|
『海辺のカフカ』舞台での印象的な台詞を。↓
「 私は昔、雷についての本を書いたことがあるの。
(省略)
でもほとんど売れなかった。
そこには結論というものがなかったの。
そして結論がないような本を誰も読みたがらなかった。
結論がないのは私にはとても自然なことに思えたんだけれど 」
もしかすると、習慣になっているかもしれない、答えを探すこと=結論を導くこと。
しかも、それは直観的に求めたものではなく、
学校生活で身についた作法のようなもので
答えを出しておくと安心できるから、とか、
きっとこれが正しいから、といった類いのもの。
案外自分では気づかないのだが、結論を求める動機が‘不安’だったりするのだ。
それが自分の思いどおりにしようとする
‘コントロール’のきっかけになってしまったりもする。
だから、このセリフを耳にしたとき
「あ〜そうだった」と、腑に落ちたようにしっくりきたのかもしれません。
そしてそれをとても印象づけたのは、
読んだばかりの村上春樹氏の新書『職業としての小説家』でした。
“結論”について、貴重な自論を展開されています。
『 経験から申し上げますと、結論を出す必要に迫られるものごとというのは、
僕らが考えているよりずっと少ないみたいです。
僕らは――短絡的なものであるにせよ、長期的なものであるにせよ―
結論というものを本当はそれほど必要としていないんじゃないかという気がするくらいです。 』
また
『 よくアンケートなんかで「どちらともいえない」という項目がありますが、
僕としてはむしろ「今のところどちらともいえない」という項目があるといいなと、
いつも思ってしまいます。 』
と続けていますが、思わずこちらも頷いてしまいます。
断言を求められるものは、
またすぐ変わるかもしれないという思いも根底にあるので、
なんか違うなぁ〜というこだわりのようなものが常に湧き上がり、
いつも困ってしまいます。
結局そういった答えや問いには、
あくまで「今のところは」と捉えるといいのかもしれませんね。
この本のなかにも書かれているように
ありのままに受け入れることと、結論を出すこと、結論を急ぐことは、
意外と大きく違ってくるように思えます。
‘結論’というものの捉え方が人の生きザマでもあるのかもしれませんが。
そして、ここで述べている職業としての‘小説家’というのは、
人生の‘観察者’として
置き換える(読み換える)ことが出来るかもしれません。
それも想定内、きっと気づいて書かれて(シェアして)いるのでしょう。
ひとつの生き方を愉快に覗きながら
我が身にもおおいに参考になる、
そんなテキストのような本だと思います。
以下、幾つか…
次の‘奇跡’のような出来事は、意外と身近で起こっているのかもしれません。
‘奇跡’という簡単な言葉では片づけたくない、
それはそれは豊かな体験です。
『 返済するお金がどうしても工面できなくて、
夫婦でうつむきながら深夜の道を歩いていて、
くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。
シンクロニシティーと言えばいいのか、何かの導きと言えばいいのか…
(僕の人生にはなぜかときどきこういう不可思議なことが起こります) 』
『 僕は三十数年前の春の午後に神宮球場の外野席で、
自分の手のひらにひらひらと降ってきたものの感触をまだはっきり覚えていますし、
その一年後に、やはり春の昼下がりに、怪我をした鳩の温もりを、
同じ手のひらに記憶しています。
僕にとってそのような記憶が意味するのは、
自分の中にあるはずの何かを信じることであり、
それが育むであろう可能性を夢見ることでもあります。
そういう感触が自分の内にいまだに残っているというのは、
本当に素晴らしいことです。 』
常々どうかと思っていた、
‘勝手に残念だったで賞’ の‘文学賞’についても語っています。
『 一律に論じることはできない。だから一律に論じてほしくもない。 』
↑それぞれの‘流れ’の一環なのでしょう。ある意味完璧な。
『 何がどうしても必要で、何がそれほど必要ではないか、
どのようにして見極めていけばいいのか?
自分自身の経験から言いますと、
すごく単純な話ですが、
「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」
というのがひとつの基準になるだろうと思います。 』
『 あらゆる表現作業の根幹には、
常に豊かで自発的な喜びがなくてはなりません。 』
‘オリジナリティー’について、この辺りは今の世間を何か象徴しているように思えます。
イコール、自身の中でもあるのでしょう。
『 オリジナリティーの定義…
「新鮮で、エネルギーに満ちて、そして間違いなくその人自身のものであること」 』
『 世界はつまらなそうに見えて、
実に多くの魅力的な、謎めいた原石に満ちています。 』
『 自分の「実感」を何より信じましょう。
たとえまわりがなんと言おうと、そんなことは関係ありません。 』
『 自分の内なる混沌に巡り合いたければ、じっと口をつぐみ、
自分の意識の底に一人で降りていけばいいのです。
我々が直面しなくてはならない混沌は、
しっかり直面するだけの価値を持つ真の混沌は、そこにこそあります。
まさにあなたの足もとに潜んでいるのです。 』
『 人生というのはそんなに甘くありません。
傾向がどちらかひとつに偏れば、人は遅かれ早かれいつか必ず、
逆の側からの報復(あるいは揺れ戻し)を受けることになります。
フィジカルな力とスピリチュアルな力は、いわば二つの車の両輪なのです。
それらが互いにバランスを取って機能しているとき、
最も正しい方向性と、最も有効な力がそこに生じることになります。 』
原発事故に触れ、次のような話も
『 話がいささか広がってしまいましたが、
僕が言いたいのは、日本の教育システムの矛盾は、そのまま社会システムの矛盾に
結びついているのだということです。 』
『 社会の勢いが失われ、閉塞感のようなものがあちこちに生まれてきたとき、
それが最も顕著に現れ、最も強い作用を及ぼすのは教育の場です。
なぜなら子どもたちは、坑道のカナリアと同じで、
そういった濁った空気をいちばん最初に、
最も敏感に感じ取る存在であるからです。 』
『 つまり僕にとっては読書という行為が、そのままひとつの大きな学校だったのです。
それは僕のために建てられ、運営されているカスタムメイドの学校であり、
僕はそこで多くの大切なことを身をもって学んでいきました。 』
『 僕がイメージしている「個の回復スペース」というのは、まさにそれに近いものです。
もしそのようなカスタムメイドの「個の回復スペース」を手に入れることができたなら、
そしてそこで自分に向いたもの、自分の背丈に合ったものを見つけ、
その可能性を自分のペースで伸ばしていくことができたなら、
うまく自然に「制度の壁」を克服していけるのではないかと思います。
しかしそのためには、そのような心のあり方=「個としての生き方」を理解し、
評価する共同体の、あるいは家庭の後押しが必要になってきます。 』
『 僕にとっての余地というか、「伸びしろ」は
まだ(ほとんど)無限に残されていると思っているから… 』
長くなるのでここでは載せられませんが、
心の深いところと、世界・社会との関係性を解いた
著者の貴重な実感も詳しく書かれていますのでそちらも必見。
ジョギングと創造力との関係もお話されています。
『 物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。
人の魂の奥底にあるべきものです。
それは魂のいちばん深いところにあるからこそ、
人と人とを根元でつなぎ合わせられるものなのです。
僕は小説を書くことによって、日常的にその場所に降りていくことになります。 』
また、余談ですが、田口ランディさんも述べられていた、
河合隼雄先生の独特な第一印象のお話、
村上氏の見解もそうであったように、‘受動形態’、大変興味深い話です。
(ちなみに、佐藤初女さんの『限りなく透明に凛として生きる』の中にも同様の貴重なお話があります。↓)
今、手元にないのが残念なのですが、
リチャード・バック著『ONE―ワンー』のアイデア工場の話を思い出します。
(詳しい工場の話はありませんが以前のブログで取り上げています。↓)
それらをキャッチするアンテナ(ある能力)に気づいているということなのかもしれませんね。
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです/村上春樹インタビュー集1997−2009』
立ち位置が違いますが、『職業としての小説家』 もより踏みこんだお話が楽しめます。 『 新しい小説を書き始めるとき、僕はいつもわくわくするのです。』
以前のブログ、
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです/村上春樹インタビュー集1997−2009』
検索するとすぐ出てきて驚きました。
過去の‘今のところ…’なので、今の気持ちとは多少異なるところもありますが、
多くの方に訪問いただき、感謝です。
舞台 海辺のカフカ ブログ↓
|
全体表示
[ リスト ]




