にいる時は、ヘッドフォンを して 毎日天井を 見ながら 音楽を聴いていたように
  思う。
  
  私は  障害を持ち カラダが 不自由になるまでは 歩けること、手を動かすこと
  話すこと・・すべてが 当たり前と 思って生きてきたように 思う。
  おそらく、その頃の私に 「なぜ、歩けるの?」と 聞けば「当たり前でしょ?」と
  答えて いたかも しれない。
  しかし、カラダが 不自由になると 一時 精神まで 病む人は多いのではないかと思う。

  いままで、当たり前として 出来てきたことが、突然出来なくなって、自分自身に とまど
  って しまったり、自分のカラダに慣れるまでには、時間が かかるものだ。
  
  私の 趣味 ストレス解消方は 掃除であった。
  それは、小さい頃から、掃除は 私にとって 一つの遊びでもあった。
  その掃除すら 出来ないカラダになって、私には ストレス解消ということが 出来なくなった。
  そこから、私の精神は 病んでいった。

  寝たきりの自分が 許せない。
  何も 出来ない自分が 許せない。天井を見て 寝ながら 「私は もう 一生このまま
  なのではないだろうか?」・・と 思ったことも 何度もあった。

  ある日、私は 動かせる右手で 自分の左手首を 13箇所切った。
  ただ、その時は 死ぬ気はない。  自分が いやで、許せず 自傷行為をしたのである。
    そして、入院した。
  その時、あの お母さん(前書いた、脳腫瘍の小川さん)と、会った。
  おかあさんは、言葉は 話せないが 私の ぐるぐる巻きの包帯をみて、私の様子を
  悟り 私に 向かって しかめ面をし、首を振った。
  小川さんの 言いたいことは すぐに わかった。
    「そんな ことをしてはだめ」と・・・・

   私は おかあさんに、「大丈夫。もう、しないよ。しないよ。」と言った。

   うつ、分裂、パニック・・いったい いくつの病名がついたのだろう。
   あれから、私は、あらゆる本を 読み どうにかして この苦しさから 逃れたいと
   もがき苦しんだ。 来る日も、来る日も 抜け出したい 抜けだせないの 繰り返しであった。

   身体障害者手帳を、受け取ってから 15年になるだろうか、その 3年後
   精神障害者手帳・・・しかし・・今  言えることは うつからの、脱出は出来る・・と
   いうことである。
   完全に 治るというのではなく、波のりが うまくなる・・ということである。

   完治は 期待しない。しかし、どんな人にも、波の大きな日 小さな日は ある。
   その波乗りが うまく 出来るようになった時 自分で 今日の自分を どのような
   状態か、判断することが 出来るようになる。
     疲れたら 休めと言うが、時々 自分をメンテナンスしよう・・

   今日は、自分のメンテナンスの日・・
   だから、一日 寝ていてもいいじゃない?
   いつ、メンテナンス 終わりますか?
    今回は、少し時間が かかります・・なんていう日が あっても おかしくないわけだ。

   障害を、持っていなくても 同じこと。少し自分の、メンテナンスの日を 作ってあげようよ。
   これから、まだまだ、先は 長いのだから・・・

★今 私は 自分のカラダの マヒにも 慣れました。★

            〜写真は 上海に行った 友人に もらいました。〜

20代の自分 1

 
 N,O 14

 家に帰ってから、私は酒屋を手伝い始めた。髪は、まだ伸びていなかったが、そのままの頭に
 めがね、トレーナーに、ジーンズといつも、同じ格好で。だが、発作は、繰り返し起こっ
 ていた。発作が起きそうになると、私は、急いで店の奥にはいる、すぐ、いつもの硬直がはじまり
 耳鳴りがして、意識を失った。しかし、私はどうにか子供と暮らしたかったので、発作の時は、顔
 を横に向けつばが、口の中にたまらないようにした。「口につばが、たまり、呼吸困難になりあぶ
 ない」と、医師に言われていたからである。身体もマヒがあり、いつも、恐怖感に襲われていた。

 家は駅近くだが、田舎なので、あまり店がなかったため、繁盛したが、休みはまったくなく、
 朝9時から、夜は、9時、10時まであけていた。
 母も店を手伝ってくれていたが、食事を作ったりする暇などなかった。いつも、店が終わってから
 外食か、てんやもの。店と車には、無線がついていた。
 夫は、よく無線で連絡しても帰ってこない日や、応答がない日があり、配達出来ず、店の電話が
 苦情だらけで、謝りっぱなしで、電話を持ったまま発作を起こしたこともある。
 
 子供達と暮らせるようになったのは、娘が、2歳過ぎてからで、近所に同じ年頃の子供も多く
 家の前は畑だったり、すぐ土手があったので、子供達は、元気よく遊んでいた。
 娘はお兄ちゃんっ子で、外で遊んでいても、右へ走りながらも「おにいちゃーん」左へ息子を
 追いかけながらも、「おにいちゃーん」と叫びながら走るので、いつも、どこで遊んでいるかが
 わかった。
 子供達と暮らせるようになってから、何ヶ月かした頃から、夫の行動がおかしいことに気づいた。
 店の売上金がなくなったり、大事な配達へいっていなかったり、知らないうちに100万もする
 システムソーラーを取り付けていたりと、おかしかった。今でこそ、システムソーラーはいいが
 当時は、お湯になりますっていっても、冷たかったり、ほとんど役にたたない。夫は、当時必要
 のないファックスを買ってみたり・・・そのうち、近所にもお金を貸すようになっていた。
 しらずのうちに貸してしまうので、私はいつのまにか、発作もちの、まだ若い借金とりにならざる
 を得なかった。「5日にかえしてくれるから」といっても、返るわけがない。しかたなく、私が
 電話をすると、「家の息子が、借りたという証拠でも、あるんですか?」と言われる。
 外に出られない私に変わって母までもが、近所のおくさんの所へ、借金の取立てやになって、大変
 であった。そうしては、また、発作を起こしたが、ある日、子供のいる前で、発作を起こしそうに
 なった。「おかあさん、今から発作起こすけど、大丈夫だからね。大丈夫だからね。」と横にな
 り顔を横にむけて、硬直して意識を失っていった。しばらくして、目をあけると、息子が娘と
 おもちゃで遊んでいた。私が発作を起こす前、私の叫びに息子がうなずいてるのを憶えている。
 おそらく、彼は妹が、泣かないように自分を落ち着かせていたに違いない。
 幼い子供が、可愛そうでならなかった。

 店は繁盛しても、年中無休で、私は発作を起こし、子供達をどこかへ連れて行くなどということは
 1度もなかった。そのうち、人に貸していく分マイナスになり、夫は「もう、しない」と言っては
 繰り返しで、私の病気も悪くなり脳外科へ入院した。体力はもちろんはじめからないが、精神的   
 にも参っていたし、近所の奥さんと、不倫などということは、とっくに知っていたが、人にいわれて 
 も私には、どうでもよいことであった。これを、読んでくれている人も、またかと思うだろうが、
 そう、いつも、またかなのである。
 そして、病院で,また、偶然にも小川さんと同じ部屋になるのである。

 
 昨日は、いつもの病院だった。毎年入院が当たり前だった私だが、ここ5年入院はしていない。
 今の先生は、精神・神経科の女医で、私にとって初めての女の先生だったが、とても男っぽく
 サバサバしていて、「薬を減らしたい」と私が、最初にいった時「どれ、いらない?」と、よく
 話を聞いてくれて、今は、最低限飲まなければならない薬だけにしてある。
 しかも、ここ2年は、てんかん薬のグラム数を、0・1ずつ減らしている。たとえ一生飲まなければ
 いけないにしても、減らしてもらえれば、なんだか自分が良くなっている気がして、希望がもてる
 ものだ。おかげで、「晩年はいいことあるよ。」という言葉が現実になるような気がする・・と
 いうより現実にしてみせる。「色々あって、よく不良にならなかったねぇ」などと昔言われたこと
 もあったが、病気に襲われて、なる暇がなかったというのが正解かもしれない。
 だからか・・今、中年不良になろうとしている。

 N、O 13  自分でない自分

 病院に入院して、くる日もくる日も、同じことの繰り返しをしているうちに私はまわりの風景も
 見回すようになっていた。そのうち、えっちゃんという18歳の子と話をするようになった。
 彼女は「家庭内暴力で、入ったんです。」といっていたが、私には意味がわからなかった。
 何度かきいているうち、彼女が、両親と兄の4人家族であり、彼女が、家族に暴力を振るっていた
 というのだ。「お兄ちゃんいるんでしょう?」と聞くと、「はい。兄も散々殴りました。」
 という、でも、彼女もここへ来て目覚めたらしい。「勉強しようと思うんです。」といった。

 ある夜、眠れず食堂へ行くと、食堂で彼女が勉強をしていたので、邪魔をしないように、灰皿を
 持って来て、少し離れた所で、煙草を吸っていた。するとそこへ、えみこが、彼女の横へすわり
 「ねぇ、何してんのよ〜」と彼女のことを覗きこむように言った。えっちゃんが、黙ってひとつ
 となりの席にずれると、えみこもまた、ずれて、「ねぇ、何それ?いいじゃないよ〜」としつこく
 覗きこんでいた。「勉強してるんです。」とえっちゃんがいうと、「みせてよ。みせて。」と
 あまりのしつこさに、みている私は耐えかねて、「やめな!勉強してるっていってんだろ!」と
 いうと、「別にみるくらいいいじゃない」というので、私は、右足を片方椅子にのせ、煙草を
 吸いながら、「やめろっていってんだろが!!このバカ女!!」と怒鳴った。
 私はこんな言葉は、使わないし、切れたことなどなかったが、えみこには、切れた。
 「人の嫌がることはしないって、教えてやってんだよ。それくらい覚えろよ。!!」などと、
 今思えば、自分に笑ってしまうが・・。
 次の日、えっちゃんが、「昨日は、ありがとう。」といってきたが、なんとなく自分が、恥ずかし
 かった。

 入浴の日が、週に3回あった。看護婦が、「もう、あの人1ヶ月入ってないから、いれなきゃ。」
 といって着替えをいやがるものもいれば、歯を磨かないものなどは、何人もいた。
 「あいたら、どんどん入って!」と言うので、私も服を脱いだ。浴室は、10畳位の広さだったが
 「みんな、はやくはいってよ。」という怒鳴り声で、湯船につかると、そのお湯の汚さは、垢が
 いっぱいで、入ったら余計きたなくなるんじゃないかと思うくらいだった。
 風呂から、でると、素っ裸で走っているものもいれば、シャンプーしながら、廊下にいるもの
 など、風呂の日は、すさまじかった。

 「明日、私退院するのよ。」と、みっちゃんが言ってきたので、「本当?よかったね。」という
 と、「うん。やっと子供のとこ帰れる」と喜んでいた。みっちゃんのご主人が、まだ、2歳にな
 ったばかりの娘さんを連れ、よく来ていた。みっちゃんはご主人とも仲よさそうで、子供が、来る
 と「家の娘、家の娘」といい、ほほえましかった。その日も、ご主人が子供ときて、彼女が喜んで
 いたが、20分位すると、大きな声とともに、「いやだぁ〜いやだぁ〜」とみっちゃんが、子供
 と引き放されるようようにナースステーションから、出てきた。看護婦が、みっちゃんを押さえ
 子供を抱いたご主人が、足早に出て行った。みっちゃんが、退院できないときかされた。
 みっちゃんは、「なんで?なんで?」と何度も泣き叫んでいた。私も何故なのか不思議だった。

 私の面会に、幼馴染がきた。彼はアメリカに住み精神科医をやっている。何故か子供の頃から、
 1番仲の良い友達で、医師ということもあり、私の病には理解があった。
 「ここは、なんで、鍵かかるんだろうね、日本はおかしいね。」といった。私は、何故この病院
 に来たかが、やっとわかった。前の病院では、鍵がかからない・・つまり自殺しそうなものは、
 面倒が、みれない。ここで、自分が生きていることに気がついた。「帰るよ。」と私は、彼に
 言った。彼は「お母さんと迎えにくるよ」といってくれた。
 次の日、院長がきたので、お話しがあります。といい、ナースステーションで「ありがとうござ
 いました。退院します。」というと、院長は一瞬驚いた顔をしたが、「誰かくるの?お母さんか・
 まぁ、君の場合は来てくれる人が、いるから・・退院していいですよ。」といった。
 そして、その日のうちに退院したのである。私は、この精神病院の出来事を聞いて欲しかった。
 ほとんど診察せず、なんの薬を、みんな飲まされているのかわかっていない。汚い風呂、トイレ
 まったく、プライバシーのない部屋。院長の傲慢さ。大理石の玄関・・・これが何をものがたって
 いるのか・・・20年以上も入院している患者が、話した言葉も・・

 私はここにいた、29日間を忘れない。

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 N、O 12  自分でない自分
  
 精神病院と呼ばれる所に何故転院となったのかは、のちに知ったことだが、私が、窓の外を今にも
 落ちそうな体勢で、覗いていたので落ちたら・・つまり自殺してしまうのでは、と思われたらしい。
 が、私の頭の中は何にもなかった。自分が、生きていることもわかってはいないし,考えすらなか
 った。

 その病院は、6階建てで、入り口を入ると大理石の床が見事に広がっていた。
 どこが、診察室なのか・・私は、事務所に通され手続きをとり、6階へ入院することになった。
 これも、のちに知ることだが、その6階は、女性病棟の重症患者の部屋だった。
 エレベーターで、6階へ着くと、すぐドアがあり、案内した看護婦が、ジャラジャラといっぱい
 ある鍵の一本で、そのドアを開けようとしたが、何故か、その上のインターホンで中の看護婦を
 呼び、「ちょっと、どけて!」といった。ガラスごしに看護婦が、ドアの目の前の患者をどけて、
 私を招きいれた。そして、鍵をかけた。入るとすぐテーブルが、並んでいて「ここで、みんなで
 御飯たべるのよ。」と言った。「ここ今日から、つかってね。ナイフや、かみそりは、持ってい
 ない?」ときかれた。「持っていません。」「そう、それから、お薬はこちらで管理するから」
 といい、戻っていった。病室は、20人位が一緒で、カーテンなどという仕切りはなく、プライ
 バシーはいっさいない。廊下との間にある引戸も開け放たれていた。何人もの患者が、話しかけて
 きた。「どしたの?」「これあげる。」「入院何回目?」などと質問攻めだったが、みな、どこが、
 どう悪くて、ここにいるのか、まったくわからない人ばかりであった。その日の夕食は、長いテー
 ブルで、みんなで食べた。夕食は、窓まで取りに行く。少しカラダの不自由な私をかばい、
 「とってきてあげるよ。」「ここすわりなよ。」と、みんなやさしかった。しかし、少しづつ私は
 刑務所のようなその病院をみて、疑問を感じるようになる。

 夕飯が終わると、「水をくんでならんで」と声が
 かかる。といっせいにコップだけを持った列ができた。なんだろう?と思っていると、看護婦  
 の前で一人一人が、口をあける。その中に薬をほおりこむと、持っている水で、自分が流し込むと
 いうわけだ。それが、終わるとそれぞれが、好きなことをしている。食堂の横には、灰皿が3つあ
 り、ほとんどの人は、煙草を吸っている。床に寝転がり、いつも煙草を吸っている,えみこという
 女が、「ねえ、なんできたの?私はね〜精神分裂病で、22年入院してるの〜」といった。
 「じゃあ、もう治ってるんじゃないんですか?」というと、「いまさら、働けないでしょう?
 生活保護もらってるし、おこづかいは、ここだいたい1万位しかくれないけどさ。煙草買うだけ」
 といった。驚きだった。ここの病院は、治療は投げ出しているのか?と・・・
 もう一人まさこという女がいて、ほとんど誰とも話しをしないのだが、灰皿をあけては、まだ、
 吸えそうな煙草を見つけ、吸っていた。だからであろう、彼女の手は、いつも真っ黒であった。

 その日、消灯前の薬があった。また、列でならび薬をほおリこまれた。しかし、入院初日、私は
 思いもよらない経験をした。夜中トイレに行きたくなったのだと思う。立ち上がろうとすると、
 転び這いつくばっても中々前に進めない。やっとの思いで、廊下に出た、しかし記憶は途切れ
 途切れ何度も転び這っては、やっとの思いで、トイレについた。そこまで、どれくらいかかった
 だろうか、トイレに入ってからも、トイレで転び、また、這いつくばって、部屋にかえった・・
 と思うが憶えてはいない。しかし、目覚めたのはベッドの上。私は、何を飲まされたのだろう?
 午後、院長が現れた。そこでは、診察というものはほとんどおこなわない。だが、ナースステー
 ションにききにいった。「昨日飲んだ、私の薬はなんですか?」と院長は「あ、軽い睡眠薬ね。」
 「何錠ですか?」「えっと、5錠だよ。でもね、軽いから大丈夫。」「私、昨日トイレにもまと
 もにいけない位、フラフラでした。かるくても、5錠は多くないですか?」というと、「じゃあ、
 今日から、少し減らそうね」といった。
 私は、いま思えば、そこでは特におかしかった。煙草を吸うようになっていた。もちろん、私の
 脳血管障害からして、煙草は絶対にいけないものなのだが、そこではそうせずにはいられなかった。
 「ね〜1本頂戴よ〜」とえみこが、あちら、こちらから煙草をねだる。ものすごく太っていて、め
 がねをかけて、汚い床に寝転がっていると、とても醜いものに見えた。他にも、なぜか、長ぐつを
 履いて、両手に紙袋をさげて、2時間以上もじっと、入り口の前で、たっているものもいれば、
 1時間以上、ハンカチを洗い続けてるもの、お化粧をして綺麗な細身の女性が、急に走りだして、
 看護婦3人に押さえられ、薬を口に無理やり入れられていたが、それをバーっと、吐き出す光景
 も見た。

 そのうちの落ち着いた感じの、さやこという人が、話しかけてきた。「もう、まともな人もいるの
 よ。私も、おかしくないけど、精神病院ってことで、身内すら、もうこない。引き取り手がないと
 退院できないのよ。弟が、たまに来て、差し入れしてくれるけど、入ってくる生活保護は、この病院
 が受け取り、薬も飲んでいないけど、ここにいる。もう、23年よ。あなたも早く引き取り手が
 いるうち出ないと大変なことになるわよ。」といった。「あの押さえられた女性ね・・中学校の先生
 だったの。綺麗な人でしょ?入院当初は、あんなんでなかったのに・・どうしてかしらね。」と
 いった。窓は、ほとんど開かない、太い鉄格子が、張り巡らされ、個室が、二つあった。暴れたり
 抵抗するものをいれるらしい。個室は、刑務所と同じで、トイレの便器の隣に、ベッドが、あり、
 向こう側に、鉄格子その下から、看護婦が、食事を入れる窓があった。
 ここで、違う自分が、目覚めたのを感じた。
 

自分でない自分 「1」

 今日、いつもの美容院の割引券を探していて、ふと考えた。今の美容院では、カットがいくらで、
 カラーがいくらで、計いくらという領収書をくれるけど、今まで行った美容院では、合計しか
 でていなかったっけ。時々高いなぁ〜なんて思ったこともあったけど、去年は、2回しかいって
 いないし、あまりいかないので、いいかげんだったが、これからは意識してしまうかもなぁ〜
 個人事業の私は、税金にマヒしたくないので、引き落としにはしない。全部、面倒だが払いに
 いっている。毎年思うのは、なんだこの税金っていうような税金とその高さだ。春は、特に振込み
 用紙が束のように送られてきて、またか、またかと思っていると、税金の夢まで見てしまう。
 サラリーマンから、税金をとるのは取りやすいから・・なんていう話しもあるがそうだろうなぁ〜
 私のように税金の夢なんてみないからでないかなぁ〜。ホントにすごいぞ。

 N、O 11  自分でない自分
 1984年、下の子も もう1歳半になっていた。その間、私は子育てをしていない。
 2度目の開頭手術で、カラダも動かず、言葉もでなくなっていた私は、精神をやんでいた。
 あの頃の私を覚えていない部分もあれば、たぶん夢でなければ、私はこんな自分だったと
 思い出して、書いていきたい。リハビリも前の年のように一生懸命だった自分は消えていた。
 ただ、救いだったのは、小川さんが、私の前のベッドであり、言葉片言でありながらも、よく
 話しかけてくれた。小川さんは、いつも明るく、笑顔がとても素敵な人で、その笑顔に誘われて
 言葉のでない、「あれ、あれ・・ん・・ね〜」と話し合う自分達に笑いあうようになっていった。
 自分で、自分がおかしかった。しかし、それが、自然と言葉のリハビリにもなり、言葉という
 ものを取り戻していったが、文を組み立てて話す事は、今現在も出来てはいない。

 カラダのリハビリは、また、同じように繰り返され、どうにか、自分で、ゆっくりと車椅子を
 動かせるようにもなった。しかし、私は幻覚をみるようになっていた。
 誰かが、いつも話しかけているような気になったり、瞬間発作という、1秒の時もあれば、1分
 位、何かをしているのに、その間の事を憶えていなかったりそんな自分が恐ろしかった。
 もちろん、その間も発作は、たびたび起きていた。
 しかし、この状態のまま、私は退院する。家にかえっても、横に寝ているか、発作を起こしてい
 るか、毎日そんなことの繰り返しで、その頃の私は、子供のことでさえ、忘れていたのである。
 今思えば、もっと子供達をだっこし、おんぶし頬すりよせて、おければどんなによかったかとさえ
 思ったりもするのだが、当時の私のことを考えれば、仕方のないことである。 
 しかし、退院しても、また、2ヶ月で入院と、入、退院の繰り返しだった。そうして私は、カラダは
 杖をついて、歩けるまでには、なっていたが、精神状態はおかしかった。

 ある日私は、何をしていたのか、病院の廊下で杖をついて歩いていたか、ボーっとしていたかの時
 急に看護婦に肩を抱かれ、「こっち、いきましょう。」と言われた。ナースステーションに
 連れて行かれ、座らされ「ここにいてね。いてね。」と言われた。何やら、看護婦が、医師に
 耳打ちをした。しばらくして、医師が私の前にきて、座り、こう言った。「あのね・・わかる?
 よく聞いてね・・・病院をね、ここに通うけどね、入院するところ、移ろうね」私は意味が、
 わからず、「どうしてですか?」ときいたが、はっきりした理由はおしえてもらえず、私は、転院
 することになった。母が付き添い、タクシーに乗り運転手に転院先の病院の名を告げると、運転手
 が、運転しながら、こういった。「あの病院さ〜今新しく立て直ししたんだけど、昔は親にあそこ
 には近づくな。っていわれたんだよ〜悲鳴や、わめき声がしてね〜」と言った。
 私が着いた先は・・そう偏見のもたれている、精神病院とよばれる所であった。

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