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自分の中からわき出る衝動を抑え込まずに、一度、素直に感じてみる。
怒りや悲しみなど、ネガティブといわれるものも避けることなく、
ありとあらゆる感情を感じてみる。
 
 
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実は怒りも悲しみも、外側から訪れるのではありません。
 
生まれたときからすでに内在しているものなんです。
 
僕たち人間は、この現象界へ現れる際、たくさんの感情を抱えてやってきます。
 
それらを人生の中で解放するために。
 
解放しようともってきたものを、
「怒りを出してはならない」「悲しんでいけない」と、
どのまま外に出さず心に閉じ込め、押し殺してしまうからこそ、
ゆがみが生まれてしまうんです。
 
あなたを怒らせた出来事や、悲しませた出来事が、
 
あなたに感情を与えたのではありません。
 
それらの出来事は、もともとあなたの中にあった感情を
 
アウトプットするきっかけを与えたにすぎません。
 
ですから、その出来事がなかったとしても、
解放する予定の感情が、心の中にあるならば、
別の出来事が引き金となって、
やっぱり怒ったり悲しんだりすることになるのです。
 
このことが理解できると、少なからず出来事に対する恨みはなくなっていきます。
「加害者」に見えていた人が、「解放のきっかけをくれた人」に切り替わります。
そのきっかけづくりは、“その人”じゃなくてもよかったのですから。
 
感情解放のコツは、その感情にストーリーを持ち込まないこと。
 
その気持ちに「理由」をもたせないことです。
 
 
下記のガンガジの著書でも
「自分の物語を語るのをお止めなさい。」と↓
ポケットの中のダイヤモンド〜あなたの真の輝きを発見する〜ガンガジ著
 
 
外側へ向かおうとする感情を抑え込んでいると、
僕たちの活動エネルギーはその部分に浪費されます。
その分だけ、自分の行動力も抑制されてしまう。
 
誰かや何かを恨まず、また、自分自身も責めることなく、
その感情の存在を認めること。
苛立ちと状況を結びつけることなく、
ただ、そこに怒りがあることを感じきること。
誰かや何かに罪をなすりつけるのではなく、味わうこと。
叫ぶ、泣く、笑う。
それらが素直にできるようになると、
「心の運動不足」や「感情面での不感症状態」が解消され、
エネルギーのゆがみは徐々に消えていきます。
 
 
 「あなたも泣くのですか?」
 
 
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【 おだやかで、ひかえ目がちな主題が、まず、ピアノの独奏で奏でられる。
心の奥にゆらぐ影を、求め、訪ねてゆくような、低いモノローグが伝わって来る。
深い底から立ち昇る嘆きとも、祈りとも感じられる。
オーケストラが、慰めるかのように応える。
主題がピアノの独奏で変奏されると、
柔らかな音色のフルートやファゴットが加わって優しい語らいを交す。
再び主題の独奏とオーケストラの応答_____
やがて、弦楽器のピチカートに伴奏されて、
ピアノは静かに旋律を繰り返しつつ消え去って行く_____
モーツァルトのピアノ協奏曲K488番の第二楽章を聴いていると、
ピアノは、むしろオーケストラを引き立てるかのように、謙虚に演奏される。
澄んだ余韻が心に沁み透ってくるのを感じる。
第二楽章だけを単独に聴くわけではないが、
嬰ヘ短調、八分の六拍子のこと緩やかな楽章は、私の心を深く捉えて離さない。  】
 
「白い馬の見える風景」のみならず、
すべての作品に共通するような文章で驚きます。
 
 
 ‘緩徐楽章’、改めて意識を向けると新鮮です
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 2楽章
 
 
【 ある時、一頭の白い馬が、私の風景の中に、ためらいながら、小さく姿を見せた。
すると、その年(1972年)に描いた十八点の風景の全てに、
小さな白い馬が現れたのである。
白い馬は、たとえば協奏曲ならば、独奏楽器による主題であり、その変奏である。
協奏する相手のオーケストラは、ここでは風景である。
白い馬は風景の中を、自由に歩き、佇み、緩やかに走る。
しかし、いつも、ひそやかに遠くの方に見える場合が多く、
決して、前面に大きく現われることはない。
この小さな白い馬の出現は、私にとって思いがけないことである。
一切の点景を排した風景を描き続けてきた私であるし、
人もそれを私の特色と思っているに違いない。
_____白い馬は何処から来たのか?_____ 】
  
 
【 ずっと以前、私がよく風景の中に白い馬を描いた時期があった。
美術学校を卒業して、ドイツへの留学から帰国した私は、
第二次大戦へと傾いて行く暗い世相の中で、模索と失意の苦しい時を過さねばならなかった。
よく、白馬を描いたのは、その頃である。
あの時の白い馬と虹は、やすらぎと救いを願う心の現われであったとも思われる。
あるいは、戦争の嵐が、いやおうなしに近づいてくる頃の
平和への切ない祈りであったとも云えよう。
戦争を境に、白い馬は虹と共に消え去ってしまった。 】
 
 
【 戦後の私は、私の立ち向かう風景の中に何者をも混えずに、
その在るがままの姿で充足していると観るようになった。
風景そのものが生きていると、
戦争のさ中に感じて以来のことである。
自然との風景との、じかの心の触れ合いの中に私の道を見出し、
その道を、ひたすらに歩いて来た。 】
 
 
【 私の歩みは環を描いて巡っている場合が多い。
こんども、ドイツの旅の後に白い馬の見える風景を描くようになったのも、
何か宿命的なものを感じはする。
それにしても、前の時とは、私の心境も違い、世相も異っているはずであるのに_____ 】
 
 
【 戦後、点景を排除した風景を描き続けて来た私にとっては
単純に画面効果のために、白馬を添えるということは考えられない。
しかも、十八点の全ての風景にということになると、なおさらである。
白馬は、明らかに点景ではなく、主題である。
そこには、やはり必然的な動機が内在していると、思わないではいられない。
それは、心の祈りを現わしている。
描くこと自体が、祈りであると考えている私であるが、そこに白馬を点じた動機は、
切実なものがあってのことである。
しかし、ここから先は、私自身に問うよりは、
この画集を見る人の心にまかせたほうがよいと思う。 】
 
 
 
思えば… 白い馬の絵をはじめて目にしたとき、浮かんだ疑問でした。
 
 たとえば京都で描いた絵画であっても 
表面的な…らしい、観光名所は登場しません。
‘ らしさ’にはとらわれず、
本来の輝きを‘みる’ことが出来る人であることを感じさせてくれます。
それは同時に、誰もが持つ奥底の静謐な世界を呼び覚まし、気づかせてくれるようです。
思考のない世界そのもの。
 
改めて 感謝と敬意を 
 
 
 
『風景との対話』東山魁夷著/真実を見るとき
 
ミューズの微笑み「東山魁夷美術館」〜アートシーン〜
 
 
表紙より
絵になる場所を探すという気持ちを棄てて、ただ無心に眺めていると、
相手の自然のほうから、私を描いてくれと囁きかけているように感じる風景に出合う。
 
 
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自然の生命の美に開眼していく貴重な気づきの過程を
絵画同様、敬虔且つ美しい文章で記している。以下「風景開眼」より
 
 
いったい、生きるということは何なのだろうか。
この世の中に、ある時、やって来た私は、やがて、何処かに行ってしまう。
常住の世、常住の地、常住の家なんて在るはずがない。
流転、無常こそ生のあかしであると私は見た。
 
私は生かされている。
野の草と同じである。
路傍の小石とも同じである。
生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。
せいいっぱい生きるなどということは難かしいことだが、
生かされているという認識によって、いくらか救われる。
 
私が倒れたままになってしまわずに、
どうにか、いろんな苦しみに耐え得たのは、
意志の強さとか、それに伴う努力というような積極的なものよりも、
一切の存在に対しての肯定的な態度が、
いつの間にか私の精神生活の根柢になっていたからではないだろうか。
 
私は一年の大半を人気のない高原に立って、
空の色、山の姿、草木の息吹きを、じっと見守っていた時がある。
ふと、好ましい風景を見つけると、その同じ場所に一年のうち十数回行って、
見覚えのある一木一草が季節によって変ってゆく姿を、
大きな興味をもって眺めていたのである。
 
(1937年頃↑) あの時分、どうして私の作品は冴えなかったのだろうか。
あんなにも密接に自然の心と溶け合い、表面的な観察でなく、
かなり深いところへ到達していたはずである。
技術・・・ いや、それよりも、もっと大切な問題があった。
 
私は汗と埃にまみれて走っていた。
汚い破れたシャツ姿のこの一団は、兵隊と云うには、あまりにも惨めな格好をしている。
そんな或る日、
市街の焼跡の整理に行って、熊本城の天守閣跡へ登った帰途である。
私は酔ったような気持ちで走っていた。
魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。
つい、さっき、私は見たのだ。
輝く生命の姿を_____
 
熊本城からの眺めは、雄大な風景ではあるが、
いつも旅をしていた私には、特に珍しい眺めというわけではない。
なぜ、今日、私は涙が落ちそうになるほど感動したのだろう。
なぜ、あんなにも空が遠く澄んで、連なる山並みが落ちついた威厳に充ち、
平野の緑は生き生きと輝き、森の樹々が充実した、たたずまいを示したのだろう。
今まで旅から旅をしてきたのに、
こんなにも美しい風景を見たであろうか。
おそらく、平凡な風景として見過ごしてきたのにちがいない。
これをなぜ描かなかったのだろうか。
いまはもう絵を描くという望みはおろか、
生きる希望も無くなったと云うのに_____歓喜と悔恨がこみ上げてきた。
 
あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも。
生きる望みも無くなったからである。
私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。
死を身近に、はっきりと意識する時に、
生の姿が強く心に映ったのにちがいない。
 
自然に心から親しみ、その生命感をつかんでいたはずの私であったのに、
制作になると、
もっとも大切なこと、素朴で根元的で、感動的なもの、
存在の生命に対する把握の緊張度が欠けていたのではないか。
また、制作する場合の私の心には、その作品によって、
なんとかして展覧会で良い成績を挙げたいという願いがあった。
私は人の注目を引き、世の中に出たいと思わないではいられなかった。
もし、万一、再び絵筆をとれる時が来たなら_____
恐らく、そんな時はもう来ないだろうが_____
私はこの感動を、いまの気持ちで描こう。
 
いま、考えて見ても私は風景画家になるという方向に、
だんだん追いつめられ、鍛え上げられてきたと云える。
人生の旅の中には、いくつかの岐路がある。
中学校を卒業する時に画家になる決心をしたこと、
日本画家になる道を選んだのも、一つの大きな岐路であり、
戦後、風景画家としての道を歩くようになったのも一つの岐路である。
その両者とも私自身の意志よりも、
もっと大きな他力によって動かされていると考えないではいられない。
たしかに私は生きているというよりも生かされているのであり、
日本画家にされ、風景画家にされたとも云える。
その力を何と呼ぶべきか、私にはわからないが_____
 
 
 
川端康成氏は次のように
【 散文詩のような文章が音楽を奏でている。
万物肯定の意志を貫き、自然に新鮮な感動を常とし、
謙虚誠実の愛情に生きる、風景画家東山氏の本質は、
この書にも、私たちに親しい調べで高鳴っている。
すぐれた美の本である。 】
 
 
 
 
ミューズの微笑み「東山魁夷美術館」〜アートシーン〜
 
 
『白い馬の見える風景』東山 魁夷/愛した第二楽章
 
 
 
 
 
 
映画『風立ちぬ』を公開初日に観てから、随分と経ってしまいましたが、
直後に感じたあの想いは、やはり時間が経ってもうまく表現出来ず、
今に至ってしまいました。
ですが、素晴らしく的確な解説をされているブログはよくお見かけします。
 
私の感想は、ただ、心地よかったのです。
 
非常に。
 
震災、戦争、死別…、激動ともとれる環境、時代背景なのに、
なぜか淡々と伝わってくるものがありました。
 
ジブリ作品の次回作が『風立ちぬ』ということで、
まず小説「風立ちぬ」の著者、堀辰雄氏の作品に興味を抱いたのですが、
作風のみならず、著者の在り方にも大いに魅かれるものがあり、
その出合いによろこんだものです。
(わたしは堀辰雄氏でしたが、同様に堀越二郎氏に惹かれた方も多くいらっしゃるのでしょうね)
 
 
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堀 辰雄著の小説「菜穂子」のなかで、
菜穂子が半ば衝動的に療養所(八ヶ岳にあるサナトリウム)を抜け出し、
東京にいる夫に会いに行くシーンがあります。
 
圭介(夫)は不機嫌そうに彼女の前に腰をかけたきり、
暫くは何も云い出さずにいた。
「いきなり新宿駅から電話をかけて寄こすなんて驚くじゃないか。
一体、どうしたんだ?」とうとう彼は口をきいた。・・・・・
 
彼女の心の内には、
一瞬、けさ吹雪の中を療養所から抜け出して来た小さな冒険、
雪にうずもれた山の停車場での突然の決心、
三等車の中の立ちこめていた生のにおいの彼女に与えた不思議な身慄い、
それらのものが一どきによみ返った。
彼女はその間の何かに憑かれたような自分の行動を、
第三者にもよく分かるように一々筋を立てて説明する事は、
到底出来ないように感じた。
 
彼女は・・・・・只大きい眼をして夫の方をじいっと見守った。
何も云わなくとも、その眼の中を覗いて何もかも分かって貰いたそうだった。・・・・・
 
「母さんは病気なんだ」
圭介は彼女から眼を外らせた儘、はき出すように云った。
「面倒な事は御免だよ。」 】
 
思わず、がーん!  むかっ!となります。(笑)
 
「菜穂子」この前には、幼馴染の明の見舞い、訪問を受け、
考えさせられるシーンが出てきます。
 
【 「わたしには明さんのように自分でどうしてもしたいと思う事なんぞないんだわ。」
そんなとき菜穂子はしみじみと考えるのだった。
「それはわたしがもう結婚した女だからなのだろうか?そしてもうわたしにも、
他の結婚した女のように自分でないものの中に生きるより外はないのだろうか?…」 】
 
病人が持つ心細さの他にも、その時代の女性ならではの葛藤もあったのだろうと
察することが出来ます。いや、時代は関係ないことかもしれませんね。
 
そして、映画『風立ちぬ』でも同じようなシーンが登場してきます。
はたしてどうでしょうか?
 
受けとめます。
しかも相手の気持ちを察してのことだけでなく、自分のよろこびとして。
 
抵抗しません。
 
そこに嘘がないのです。
 
理不尽なことは起こります。
自分ではどうしようもないことも。
そんな中でも主人公は、失敗の中から何かを掴み、美しい飛行機をつくりたい、
という夢(決意)と共に、真摯に、情熱的に生き抜きます。
 
抵抗していない…。あ、映画、全篇… そうか〜だから心地いいんだ。
そう気づきました。それが諦念なのかもしれません。
 
宮崎監督は、子どもたちに… というこだわりも捨てました。
度々登場する喫煙シーンは、喫煙者でなければ描けないリアルさで、
経験が生かされています。(笑) 
心底感心しました。
伝わってくるものは、ある意味、“あるがまま”の凄さ、なのでしょうか。
二郎役の声も、小細工しない実直さという点で実にぴったりです。
 
言い訳しない潔さ。
 
起こることは起こる。そのとき自分はどう在りたいのか。
どんなことが起ころうと、どんな時代であろうと、淡々と、
常に自分自身であれ(自分に正直であれ)、そんなことを感じた映画でした。
 
       宮崎 駿監督の言葉より ↓(プロフェッショナル仕事の流儀:1000日の記録)
 
「面倒くさいなぁ。まことに面倒くさい。何が面倒くさいって、究極に面倒くさい。
世の中の大事なことって大抵面倒くさいんだよ。
面倒くさくないとこで生きてると、面倒くさいのはうらやましいなと思うんです」
〜この面倒くさい日常さえも、押し流された人たちがいる〜
 
「時代の歪みの中で 夢は変形され、苦悩は解決せずに生きねばならない。
その運命は、実は、現代の世界に生きる自分たちそのものではないか」
 
「風立ちぬ、いざ生きめやも」
 
「時代の風がごうごうと吹く。だから生きなければいけない」
 
「それが この時代の変化に対する自分たちの答えでなければならないと思います」
 
「力を尽くして生きなさい。自分たちに与えられた自分たちの範囲で、
る限り、力を尽くして生きるしかないんです」
 
「結局 自分が作りたいから作るんだっていうしか理由がないんだよ」 ↑
と宮崎監督が頭を悩ませていた企画書です。
 
 
↓ 堀辰雄著:小説「風立ちぬ」に寄せている丸岡明氏の解説から ↓
 
「巧妙に時の流れが立体的にさえ感じられるように工夫されている…」
 
「『風立ちぬ』が私たちにもたらした最も大きな驚きは、
風のように去ってゆく時の流れを、見事に文字に刻み上げて、
人間の実体を、その流れの裡に捉えて示してくれたことである。」
 
 
 
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宮崎駿監督:プロフェッショナル仕事の流儀:引退宣言)
〜創り続ける人生は まだ終わらない〜
 
 
動画のシェアありがとうございます。めざめランドhttp://atanaha-clinic.jp/mezameland/welcome/
上記から一部抜粋↓、まだまだいろんなお話をされています。
 
 
「その人の内側が変わったから、顔が変わったり、現象として何かが起こる」
 
「人のために行動を起こさない。自分のためだけに。自分がどうしたいのか」
 
思考についての質問から
「思考していると気づいた時、『次の思考はどこから来るんだろう?』って唱えると、その瞬間思考が止まる。要は頭の中を探るような状態になる。そのひと言で思考がピーンと止まる」
 
「心のどこかで、まだ、考えたら解決出来ると思っているんです。だから考えるなって言ったって考えなきゃダメでしょう、みたいなところがある。そのような人生をもう何十年も生きてきたからクセになっている。考えても無駄って腑に落ちたら勝手に思考は止まります。まだ腑に落ちないだけ」
 
「瞑想について。行こうとしない。入ろうとしない」
 
「温泉につかる感覚。ただつかればいい」
 
「身体が動いたりする感覚は、(無意識に)2度目から自らが起こしている可能性が強い。瞑想の本質からズレている。生体反応が起こる方に重きを置いている」
 
これは動画からの推察なのですが、“見える、感じる”知井さんが何か読みとったがごとく、「何かないですか?」と話を振ります。「な〜んでもいい」と
(そう言った瞬間に、その言葉から伝わるもので、もううるっときましたが) 
生きるのがつらくなった時、そして生きる意味についてお話されています。
 
「何かをしなくちゃいけないと思うから余計につらくなる。何もしなくていい」
 
「僕らは生まれてから死ぬまでの間、一番何を経験するかというと、それは出会いを経験するんです。みんな八百万の神なんです。八百万の神の伝説はあれは宇宙人の話、あれは宇宙からきてる話。(出会う八百万の神々、一人ひとりは)気づきに至ることだけをしてくる。それが自分の中でイヤなことになる場合もあるし、いいことになる場合もある。つらいことになる場合もあるけれど、自分に気づかせるためだけに起こしている」
 
「たとえば町で見かけるホームレス。その役をかって出てくれた神さまで、その人を見ることによって、自分は豊かなんだなってことも思うことが出来る」
 
「僕たちの人生っていうのは、今日この日のためだけに生まれてきているので、未来のためではなく、これまでのすべての出来事というのは、今日のこの日のために全部必要なことだけが起きている。一つの無駄もなく。この日のために生まれてきている」
 
「あ、自分が神だったんだと、最終的に思いだすために、あの日打ち合わせして分かれてきている。それがたましいの記憶として残っているからこそ、パワースポットに行く。つながっていた時の記憶が残っているからこそ、パワースポットや神社に行く。そこへ行くと、かつて宇宙とつながっていたあの頃の気持ちよさを思い出す」
 
「高次元に行きたいと言うけれど、布団に寝て、あ〜やっと寝れる〜とか、食べる、触れるということが出来なくなる。それがしたいために3次元に降りてきている。光そのものは退屈すぎる」
 
「宇宙というのは、ひとつの画面。いろんな無数のドットの集合体として、一つの画面が見れる。たった一つのドットが球切れ起こすと、テレビを見ている側は違和感を持つ。なので、あなた一人がいらないということは全くなくて、必要があって、分離の中に出てきている」
 
「第一条件、がんばらないこと」
 
そして、マッキーの貴重な体験談も語られています。
 
「あなたの質問がなかったら、この話は誰も聞けなかった。あなたの質問が、あなたの経験が、みんなにこの大切さを教えてくれたんだから…」
 
「来てくれてありがとう!」
 
拍手が起こったとき、涙が溢れていました。すごいや・・・
 
  
 この動画が浮かんできました↓ 
↑ Heart Sutra」についてはまた次回
 
 
行こうぜ、ピリオドの向こうへ・・・知井道通さんのお話 : 先日のブログ⇒  http://p.tl/TBjj 
知井道通さんと牧野内大史さんのトークライブ動画/伝わってくるもの⇒ http://p.tl/p64V
 

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