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〜エックハルト・トール氏の序文〜
精神的な探究の道程も終わりに近づき、
希釈されていない真理を受け取る準備のできている探究者。
この本は、急激にその数を増やしつつあるそんな人々のためのものである。
『私とは起きる出来事のことではない。出来事の起きるスペース(空間)、それが私である』
すべての出来事が起きるスペースとは何か?
それは形以前の意識そのものである。
・・・・・
分裂した自我は癒され、あなたは再び完全な存在となる。
つまり、突然、意識がそれ自身を意識するのだ。
この世に覚醒をもたらそうとする宇宙の進化衝動と足並みを揃える。
仮にあなたの人生が苦しみと過ちの連続であったとしても、
この知覚さえ手にすることができればあなたの人生は価値を取り戻し、
一見何の価値もないように見えたものが、振り返れば重要な意味を持つものとなる。
あなたが犯した過ちのすべてが今この地点、
つまりこの気づきにあなたを導いたのだとすれば、それらは過ちなどでは決してなかったのだ。
あなたが今これを読んでいるという事実は、
この集団覚醒(宇宙的規模の進化的変容、形象との自己同一化という夢、
自己と他者の乖離という夢からの覚醒のプロセスの一部)という
素晴らしい冒険に欠かせない一部となることが、
あなたに運命づけられている、ということを意味するのだ。
この本には物語は登場しないし、その必要もない。
言葉そのものが、稀に見る生命感と、変化を誘う力に満ち溢れているのだ。
それは、これらの言葉が、頭の中に蓄積された知識から来ているのではなく、
真実に関する生きた気づきから生まれているからである。
以下、本文から抜粋(順不同)
私が「静止する」、「探すのを止(や)める」と言うとき、私はただ、
何かを得ようとする傾向が私たちにあるということを示しているにすぎません。
意識は「もの」ではありません。それは「今ここ」そのものです。
私たちはおそらく、肉体以上に、理性と自己を同一視しています。
理性という言葉で私が意味するのは、
「私とはこの肉体であり、私はこういう人であると思う。したがってこれが現実である」
というような思考のことです。
理性には私たちを導く力はありません。
発見したり追随したりすることはできても、先導することはできないのです。
理性は敵ではありません。
それ自体は何も問題ありません。
悲劇は、理性による結論が現実であると私たちが信じてしまう点にあります。
今あなたが追い求めているものが、俗世的なものであろうと精神的なものであろうと、
それを止(や)めてごらんなさい。
あなたはこれまでたくさんのことを知るのに成功してきたので、
一生懸命頑張りさえすれば真理を知ることができるのではないか、と願っています。
けれども真の自由の実現は、理性を必死に働かせるというのとは正反対のものです。
ここであなたが頑張らなくてはいけないのは、
理性によって自由が手に入るという希望を捨てることです。
心(つまり愛)や、悟り(つまり真理)を理性によって手に入れる、そんな希望を捨てるのです。
そのことに気づくとき、あなたはおのずと真実の前にひれ伏すでしょう。
自我もその発展形である超自我も、素晴らしいものです。
そこには本質的に何の問題もありません。
問題が生じるのは、これらがあなたの注意と生命力を独占してしまうときです。
そうなるとあなたは、人生を自然にかつありのままに経験することができなくなり、
自分の中で繰り広げられる戦いばかりに注意が注がれるようになってしまいます。
「私はこうだ」と自分を定義する声と、
それに対する「お前はもっとこうあるべきだ」という声の対立です。
この分離に気づくとき、あなたの中の激しい戦い、特に「精神的」な分野において、
超自我が自我を追い払おうとしているのが露呈します。
相手を排除したがっているのは超自我だけです。
自我の排除は究極のコントロールです。
お話してきた探究の中であなたは、あなたがあなた自身に語る、
あるいはあなたを囲む文化があなたに語ってきた、あなたは何者か、
ということについての物語に気づいたかもしれません。
あなたは自分に物語を語り聞かせてはいませんか?
あなたが持っているもの、いないもの、あなたに必要なもの、不要なもの、
あなたの悲しみ、喜び・・・
あなたは、個人的な物語を語るのを止(や)める気がありますか?
本当のことを言う気がありますか?
自分に物語を語り聞かせるのを止めるには、ほんの一瞬もかかりません。
たとえそれがよい物語であったとしても、
それを語ることに溺れるのを止めさえすれば、たちどころに真実を経験することができます。
たった今、自分の物語を語るのをお止めなさい。
今、この瞬間、努力しなくてもそこにあるものの存在に気づいてごらんなさい。
これは、最も簡単で、最もシンプルで、そして最も自明の真理です。
このことが長年にわたり知られずに来たのは、
それがあまりにもシンプルで、すぐにも手に入るものだからです。
永続性のないものには本質的な真実はありません。
このことを完全に認めるとき、すべての思考活動は停止します。
思考活動は常に、何かを否定する、
あるいは何かをつかまえようとすることが土台になっています。
思考が否定するものもしがみついているものも、すべては一時的なものです。
あなたの理性がこの真実を受け入れるとき、思考活動は行き場を失い、思考は静止します。
私があなたに提案している「止(や)める」とは、
思考に思考を重ねないこと
過去の出来事を頭の中で繰り返し、夢想に耽らないということです。
「止める」にはまず、理性の活動に気づきつつ、それに従わないことです。
理性の活動を追わない、というのは、理性に逆らったり思考を抑制するのとは違います。
思考を追いかけ、物語をさらに膨らませてしまうと、本当のあなたでいることがいかにシンプルで、
素晴らしく簡単なことであるかに気づくことはできません。
感情を押し殺しもせず表にも出さないという、もう一つ別の可能性があります。
私はそれを「直接体験」と呼びます。
ある感情を直接体験するというのは、それを否定もせず、それに溺れることもしない、
ということであり、それはその感情についてどんな物語も存在しない、
ということを意味します。
意識の中で生まれるどんな感情も、意識によって完全に対峙することができます。
物語や分析に身を隠す必要はありません。
理性の働きには従わず、ただじっとして湧き上がる感情のすべてを完全に経験するという意思が
あなたにあれば、あなたにはそうした感情は存在しないことがわかるはずです。
感情とはただ思考によってのみつなぎ合わされています。
あなたが本気で「いらっしゃい」と言い、そしてあなたの心が本当に開かれていたならば、
感情は湧き上がることはできません。
なぜならその瞬間、あなたはそれについて何の物語も語っていないからです。
私は、パパジが私にくれた招待状を、そのままあなたに贈ります。
今この瞬間、その場で止まってごらんなさい。
あなたが、充足を与えてくれると思うもの、
真実を与えてくれると思うものが何であれ、
それを手に入れようという努力をすべて止 ( や )めてごらんなさい。
必要なのは、ほんの一瞬、本当にそれを止めることだけです。
たとえば
「この人の話を聴けば何か変わるかもしれない」
「何かヒントになる情報があるかもしれない」
そして
ワクワク感が訪れてはまた去り、の繰り返し
「一体いつまで続くのだろう」
「正直、もううんざり」
覚醒、悟り、目覚め、アセンション、真理、瞑想等々の‘知識’が十分なほどあるのに、
いつになったら“本当に欲しいもの”が見つかるのだろう?
そんな思いがよぎるとき
また
精神性を高めるために得た(学んだつもりの)情報が、正しいものとしがみついていると
次々と新たな葛藤を生んだりします。
戦争とはどういうものなのかわかっているつもりが
自分に適さないと思っているもの(相手の言動やダメな自分、ネガティブな感情等々)を排除しようと
頭(思考)のなかで争いを繰り返したり。
「そうだから、いけない」
「そんなことを言ってはいけない」
「どうしてイライラさせるのだろう」
「あ、また責めてしまった」
「どうして繰り返すのだろう」
それこそ、思考が次々と重なり自分の正しさを顕示しようと
果ては躍起になって疲れてしまう経験
きっと著者のガンガジは同様の経験をしているのだと思われます。
こんなときも、あんなときも、今ここに立ち戻る機会なのですよ、とサポートしています。
ピンポイントに、正直に、そして真摯に語られている文章から得られるものは
人によっては、大いなる解放となるとてつもない自由かもしれません。
なぜ、‘いまここ’なのか?
今までのすべてをつなげてくれるそんな本から
「おかえり!」と聞こえてくるようです。
つづく。。。
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2013年01月12日
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