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この本に度々登場するリストの「巡礼の年」〜ル・マル・デュ・ペイ〜
5/15CD発売決定
ラザール・ベルマンの演奏で聴くCD3枚組。デビュー前後の時期に“ドイツ・グラモフォン”に残した録音。
どんな本でもそうなのだけれど
伝わってくるもの 感じたものは
きっとそれぞれ個人的なものなのだろうな〜と
そんなことを思いながらも
“向き合わなければならないもの”といったテーマは
生きていくうえで共通している“課題”のようにも
そして
それもそのはず それは深い共通しているところからやってくるのだから
とそんなことも
“色彩を持たない”って何?
“多崎 つくる” ん?名前に何か意味があるのだろうか。
“巡礼”って何だろう…
答えは読んだ後 混沌としたなかからやってきます。
前回私が読んだ『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』もそうでした↓ブログ
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』著者インタビューより↓
ある日ふと思い立って、机に向かってこの小説の最初の数行を書き、
どんな展開があるのか、どんな人物が出てくるのか、どれほどの長さになるのか、何もわからないまま、
半年ばかりこの物語を書き続けました。
最初のうちに僕に理解できていたのは、
多崎つくるという一人の青年の目に映る限定された世界の光景だけでした。
でもその光景が日々少しずつ変貌し、深く広くなっていくのを見るのは、
僕にとってとても興味深いことだったし、
ある意味では心を動かされることでもありました。
本文より↓
どれだけ深く考えても解答は得られそうにない。
彼は「未決」という名札のついた抽斗のひとつに入れ、
後日の検証にまわすことにした。
彼の中にはそんな抽斗がいくつもあり、
多くの疑問がそこに置き去りにされている。
「どうしてこんな話になってしまったのだろう?」
『誰かにその話をしちゃうことが必要だったからじゃないかしら。自分で思っている以上に』
「それはただ表面的に塞がっているように見えるだけかもしれない。
内側では、血はまだ静かに流れ続けているかもしれない。そんな風に考えたことはない?」
「一人のプロフェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくてはいけない。
自分が見たいものを見るのではなく、
見なくてはならないものを見るのよ。
そうしないとあなたはその重い荷物を抱えたまま、これから先の人生を送ることになる」
「あなたの中で何かがつっかえていて、そのせいで
本来の自然な流れが堰き止められている。なんとなくだけど、そんな感じがする」
「いっときの揺れ戻しはあるかもしれない。
でもあなたは少なくとも解決に向かって、前に一歩を踏み出している。それが何より大事なこと」
「でもそのときには起こらなくても、またいつかどこか別の場所で、
同じようなことは起こっていたかもしれない」
「長い目で見れば、そのときもし違う判断をし、違う行動を選択していたとしても、
僕らは結局今と同じようなところに落ち着いていたんじゃないのかな」
「生きている限り個性は誰にでもある。
それが表から見えやすい人と、見えにくい人がいるだけ」
「これまでずっと犠牲者だと考えてきた。
でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。
犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちに
まわりの人々を傷つけてきたのかもしれない。
そしてまた返す刃で僕自身を傷つけてきたのかもしれない」
「自分の心の中にいったいどんな濃密な闇が潜んでいるのか」
その闇はどこかで、地下のずっと深いところで、つくる自身の闇と通じあっていたのかもしれない。
身体の中心近くに冷たく硬いものが――年間を通して溶けることのない
厳しい凍土の芯のようなものが――あることにふと気づいた。
それが胸の痛みと息苦しさを生み出しているのだ。
自分の中にそんなものが存在することを、それまで彼は知らなかった。
それは彼がしっかり感じなくてはならないものなのだ。
‘多崎つくる’の‘つくる’は想像どおり、
‘多’も、つくるは自分自身を空っぽの容器に喩えていることから察しがつく。
そして多崎の‘崎’は
真名さんの著書『深・古事記』の「さきみたま」を思い出し↓
【日本言葉としての「さき」は、内容を実現しようとする様子、追進の様子をあわせ持った意味です。
「さき」は、物を分裂・前進させる働きをあらわす言葉です。】
勝手になるほど、と(笑)
ついでに『深・古事記』からもう少し追記すると↓
【「さきみたま」は区別区分の魂(分かれていく魂)で、「くしみたま」は一つにまとめる魂です。
「この分かれるもの」と「まとめるもの」がバランスをとるときに、和魂は完全となります。】
【各人の「分」(適材適所)がそれぞれ異なるほど、
かえってケンカ(否定しあう対立)が起こらずに、みんなで一致団結できるわけで、
現実宇宙はこのようなにぎにぎしい和魂が本質となっております。
そういう「分」(適材適所)を自ずと素直に表現したがるのが、私たちの純粋な肉体なのです。】
また、次の‘つくる’の言動をあらわす描写は日常よく思い当たること↓
何か言わなくてはと思うのだが、言葉は出てこなかった。
・・・・・
それでもまだ言葉は出てこなかった。
そのとき口にするべきだった言葉が思い当たったのは・・・・・(ずっと後のこと)
正しい言葉はなぜかいつも遅れてあとからやってくる。
↑‘正しい’かどうかはわかりませんが、(言葉はあくまで道標として)
そのときフィットした言葉は、
よくしばらくしてから浮かんできて「あ、これだった
余韻として
‘つくる’が感じた嫉妬の苦しみと、ただの物理的な痛みに過ぎないという、ただの哀しみとの違いや
興味深い‘灰田’の存在と彼の話が。
そして
人それぞれの個性、その受容
“自分”に対する評価&認識
好まない同じことを繰り返していないか 好きではない役割を演じていないか
“変わること” “変化”をおそれてはいないか
“おそれ” その根っこに気づいているか
結局 総体的に見るとすべては完璧で
無駄なことは何も起こらず何もないということ
自分のなかの“ある覚悟”
等々感じた本でした。
ある意味、人の“気づき”の過程を垣間見ているようでもありました。
これはこの本に限らず起こることですが
私が本の一部をココに抜粋したところで
本来の文章に含まれている背景を読み取ることはなかなかむずかしいと思います。
断片的に切り取ったまた別ものになるのかもしれません…
‘巡礼’がらみで…
映画『星の旅人たち』 原題『The Way』
巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラを巡るお話ですが
スタッフ・キャストの意図も含め、これもたくさんのことが伝わってくる映画デス
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2003年4月に刊行された単行本『聖地巡礼』を改題し、
加筆、修正を加えた文庫本『水の巡礼』
鎌田 東二氏の解説より↓
『・・・「神社巡り」が大流行だそうだ。・・・
もう一つ、大きな理由があることにはたと気づいた。
本書、田口ランディの「聖地巡礼」「水の巡礼」も大いに影響しているのではないかと。
とはいえ、それはただ、多くの女性の中にうごめき潜在していた欲求や感覚に
火をつけただけなのかもしれない。
みんながうすうす気づき、求め、行動寸前にまで無意識レベルで
ウォーミングアップしていたところに、
それが向かうべき方向へ田口ランディがササーっと走り抜け、
行く道を指し示したということ。・・・
本書は天河から始めて、渋谷―水神社、屋久島、富士山、知床、ヒロシマ、青森、
熊本、鹿島神宮、出雲大社という十の聖地への道行きが物語られる。
・・・・・』
というように、
ランディさんの感性から伝わってくるものが、どこか深いところを突き動かすような、
そんな強烈な印象を受けた本でした。
真名さんの『深・古事記』やセミナーでのお話から改めて今、
紹介したいなと。
あとがきから↓
この旅で感じたこと。
それは、日本は水の国だということ。
山尾三省さんが言うように、水と魂は似ている。あるいは同じものかもしれない。
聖地は必ず水源のそばにあった。
水の流れる場所に神がいた。
人は水から命をもらう。
人は水に穢れを流す、御霊を送る。
水と魂を切り離すことはできない。
永遠に魂は巡る。どんなに形を変えても魂である。
どんなに穢れても魂である。
神にもなれば餓鬼にもなる。
でも常に魂は魂である。
そう思うと、とても落ち着く。
水は魂と似ている。同じ性質をもっている。
美しい水は、魂と共鳴する。
美しい水に触れると魂が喜ぶ。
それがうれしくて、気がつくと、水を求めて旅をしていた。
この旅は、水の巡礼だった。
本文より↓ 今回は伊勢神宮とともに「遷宮」が話題の出雲大社の記から。
例の場所。私にとって大切な場所。
出雲大社は禁足地である山を背負うようにして建っている。
その山との境界地点に素鵞社(そがのやしろ)がある。
本殿の豪華さとは比べ物にならない。
ところが、初めて出雲を訪れた時に、
Sさんが「神さまはこっちにいる。古い神様がこっちにいる」と言ったのだ。
Sさんは素鵞社のさらに裏の、山肌から露出した岩の部分を指して、
「ここからものすごい気が出ている」と言って、そこで祝詞をあげたのだった。
・・・
地元の人々の間では、この岩は特別な力をもった岩として信じられているのだそうだ。
・・・
(同行した松村さんは)
「私が思うに、この出雲大社の力を支えているのは、
背後のうっそうとした木々に覆われた八雲山です。
木というのは『気』という発音と同じように、自然に伸びてゆきますが、
この伸び方は、そのまま動いている『気』の流れのままを反映します」
「この力に満ち満ちた森に、人間意識が接触できる傷のような場所があります」
「ここに人間意識を叩き込んだとき、森という自然界の力が、
人間の活動の中に激しく流入してくる。
象徴的に言うと、大地母神は物言わぬ宇宙的な形成力を示していますが、
それを人の意志が叩くとき、
実現力のようなものが返ってくるんです」
「じゃあ、私がこのゲートと接触するためには、ここで一時間くらい扉を叩き続けなければいけないわけね」
そんなわけで、小雨そば降るなか、岩肌の前で、ぼ―――っと立ち続けたのであった。
・・・
小一時間くらい近く、私の頭の中では数々の疑問がぐるぐると回っていた。
疑問がバターになっちゃうほどぐるぐると回っていた。
そうこうするうちに、だんだん考えるのも疲れてきてしまった。
・・・
ああもう、私ってぐちゃぐちゃ、どうしてこう、なにもわかんなくなっちゃったんだよ…。
と、地面のぬかるみを足で掘っていたとき、ふと、急にある「思い」が浮かんだ。
私が思ったのではなく、「思い」の方が勝手に入り込んできたって感じ。
まったくふいに、自分が考えたとは思えないほどふいに、あることが浮かんだ。
「楽しめ」
と「思い」は言うのだ。「え?」と思った。
「楽しめばいいのだ」と「思い」は言葉ではなく言うのだ。
「思い」は言語としてではなく、ある「雰囲気」として私の中に浮かぶものだ。
以下、すべて翻訳である。「思い」は「言葉」ではない。
「生きるということは、その瞬間を楽しむということだ」
みたいな「思い」がどんどん浮かんでくる。
この「楽しむ」という翻訳はあまり適切ではない。
「輝く」とか「実感する」とか「知る」とか、そういう言葉に置き換えてもいいかもしれない。
あ、そうかと思った。
私ったら何を深刻に考えていたんだろう。
命があるのに楽しまなくてどうするというのだ。
そしたら、急に世界が明るくなったように感じた。
なんだか笑いたくなってきた。
なにがあっても私は死ぬまで生きるんだ。
その意味は自分の外側にはない。
自分の内側にしかない。
自分が感じること以外の答えはない。
なぜ生きるのかわからないけど、生きていることを「楽しむ」というのは、
なにかへのゲートだ。
楽しむって「ハッピー」ってことじゃない。
幸福とも少し違う。
辛いことも、苦しいことも、悲しいことも、なにもかもひっくるめて。
「楽しむ」ってことだ。
・・・
聖地に来ると、私の日常に亀裂が入る。
ふだんは縫ってある切れ目が裂けて、かすかに向こう側が見えるのだ。
何かと話題のリスト:巡礼の年〜 |
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白隠さん、紹介ブログはこちら↓『白隠展〜禅画に込められたメッセージ〜』
白隠さんの禅画や「坐禅和讃 ( ざぜんわさん )」は、知らず知らず見聞きしているもの。
真名さんによる超訳『古事記』で思い出し、
この国(大和)及び人々に奥深く浸透している素晴らしさを再度認識した次第で…。
『白隠禅師坐禅和讃はくいんぜんじざぜんわさん』
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき
・・・・・
(続きはネット等で)
阿部敏郎さんのお話↓
『お経のほとんどは漢文で書かれていて、はっきり言ってチンプンカンプンです。
江戸時代、そこに革命的な禅僧が現れました。
白隠さんです。
実はこの人、日本語でお経を作って残したんです。
もちろんいつの世も同じで、当時も新しい試みは大バッシングを受けました。
(大バッシングと言えば、先日レンタルした映画『天地明察』なども…)
でも内容が素晴らしいので、今でも禅寺では、「般若心経」などと肩を並べて読まれています。』
「あなたは、実際には生まれたときから悟っています。
あなたは、ブッダなのです。
ただ、いろんな固定観念で氷のように固まってしまっただけです。
ブッダは水のように流れ、衆生は氷のように固まっています。」
向さんのお話と『白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)』超訳↓
『ふと見た阿部さんのブログに、
「瞬間、瞬間、心の奥底にある安らぎに自分自身を連れ戻すことです。
それを一日に何千回も繰り返すのです。そうすれば、本当の自分が見えてきます」
とありました。
真言(マントラ)には、その「連れ戻す」力、心源にいたらせる威力があります。』
(真言とは、たとえば↓
「オン アボキャベイ ロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
マントラは意味がわからなくてもエネルギーそのものだと云われていますネ)
白隠禅師は人々に、何よりもいま、この本を手にしているあなたに伝えています。
生きとし生けるものは皆、仏の命に生かされている、仏そのものだと・・・・・。
あなたは、もとから悟っているのです。
それは、ちょうど水と氷のようなもの。
本当は水なのに、自我の思いで、ただ氷のように固まっているだけです。
もとから悟っているのに、他に悟りを求めるのは、
水の中で「のどが渇いた!」と叫ぶようなもの。
大金持ちの子が「金がない、金が欲しい」と言って貧しく放浪しているようなもの。
氷は(自我が)とければ水となり、
大金持ちの子は、家に帰ればもとから大金持ち。
人は不平不満、恐れや劣等感にさいなまれ、
あれやこれやの迷いの暗い道を
さまよい歩いています。
いつになったら心静かに安らいで、
生死を超えた、大安楽の真の幸せにいたるのでしょう。
幸せになるのは、いともたやすいこと。
「自分は、もとから幸せだった」と、気づけばいいのです。
素晴らしい素晴らしい「大乗 ( だいじょう )の禅定 ( ぜんじょう )」こそが、
その気づきの道なのです。
皆とともに幸せであることを願い、
身と心をひとつにして、
深く落ち着き安らいだ
無心の心が「大乗の禅定」です。
坐禅は「大乗の禅定」を修する道。
深く禅定を修すれば、罪も煩悩・妄想も消え失せて、
心は落ち着き安らいで、
ただ「いまここ」に生かされてある
命の尊さ、ありがたさをしみじみ味わう
感謝の日々となります。
さらに無我・無心の、本来の自分に徹すれば、
あれやこれやの理屈を離れて、
「いまここOK!」
「いまここウェルカム!」の
自由自在な、惟神 ( かんながら )の道が開けて、
天地いっぱいに輝きわたる、
悟りの世界に遊ぶだけです。
このとき、何を求めることがあるでしょう。
「いまここ」の、日々の暮らしが
そのまま理想の世界、浄土で、
あなた自身が仏なのです。
「禅とは何か」
禅の世界には、神だとか超常現象だとか、何ひとつドラマチックなことはなくて、
あたりまえの現実を、あたりまえに生きる、
そんな態度にあふれている。
―阿部 敏郎―
人生、出会うべき人には必ず出会う。
しかも一瞬早からず、遅からず。
―向 令孝―
『みんながブッダ』より
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以前発売されたDVD『イリュージョン 幻想としての時間』に続く『アウェイクニング 今、ここに目覚める』
4/25頃発売予定だそうです。
以前のDVDのブログはこちら↓
エックハルト・トール/イリュージョン 幻想としての時間[DVD]/ストレス・機能不全からの脱却
↓目覚めの花火
マインドは、「目覚めはどこ?」「目覚めなくては…」と言い続けるのです(笑) まるで形あるものを見つけ出せるかのように。目で確認できる形のサインを探しているのです。「“目覚めの花火”とか“悟りの花火”はどこにあるんだ?」「10年も目覚めの花火があがるのを待ち続けているのに、何も起こらない…」
目覚めは、自然に湧き起こってくるものなのです。(それは、いろいろな場面で…)
そこで突然、“反応”するのではなく、穏やかで研ぎ澄まされている自分を発見するのです。
それは、“目覚め”の一側面です。
それは、“こういうことが私に起こった”と具体的にわかるような出来事ではないのです。
稀に永続的な変化が起こる人もいますが、それはとても稀なことで、ほとんどの人にとっては段々と移り変わっていくものです。
絶えず思考の流れに埋もれているような状態、次から次へとやってくる思考の流れだけに引きずられている状態から徐々に変化していくのです。「まだ悟っていないけれど、私はいつ目覚めるのだろう?」という思考も含めて。
その状態からの移行は、まず最初は、時々何か違ったことが現れてくることからはじまります。研ぎ澄まされた感じ、生き生きとした感じが強まってくるような状態がやってきます。
考えることに代わってそれが現れてきます。もちろん思考はまだやってきます。しかし、それは強制的に起こってくる思考ではなくなり、考えることが必要のないスペースが現れてくるのです。
あなたは思考を超えたものとなったのです。
それが“目覚め”というものです。
こちらの↓YouTubeで“スペース”を…
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【いのち】は根本で、ひとつです。
西洋風にいうならばワンネスです。
その「本もと」たる【いのち】が、自由自在に、四方八方に、
「いざ、栄えよう!」と意気込んで、分裂増殖しながら追進するのです。
その「本」たる【いのち】が枝分かれした「先端」「分」が個々人であるのですから、
そこには一切の貴賤の差別はありません。
高天原・豊葦原・根の国という三種世界は、外に漠然と在る世界なのではなく、
全ての【いのち】の内側にある世界なのです。
天照大御神は、【いのち】の輝かしさを象徴しています。
でも、その【いのち】の【和魂にぎみたま】は、ただそのまま在るだけでは何も光らず輝きません。
「現実界」(豊葦原)が【いのち】の表現の場だということを明確に確認し、
その表現を実践行動していこうとする「荒魂あらみたま」を用いてこそ、【いのち】は真に光り輝くことができるのです。
沢山の無数の【いのち】(全ての個人個人)が「神ながら」のシステムを成しております。
それぞれの分担を持っており、その都度の個性・才能・特色を発揮するという点では、
誰ひとりとして同じではなく、その一人一人でさえ、
毎度毎度で違った存在になっていることが「いのち」の基本です。
いかに大きな愛の意気込みをもって、いかに小さなことにも誠を尽くすのかが大切だということです。
個の中に流れている無限の【いのち】は、他の全員の中にも流れており、
それは全く同じ源の【いのち】であり、各自が個にこだわることは、非常におかしなことと言わねばなりません。
大国主命と「ちいさなもの」の出会いが紹介されています。
(すべての人類は、この大国主命の復活した魂でもあると)
大国主命の「荒魂」と、少名彦さまの「和魂」の出会いでもあります。
そして、この小さい、少ないの象徴のような少名彦さまが、とても重要であるとセミナーでも。
「ちいさなもの」↓
古事記(神代の巻)より他に、少名彦さまのお心を深く味わうところは、そうそうありません。
少名毘古那神すくなびこなのかみ、少名彦命すくなひこなみこと、少様と呼ばれている神様です。
稲羽の白ウサギが、大国主命によって回復するお話がありましたが、
実は、その時にも、この少名彦さまが眼に見えない働きをされております。
ウサギの細胞を癒していった働きは、
少名彦さま自身であるその細胞(和魂)が、大国主命の愛(和魂)によって、
共振し、自ら化学反応をおこしたことによるものです。
このことから、少名彦さまは、「薬」の神さま(=物理化学反応の神さま)としても
祀られておられます。
大国主命のように、大きな力、沢山の財、有名な地位、
そういった外側に見えるものは何も持っていない、【いのち】としての極小単位が少名彦さまだったのです。
(今風にいいますと、ips細胞のような極小単位を象徴しているのでありましょう)
大国主命が「根の国」での修行をすませ、実際に「現し国」で個人の業績は上げたものの、
それは、権力が主になっていて、あまり豊かな方法ではなかったと、お気付きに。
少名彦さまの教訓
「どんなに立派な力を持った心臓でも、心臓は、心臓のための心臓ではないのです。
他の臓器のために心臓として働くのです。
どんなに立派な力を持ったあなたでも、あなたは、あなたのための「あなた」ではありません。
他の者たちのために「あなた」として働くのです。
あなたに欠けていたものは、個人を超えた全体愛の心、すなわち【和魂】だったのです。
自己の喜びと満足だけを考えるなら、そこに【和魂】はありません。
私が持っているこの【和魂】を中心としなければ、みんなが喜ぶ国づくりなどできませんし、
国を治めることもできません」
少名彦さまのお供になってからは、【自他の区分をなくす】ところに進んでおります。
以前、「大小ではかるな!」という教えでもあるとお話されていました。
そもそも荒魂でもある私たちの身体、その行ないに「和魂」が具われば…。
あらゆる【いのち】に敬意をはらい、
生きることそのものに対する根本的な愛こそが、少名彦さまの教えです。
神皇産霊神かみむすびのかみは、【いのち】を産み、生かす神です。
その御子様である少名彦さまの弟分になって、
大国主命が国づくりの仕上げをなさったということは、
学問・技術の世界から、【いのち】の世界へ入ったことをあらわしているのです。
つまり、「何のための学問、何のためのビジネス、何のための技術であるのか」というところに・・・
どんな商売も、どんな学問研究も、どんな産業も、それを生み出したところの
【いのち】に対する敬意がなければ、それ以上発展することはありえず、
全人類を豊かな心にすることはできないのです。
「天の恵み」と「地の恵み」(高天原と根の国)がなければ、
なにひとつ「現実界」へは生まれません。
決して、単独の人間の意志や、頑張りだけで仕上がるものではございません。
人が人である所以は、「神」の【ひ】を宿すがゆえなのです。
私たちは、すべからく全員が「高天原」の種子(=いのち)を頂いております。
大和の国に舞い降りた、弥栄なる「神ながら」の【いのち】の種子を、
自分勝手な心で私することなく、世界中のあちこちに、
ますます手伸しく(たのしく)蒔かなくてはならないのでございます。
セミナーでもおっしゃっていましたが、相手も「神」と思え、と。
「光の柱を立てる。森羅万象の柱をバン!と降ろす。
人間意識からすると、静かなあきらめに。熱意が湧いてこない。
ヒーリングという言葉にも語弊がある。自分が変わらないと他は変わらない。
自分が一番しあわせな状態が他者を癒す。
私たちは次の扉のカギを持っている。
邪心があるとコワい。いのちをかけてください。何もコワくない。
なろうとしない。今ここのことだけ考えていればいい。頭が邪魔しなければ、全部身体が引き寄せる。
いのちへの敬意、一番重いもの。
いのち輝かそう!という方から入った方が楽」等々、お話されています。
書には他にも
神ながらへの道への段階、
思兼神おもいかねのかみ:他者を尊重し、思いはかる(おもんばかる)、
みたましずめ、袋せおいの心、大国主命の「うきゆい」、
全一である神である、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ等々、興味深いお話がたくさん。
感じ取れることは各々あるかと。
【全部が一律平等に素晴らしい】という根本事実に立ち返り、
「自他ともに満ち足りることを体験する!」と決めていって下さい。
〜あとがき〜
古事記を通じて確信したことなのですが、
個人の我欲が湧きだすところと、弥栄なる和魂の【いのち】が湧きだすところは
同じ窓口でありますから、だからこそ、
個人の我欲(生き抜くことや享楽)に執着せずともよいうのだということです。
弥栄なる清明心(和魂)としての【いのち】が、
個人としてのあなたの面倒など、充分にみてくれますので、
あなたは、大いなる天地と一体となって、
全体他者のために生きることだけを意図すればよいのです。
『ちいさないのち』吉野大地さん 大地さんのHP http://www.turiya-music.com/
真名さんのお話から
アマテラスオオミカミ : 全宇宙、全地球を光で満たすという意志のこと
ツクヨミノミコト : ツクヨミは個人。その時々の有限の状態。
タケハヤスサノオノミコト : 創る(造る・作る)神様。決めたらサッサとやる。
物理的地球でストレートにやる。中にスサノオを持って、ここにいる限りスサノオ。
トキハカシノカミ : 直線時間からの脱却。
アメノコヤネノミコト : 言葉によって変更していく。
ニギハヤヒノミコト : サイキックな力を育む。
アメノオハバリ : 古きすべてを執着なく完了。ありがとうと完了。
オモイカネノカミ : たくさんの人のことを思う大事な神。
オドヤマツミノカミ : 自分のすべての価値を充分に認める。
オクヤマツミノカミ : 常に向上し、拡大、発展、繁栄する意志。それが普通だと知っている。
クラヤマツミノカミ : 最高の歓喜、輝き。最大の魅力の発揮。(生きててよかった!)
・・・・・
神社や教会は、エネルギーとつながりやすいと大野百合子さんもお話されていましたね。
深・古事記 神ながらの道 真名著
深・古事記 神ながらの道 真名著/「神ながら」ではないもの
深・古事記 神ながらの道 真名著/私たちの「ことよさし」
深・古事記 神ながらの道 真名著/「のりなおし」「うけひ」「うけひもち」
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