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これもまさにパラドックス↓
目覚めに関してあなたができることは何もない。
目覚めのプロセスは一つの恩寵として始まる。
自分で起こすことはできないし、そのための準備をしたり、そのために功績を積み重ねていくこともできない。きちんと段階を踏んでいけば到達できるというものではないのだ。
何かしようとしても、それは目覚めや悟りを価値ある所有物とし、自分をもっと重要に大きく見せようとエゴの試みになってしまうだろう。目覚めの代わりに「概念」を精神に付け足すか、目覚めた人はこうだろうとイメージを描き、そのイメージ通りに生きようとするだけになる。(当然)他人のイメージに合わせて生きることは、真正な生き方ではない。
ありのままの自分を見失い、‘いい人’を演じてしまうありがちなこと。何かに縛られているような窮屈さや頑なな印象が伴う。言いかえると、そのままの自分の不完全さを無意識に宣言、証明、実践しているようなものなのでしょう。
意識はすでに目覚めている。
『Stillness Speaks』↓
「正しい人」になることによって、自分が優越なポジションにいるような錯覚におちいり、ニセの自己であるエゴを増大させているのです。他人や物事を悪者にし、自分を「正しい人」扱いすることによって、日常的に抱いている「わたしは不完全な人間です」という自己認識に、知らず知らずのうちに拍車をかけるしくみになっています。
あなたの身近に、こんな人はいませんか?
自分はもちろん、まわりの人をも惨めにして、不幸のウィルスを撒き散らすことだけが、人生の目的のように見える人。そのような人たちを赦してください。なぜなら、その人たちも、人類の意識の覚醒において、大切な役割の一端を担っているからです。エゴ的意識という悪夢、いいかえるなら「非放下状態」に拍車をかける役目を果たしているのです。彼らのしていることに、なんら個人的な悪意はありません。それは、彼らの「本当の姿」ではないからです。
「わたしの物語」がなかったら、人生は、どんなにシンプルになることでしょう。
レッテル貼りは、たしかに根強い習慣かもしれませんが、それは、かならず克服可能です。食器を落として割ってしまっても、ぬかるみに足を取られて転んでも、小さなことから徐々に、「嫌だ」とか「痛ましい」などのレッテル貼りをやめる練習をはじめてみてください。その瞬間の「そうであるもの」「事実」を、いさぎよく受け入れられますか?
思えば、起こっているコトというのは常に中立ですね。
善悪のレベルを超越してください。レベル貼りの習慣を超えると、宇宙のパワーがあなたを通して働きだします。出来事に対してリアクションしないという姿勢を貫くとき、それまで「悪」と見えていたものは、即座に、あるいは、時間の経過と共に、生命パワーを通して、好転していくものです。
魂の求道者は、未来に悟りをひらこうとします。
「求める者」であるということ自体がすでに、未来を必要とすることを暗示しているからです。
もしあなたが、未来に悟りをひらけると信じているならば、それが、あなたにとって真実となります。
すなわち、「本当の自分」になるためには、時間など必要ないと気づくまで、時間が必要になってしまうのです。
なんであれ、完全に受け入れるなら、あなたは平和へと導かれます。たとえそれが、自分が抵抗していることの受容であろうと、受け入れ不可能なことの受容であろうと。
人生を放っておきましょう。逆らわず、そのままにしておくのです。
自分自身を、万象万物が発生する源である意識と知ることによって、出来事に依存することをやめ、状況、環境の中に自己を見つけようとする習性から解放されます。いいかえるなら、どんな出来事が起こるか、あるいは起こらないかは、どっちでもよくなります。物事の重要性、深刻さは薄れはじめます。代わりに「遊び心」が芽生えます。世界は、宇宙が繰り広げるダンス━形態のダンス━であり、それ以上でもそれ以下でもない、そう悟るのです。
『ニュー・アース』
起こるべきでないのに起こることなどないのだ。つまり偉大なる全体とその目的の一部でないことなど、いっさい起こらない。
ほとんどの人の現実は… 何かを認識するとすぐに、幻の自己であるエゴがそれに名前をつけてラベルを貼り、解釈し、何かと比較し、好悪や善悪を決める。これは、思考の形に、モノの意識に閉じこめられている。この無意識の強迫的なラベル貼りがやまない限り、少なくともその行為に気がついて観察できるようにならない限り、スピリチュアルな目覚めはない。
未来に救済を求めるなら、無意識のうちに自分の心に救済を求めることになる。つまり形に、エゴの罠に落ちる。なぜなら、私たちを解放するのは、現在のこの瞬間だけなのだから。
そこに気づくこと、それが目覚めである。
自分の本質が意識であることに気づき、その本質をすべての「他者」、生きとし生けるもののなかに認める人だ。大いなるものに身を委ね、それゆえに全体及びすべての源との一体感を覚えている。
環境が変わらない人もいる。その人たちにとっては、何をするかは同じでどのようにするかだけが変化する。
受け入れると、安らかな気持ちで行動できる。微妙な振動のエネルギーとして行動に流れ込む。実は受け身ではなく、積極的で創造的な状態だ。そのエネルギーを流入させる方法の一つが、抵抗せず、降参すること。
いまこの瞬間に全身全霊をこめて行動すれば、どんな行動でも楽しむことができる。もっと正確に言うなら、外形的な行動が楽しいのではなく、行動に流れ込む内なる意識の次元が楽しくなる。
人生の主たる目的は、意識の光をこの世界に持ち込むことだと気づいて、することなすことすべてを意識のための道具にする人が増えていけば、新しい地が生まれる。「大いなる存在(Being)の喜びは、意識的であることの喜びである。
情熱とは心のなかの青写真を物理的な次元に移し替える力だ。これこそが心の創造的な活用法であり、だからこそそこでは欠落も欲望も関係ない。目覚めた行動の第三のモードである情熱。情熱を燃やすとは、自分がしていることに深い喜びを感じると同時に、目指す目標やビジョンの要素が加わることを意味する。行動の喜びに目標が加わると、エネルギーの場というか振動数が変化する。情熱にかりたてられた創造的な活動のさなかには、何をしてもとてつもない緊張感とエネルギーが伴うだろう。傍観者にはストレスの重圧があるように見えるかもしれないが、情熱の緊張感はストレスとは関係ない。ストレスと違って情熱はエネルギーの振動数が高いので、宇宙の創造力と共鳴する。情熱という語源は、「神」や「神に憑かれた」という意味を含む。
たとえば、先日のブログ『絹谷幸二画伯の祈りのカンバス』でみたものもまさにこれ。案外、私たちは何でも、目にしたそのものより、背後にあるエネルギーを感じとっているのかもしれませんね。http://blogs.yahoo.co.jp/wanchan1wan/37531189.html
いまこの瞬間は、全体(世界、宇宙、存在するすべて)と不可分、そのとき全体、つまり生命・人生そのものの総体があなたを通じて動き出す。
自分は回路で、形として現れていないあらゆる生命の源から発するエネルギーが自分を通じて流れ、すべての人々のために役立つことを感じ取ろう。
目覚めの恩寵には責任が伴う。
日々の暮らしを通じて、「ただ在ること」と他者との関わりを通じて、新しい意識を生み出すことだ。
『The Power of NOW』↓
「私は瞑想を日課にし、これまで参加してきたワークショップも数知れません。精神性を高める本も山ほど読みましたし、他にもかなりがんばりました。なぜそれ(永続的な心の平安)を見つけられないのでしょう?ほかに何をすればいいのでしょう?」
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「自分の外側に心の平安を求めているからです。もしかすると次のワークショップに答えがあるかもしれない、…このように“探す”という姿勢でいるかぎり、この境地に達することはできません。探してはいけません。そうすると無意識のうちに、軋轢や抵抗を心につくりだすことになります。自分が“非・平和”にいることを、完全に受け入れた瞬間、“非・平和”は、平和に変わります。わたしたちが“何か”を完全に受け入れると、それがどんなものでも、わたしたちはその“何か”を超越することができるのです。これが受け入れることから生まれる奇跡です」
『ポケットの中のダイアモンド』↓
「私が何より欲しいのは、真理、神、そして覚醒です━なぜ私にはそれを手に入れることができないのでしょうか?」
ガンガジは、もしほんとうに何にもまして求めているならば、それらはもうすでにここにあることに気づくはずだと述べています。
それがもうすでにここにあることに気づかないのは、条件付きでそれを求めているからなのです。それはあくまでも自分の望むように、自分の条件に従った形で・・・・・と考えているのではありませんか?傷つくのを防ぐために使っているエネルギーを感じることができるでしょうか?自分がどうやって、どんな思考習慣を使って傷つくのを防ごうとしているかを検証してごらんなさい。繰り返し起こっているパターンを見つけ、傷つくのを防ぐ代わりにあなたが支払っている代償、つまりそのためにあなたがどれほど時間とエネルギーを費やしているかを感じてごらんなさい。今、この瞬間、あなたがそれら全部に心を開き、何も防ごうとせず、すべてを喜んで受け入れたら、何が起きるのでしょうか?自由になるために必要なものなど一つもないとしたらどうでしょうか?
模索をやめる、ということは真実を知るのを諦める、ということではありません。真実を探しに行くのをやめ、どうしたら真実を見つけられるかということについて、理性(あそこへ行け、これをしろ、あれも試してみろ、という声)の指揮監督に頼るのをやめる、ということです。
真実を知りたい、という願望が生まれる━それは人生において、本当に神聖な、神の恩寵に充ちた瞬間です。悲しいことにこの願望はしばしば、どうすれば得られるか、あるいはどうすれば到達するのかを阻むものを排除できるか、という頭の中の概念に変化しがちです。そして人は、真実そのものよりもこの概念を、崇拝し、信頼するのです。
真実への願望とは、あなたが心の中に感じる餓え、渇望です。その渇望が邪魔なので、あなたはさまざまな手段を講じてそれを追い払おうとします。これが理性とあなたが感じる渇望の関係です。もしあなたに、心の渇望にあれこれ差し出さず、渇望からの逃げ道を求めるのをやめる意思があるならば、渇望はおのずと終焉を迎えます。
あなたが探し求めているもの、それはあなたです。あなたの肉体のことを言っているのではありません。思考でも感情でも、運命、カルマ、過去、未来のことでもありません。これらはすべて、あなたという存在の真実の中で、現れ、存在し、そして消えていきます。あなたはすでに真実です。あなたは意識そのものなのです。
あなたはすでにあらゆるテクニックを試みましたが、すべてをやめることはまだしていません。まだやめていないとしたら、あなたはまだ探し続けています。それほどシンプルなことなのです。
6:27〜
「自分が他人を助けられるかどうかを問うとき、一番大切なことは、他人の意識を変えられるものが
自分のなかにあるかどうかです。あなたのなかにある変化が起きなければ、できません。
心配って何でしょう?
その意味は幻想を映している無意識の思考活動で、
普通はネガティブな未来を映しています。もちろんその多くは起きません。
心配が役に立たないと理解できれば… いまに在るようになります。
助けが必要な人とつながっているとき、いまに在るか?
彼らに余裕のある空間を与えられるかどうか。それが癒しです」
そして“抵抗”についても
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エックハルト・トール
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