エックハルト・トール

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「いまこの瞬間」の大切さを説くエックハルト・トール氏
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いま起こっていることはつねに変化しているから、人生の日々は違うことが起こるおびただしい瞬間からできているように見える。だがよく観察してみると(自分の直接的な経験だけを見つめてみると)、そんなにたくさんの瞬間があるわけではないことがわかる。あるのは「この瞬間」だけだ。人生とはつねに「いま」なのである。
 
それではなぜ、たくさんの瞬間があるように思うのだろう?
それは現在という瞬間を、起こっていること、中身と混同しているからである。「いま」というスペースが、そのスペースで起こっていることと混同されている。現在という瞬間を中身と混同することで、時間という幻想だけでなく、エゴという幻想も生まれる。
 
 
ここに時間のパラドックスがある。いっぽうでは、時間という現実を否定することはできない。
(何をするにしても)時間が必要だ。すべては時間の影響を受けずにはいないが、しかしすべては「いま」起こる。これが時間のパラドックスだ。(写真など周囲には)、時間という現実を思い知らされるような証拠があふれているが、しかし直接的な証拠は絶対に見つからない。時間そのものを経験はできない。経験できるのは現在という瞬間、あるいはその瞬間に起こることだけなのだ。
 
エゴが強ければ強いほど、人生はいっそう時間に支配される。そうなるといつも過去から未来のことばかりを考え、自分がどんな人間かが過去によって決定され、自己実現を未来に頼ることになる。恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒りなどは、意識が時間に縛られて機能不全状態になっていることを示している。
 
(外部の条件をもとに、いつかはエゴから解放されるだろう…というような)
エゴのない状態を将来の目標にして努力することはできない。エゴからの解放が将来的な目標である限り、あなたは自分にさらに多くの時間を与えることになるが、さらに多くの時間とはエゴのさらなる肥大を意味している。自分にもっと多くの時間を与えるとは、「自己」に多くの時間を与えることだ。
この時間とは、過去と未来で、心がつくり出した偽りの自己であるエゴが生きる糧であり、その時間はあなたの心のなかにある。時間は五感による認識のために必要な、現実的な目的に不可欠の心の構造ではあるが、しかし自分自身を知るうえでは最大の障害である。
スピリチュアルな探究と見えるものが、実は姿を変えたエゴではないかと慎重に観察する必要がある。
 
時間とは人生の水平軸、現実の表層だ。だが人生には深さという垂直軸もある。垂直軸には現在という瞬間を入り口として近づくしかない。
 
だから自分に時間を与える代わりに、(心理的な)時間を取り除こう。意識から時間を消去することは、エゴを消去することでもある。それだけが真のスピリチュアルな実践なのだ。
 
The Power of NOW』から)
時間と思考とは、言わば「一心同体」、互いに離れることができません。頭から時間の‘概念’をとりはらうと、思考活動は、ぴたりとやみます。つまり、「思考とひとつになる」ことは、「時間のわなにはまる」ことなのです。
実用的な目的で、時間を活用することを「時計時間」と呼ぶことにします。用事がすんだあとは、ただちに「いまに在る」意識に戻る方法を身につけましょう。こうすれば「心理的時間」を心に積もらせたりはしません。「心理的時間」とは、過去と未来をアイデンティティに使ってしまうことです。「心理的時間」はいつも、にせのアイデンティティと結びついています。思考とひとつになっていると、「心理的時間」が、「いまのパワー」、すなわち無限の創造力に、ふたをしてしまいます。
 
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人生に言い続けてきたNO!がYES!に変わるたび、あるがままのこの瞬間を受け入れるたびに、あなたは時間とエゴを解体する。
 
現在の状態や起こっていることは、「いま」がとる形だ。あなたが心のなかでそれに抵抗している限り、その形、つまり世界は、形を超えたあなた自身とあなたを隔てる、突破不可能な障害になる。「いま」がとる形に心のなかでイエスと言えば、その形が形のない世界への入り口になる。
 
いまこの瞬間を受け入れ、どんな形よりも深くて、時間によって侵されることのない完全性を見出さなければいけない。
 
人々は時間に振り回されて永遠を忘れている。永遠が真のあなた自身の生きた現実なのだ。
 
あなたの内なる目的は、目覚めること。
目覚めとは、普遍的な知性と意識的につながることだ。言い換えれば「いまに在る」こと、思考なしの意識である。
 
何をするにしても時間がかかるが、しかし時間はいつも「いま」なのです。
内なる目的が時間の否定でも、外部的な目的には未来が関わってくるし、時間なしには存在できません。でもそれはつねに二次的なのです。不安やストレスを感じるのは、外部的な目的に支配されて内なる目的を見失っているからです。
いちばん大事なのはあなたの意識の状態で、あとはすべて二次的なこと…。
 
(第一義的な目的は「いま」のその行為に意識を込めることなら)二義的外部的な目的は時間の次元にありますが、主たる目的は‘いま’と不可分で、したがって時間を否定します。
自分の人生という旅全体が結局はいまこの瞬間の一歩から成り立っていると気づくことです。
この一歩が主で、行く先は二次的だってことです。(この話はDVD『イリュージョン〜幻想としての時間〜』でも→http://blogs.yahoo.co.jp/wanchan1wan/37249568.html
目的地に着いたときに何に出会うかは、この一歩の質にかかっています。
 
いまこの瞬間と調和すると意識が解放され、全体との調和が実現します。全体とは、存在する微生物から銀河にいたるすべてから成り立っています。ただし、この全体には存在するすべてのつながりよりもさらに深いレベルがあります。その深いレベルでは、すべてはひとつです。それが源です。形として現れていない生命です。時を超えた知性で、それが時間のなかで展開する宇宙という形で現れるのです。
 
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 いまという瞬間は、実は人生・生命とどんな関係でいたいかを決めることでもある。
 
 
「魔法の処方箋:あるがままを受け入れる」
一般的に“辛い状況”と思われていること、その状況を、自分を目覚めさせてくれるものとして捉える。無意識の反応に引きずられていくではなく、目覚めのチャンスとして魔法の処方箋を適応させる…
 
 
〜A NEW EARTH〜
 
自分自身を知るとは自分自身であることで、
自分自身であるとは心の中身と自分の同一化をやめることだ。
自分の心のなかで迷子になる代わりに、
「いまに在る」ことにしっかりと根を下ろすことなのである。
 
ほとんどの人は人生の中身を通じて自分が何者であるかを決めている。
中身とは…
自分が感じ取ること、経験すること、行動や思考や感情、それが中身だ。
年齢、健康状態、人間関係、経済状態、仕事や生活状況、精神的、感情的状態…。
あなたの人生の内部的、外部的状況や過去や未来は、
いろいろな出来事と同じく、すべて中身の領域である。
 
中身を通じてしか自分を知らないと、いろいろな出来事の「善悪」を区別し、
これは「悪い」ことだと決めつける。
だがそれでは人生、生命という総体を断片的に把握する結果になる。
総体はものごとの表面だけを見ていてはわからない。
人生、生命という総体では、すべてがからみあい、
あらゆる出来事が全体のなかであるべき場所と機能を有している。
人生でも、世界でも、
一見偶然のような、それどころか混沌としたわけのわからない出来事の連なりの奥には、
より高い秩序や目的が隠されている。
私たちはいくら考えても、このより高い秩序を理解することはできない。
 
思考に頼りすぎると現実は断片化してしまう。
この断片化は幻想なのだが、その罠に落ちているときには、それが現実だと思い込む。
しかし宇宙とは、分断できない総体であり、
そこではすべてがつながりあっていて、独立して存在するものは何もない。
すべてのものごとが深く関連しあっていることは、
「善」と「悪」という区別が結局は幻想にすぎないことを意味している。
 
ある賢い人物の話〜
何を言われても「そうかもしれない」と。
この賢者の「そうかもしれない」は、起こった出来事について判断しないことを意味している。
判断する代わりに事実を受け入れ、それによってより高い秩序に意識的に参画しているのだ。
J・クリシュナムルティが言ったことは、
「私は何が起ころうと気にしない」
これは何を意味するのか?
自分の内面は、起こった出来事と調和しているということだ。
日本の白隠という禅の老師は、あらぬ容疑をかけられても
「ほう、そうか?」と。
禅師は、偽りにも真実にも、悪い知らせにも良い知らせにも、
「ほう、そうか?」とまったく同じ対応をした。
彼は、良くても悪くても、いまという瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。
彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。
起こる出来事を個人的なものとして捉えない。
彼は誰の被害者でもない。
彼はいまこの瞬間に起こっている出来事と完璧に一体化し、
それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。
起こった出来事に抵抗しようとするから、その出来事に翻弄されるし、
幸福か不幸かをよそから決められることになる。
 
あなたの身体をつくりあげている原子は、かつて星々のなかで形成された。
どんな小さな出来事も、文字通り無限の因果関係のなかで、
思いも及ばない方法で総体と関わっている。
 
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↑西新井大師の弘法大師像
 
ちょっとしたイライラ感、無意識の反応に同様の反応を返してしまうというような、
どんな小さなことでも、
より高い秩序への入り口となっている、と
自分についての見方が狭く限られていて自己中心的であればあるほど、
他人についても自己中心的で限界のある無意識な部分にばかり目がいき、そこに反応する。
相手の欠陥だと思う部分を、相手そのものと見る。
つまり相手のエゴだけを見るわけで、それによって自分のエゴも強化することになる。
ではそのエゴを見ているのは誰か?あなたのなかのエゴである。
 
あなたが現在という時とどのような関係でいたいかを決められるのは、いまのこの瞬間だ。
現在という時間を友人にしたいか、敵としたいか?
現在という瞬間は、実は人生・生命とどんな関係でいたいかを決めることでもある。
いまという瞬間を友人にしたいと決めたら、
それがどんな姿で現れようとも、友人らしく歓迎すること。
そうすればどうなるかはすぐにわかる。
人生・生命はあなたの友人として接してくれる。
 
現在という瞬間を友人にしようという決断は、エゴの終わりを意味する。
エゴの本質は「いま」を無視し、抵抗し、貶めるようにできている。
簡単に言えば、エゴとは現在という時との関係の機能不全であると定義してもいい。
 
 「いまこの瞬間」に対する3つのエゴの対応
エゴにとって、現在という瞬間はせいぜい目的のための手段でしかない。
もっと大事だと考える未来に連れていってくれる手段だ。
あなたはいつもどこかに行こうとして忙しく、決して「いま、ここに」腰を落ち着けることはできない。
 
このパターンがひどくなると、
現在という瞬間が克服すべき障害に見えてくる。
そこで苛立ちや欲求不満、ストレスが生じるのだが、それがあたりまえの状態になっている。
現在という瞬間を障害として見ている限り、問題に終わりはない。
人生、つまり「いま」という時は、あなたの期待通りに応える。
「あなたがとる姿勢に応えよう。あなたが問題だと思うなら、私は問題になる。
障害だと思うなら、障害になる」と。
 
最悪なのは、これもまったく珍しくないが、現在という瞬間に敵として対応することだ。
頭のなかの対話がこうすべきだとかすべきでないという判断や不満や非難であふれているとき
あなたは「あるがままのいま」に反論し、すでにある現在に文句をつける。
つまりはジャッジそのもの
人生を敵に仕立てているので、人生のほうも
「闘いが望みなら、闘わせてやろう」と応じる。
あなたは当然、敵対的な世界を経験する。
 
人生で最も根源的で重要な関係は、
どのような出来事であれ「いま」という時がとった形との関係である。
この「いま」との関係が機能不全なら、その機能不全はあらゆる関係、状況に反映されるだろう。
形を超えて存在している完全性を見逃す。
 
「私は現在という瞬間とどんな関係にあるだろう?」
と、終始自分に問いかけることが大切だ。
「いま」を目的のための手段にしているのか?
それとも障害として見ているのか?
敵にしていないか?
これは人生とどんな関係にあるのかという問いかけなのだ。
見極めることによって選択する力が生じる。
「いま」にイエスと言い、友人にするという選択ができる。
 
あなたの行為が何かの目的のためではなく、行為の遂行そのものが目的で、
そこに喜びや活気を感じているなら、あなたは「いまに在る」。
 
(スティーヴン・ホーキング博士の話とともに)
あるがままを意識のなかで受け入れると、人生の垂直軸の次元、深さの次元が開かれる。
そしてその垂直軸の次元から何か、無限の価値をもつ何か、
そういうことがなければ埋もれたままだったはずの何かがこの世に現れる。
 
ひとかどの人間になろうとか目立とうと思わないでいれば、
あなたは宇宙の力と自分を調和させることができる。
エゴにとって弱点に見えるものは、実は唯一の真の力なのだ。
このスピリチュアルな真実は、現代文明の価値観や条件づけられた人々のふるまいと正反対のところにある。
 
執着せず、判断せず、内なる抵抗をやめることで
内なる空間、その次元に近づくことができるのだ。
 
 
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↑浅草寺の一角
 
 
何よりも、エゴは個人ではないことに気づくべきだ。
エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。
 
 
YOU TUBE〜‘背景にあるもの1’ DVD『イリュージョン』同様、見つめていると「いま、ここ」に
 
 
ccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccccc
 
人間関係を鏡の法則のように‘理解’しても
そこには大きな落とし穴が。
やはり自分がいけないとか、自分が相手にそうさせていると考える前に、
対する相手に何らかの反応を示しているのは誰なのか、
そこに気づかなければ、結局エゴ同士のせめぎ合いに。
 
観念的な自己意識―
(私はすごい!というような)ポジティブだろうと、
(私はダメだ!というような)ネガティブだろうと、どれもエゴである。
 
誰かに優越感や劣等感を感じたなら、
それはあなたのなかのエゴが感じているのだ。
 
あなたがいちばんむかつくのは、腹立たしいのは、
相手のどんなところだろう。
何にしても、あなたがいちばん恨みがましく感じて強く反応する資質は、
あなた自身のなかにもある。
(これは十分承知していることが多い、が…)
だがそれはエゴの一つの形であって、個人的なものではない。
相手の人間ともあなたという人間とも、関係ないのだ。
 
ただその資質と自分を同一化してしまうと、それを自分のなかに発見したとき、
自己意識が脅かされたと感じるだろう。
 
エゴはすべてを個人的に受けとめる。
 
エゴをありのままに
人間の心の集団的な機能不全として認識すること。
 
ありのままを認識すれば、
もうそれを誰かのアイデンティティだと誤解したりはしない。
また、エゴに反応しないでいることも容易になる。
個人的に受けとめることもない。
誰も悪くない。
それだけのことだ。
すべてのエゴイスティックな関係につきものの波乱の火の油を注ぐこともない。
油とは何か?反応だ。
エゴは反応を糧にして肥え太る。
 
一つのアイデンティティを取り払うと、エゴはすぐに別のものを見つけ出す。
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージに
アイデンティティを求めて生き延びようと図るだろう。
 
自分は正しく他者は間違っているという考えは
エゴイスティックな心の主なるパターンの一つ、
無意識の主たる形の一つだ。
エゴの中身は変わってもそれを生かしておく構造は変わらない。
 
他者の無意識を見すごさず、相手と同一化する。
誰がそうしているのか?
あなたのなかの無意識、エゴである。
 
自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。
正しいというのは、
ある精神的な立場 <視点、見解、判断、物語> と自分を同一化することだ。
自分という意識を強化するためには、誰かが間違っていなくてはならない。
 
反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、
人間の集団的な機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものではないと気づけば、
相手個人に反応しようという衝動はなくなる。
 
幻は幻と認識すれば消える、ということだ。幻の認識は幻の終わりでもある。
 
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エゴとは
形への自分の同一化にすぎない。
その形とは何よリも思考の形である。
 
すべての心の活動の核心は
繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンでできていて、
人はそこに最も強く自分を同一化している。
それがエゴそのものである。
 
エゴは悪ではない。ただの無意識だ。
 
エゴが闘っているとき、
そこで生き延びるために闘っているエゴとは
ただの妄想にすぎないことを知るべきだ。
 
エゴが求め執着するのは、
エゴが感じることができない「大いなる存在」の代用品です。
 
「いま、この瞬間」だけがあなたをエゴから解放できる・・・
 
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(↑たまたま今日撮った写真です)
 
自分のなかのエゴを発見したら、「微笑もう!」と。
深刻にならず笑ってしまおうと。
 
「自分の頭のなかの声」が実は自分ではないと気づくと、
すばらしい開放感を味わう。
自分とは、思考する自分を見ている者だ。
思考よりも前にある気づきであり、
思考が <あるいは感情や知覚が> 展開する場である。
 
自分と混同されているすべて、
自分を同一化しているすべてから切り離さなくてはならない。
自分をモノや事物から切り離すこと、
それが本書のテーマである。
 
 
‘背景にあるもの2’
 
 
‘背景にあるもの1’から
「あなたの本質は、形や姿ではなく、空間的意識です。
が、言葉は単なる指標にすぎません。
本当に大切なひとつのこと、
言葉で表現するため、ひとつのこと、と言いますが、それはモノでも形態でもありません。
この気づきは、完全な静寂なときにのみあるわけではありません。
たとえば、“いま”です。
もちろんあなたの意志でそこに入るのですが、
私のサポートも追加されています」
 
‘背景にあるもの2’から
「現在にくつろいでいること。
いまをありのままに受けとめること。
それは静寂の次元へのアクセスを早めます。
何ものにも影響されないもの…
形ある世界の束縛からの解放です」
特に8:31〜14:06(最後)まで、言葉ではない‘サポート’を受けとります。
 
最初の部分は、こちら↓Youtube
 
都会での散歩の経験から、私たちの日常にとても密着したお話をされています。
歩いているとき、意識が行く先の場所や時間にとらわれていたら…
「唯一の現実、今ここから意識がはなれ、行かなくちゃ…と未来に思いが飛んでしまうとそれが緊張をうみだすことになるのです。」
「それが頭が創り出すパターンというものです」
「そこで必死に次の瞬間に急いでいるみなさんにおすすめしたいことがあります」
「ひとつひとつの動きをしっかり感じてみてほしい」
「いつでもその瞬間のあるがままの状態を楽しめるか、それが出来るかということです」
「常に瞬時に‘この瞬間’と共にあることを調整していくのです」
「それがストレスのない状態です」
「ひとつ一つの動きをしながら、‘いまに在る’ということを試みてほしいと思います」
「ひとつ一つのエネルギーの動きに意識を向けていってみてください」
「次の瞬間に行かなくちゃ、それからどうしようという思いは、未来に行こうとすることだからです」
「無意識のうちに、未来はこの瞬間より確実に重要だと信じこんでいるのです」
「あなたが無意識だった何かを意識的なものにすると、それがいかに愚かなことであるか、よりわかりやすくなるからです」
「人間は無意識のうちに信念につき動かされています」
「‘次の瞬間’は、‘いまこの瞬間’より重要なものであると信じこんでいます」
「誰もがわかっているように、もしかするとわかっていないのかもしれませんが、‘未来’は決してやってきません」
「次の瞬間がやってきたとき、それは‘今’になっています」
「今ある状態、生命のつながった‘今’にいられず、人生の豊かさを見逃してしまうのです」
「今ある、あるがままの状態にどっぷり浸ろうとはせず、人生の表面上に留まり、その人生の表面上において何か答えを探しているのです」
「今度はこれが私の人生を変えてくれるものかもしれない、とか」
「絶対にやってこない未来のどこかにそれがあるに違いないと思っているのです」
「それは目からウロコの気づきです」
「未来は存在しないということを、頭で理解するだけでなく、体中の細胞から感じていく必要があるのです」
 
 ‘いま’しかないんだ!「いま」「いま」「いま」何度聞いているでしょう。そして何度忘れているでしょう(笑)
いろいろなことを知った上で、今、また原点に戻らなければいけないようです。真摯に。
 
もちろん上記抜粋した以上に事細かにお話されています。
‘いま’より‘次の瞬間’のほうが重要だと思うある理由も。
「頭は、自分の人生に足りないものを‘次の瞬間’に見いだすことを次から次へと期待しているのです」
 
そして時間のお話へ。
「時間とは、ある思考なのです」
「ですから、時間があなたの人生を支配すればするほど、あなたは思考と一体化することになるのです」
 
思考に支配されていませんか?
「自分の思考のクセに気づいてください」
「その思考と自分自身を結びつけなくなれば、思考は徐々にあなたに対しての影響力を失っていきます」
「過去を忘れる必要はありませんが、それはもう本当の自分ではないのです」
「そしてどんどん自分のアイデンティティーがうすれてきます」
「思考を‘見る’ことが出来たとき、あなたは何者なのでしょう」
「あなたはもはや思考ではなく、思考の背後にある存在なのです」
「思考に支配も圧倒もされていないので、そこにはもう自我がないのです」
「過去、それはストーリーであって、単なるストーリーとしての認識なのです」
「エゴを存続させるために、ストーリーに依存していることにも気がついています」
「突如として、あなたそのものである意識が、思考という形態から自らを切り放します」
「すべての思考は生きもののようです。その形あるものに自分を一体化していたのです」
「それらを自分から切り放すと、純粋な存在の感覚だけになります」
「そこが‘いまこの瞬間’であり、その意識の状態への入り口になります。思考と一つになっている状態からの出口でもあります」
 
今この瞬間
「いまこの瞬間というのは、深層レベルで言うと、‘意識そのものである空間と一つであること’なのです」
「それが、時間や形を超越した本当のあなたなのです」
「この瞬間こそが人生であり、人生は形を持ってやってくるのです」
「あなたがそれを受け入れたとき、内面での調和が生まれてきます」
・・・・・・
「その空間から、あなたという空間から、‘いま’という空間からそれらは生まれ出てくるのです。それが人生の秘密です」
 
「言葉は単なる案内板です。言葉への執着を手放してください」
「ここには言葉より大切なものがあります」
というように、独特のエネルギーをDVDで体験するのも、また自分自身と今一度向き合いたいという方にも、
とてもいい機会になるかと思います。
金言のようなお話はまだまだ…
ゆったりとした息遣い、呼吸にイヤでも引き込まれるはずです。
 
DVDのお求めはこちら↓
 
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こちらは↓エックハルト氏の自伝
つづき↓
 

 
〜『The Power of NOW』(邦題:さとりをひらくと人生はシンプルになる)〜
 
エゴ的思考は、「わたしは不十分です」という根強い気持ちをともなうのが特徴です。
この気持ちを自覚している人もいれば、まったく無自覚の人もいます。
本人が自覚している場合には、「わたしは価値がない」という不安定な感情が、いつも表面化してきます。
これが自覚されていない場合だと、
なにかに対する渇望という、間接的なかたちをなってあらわれてきます。
いずれにしろ、心にぽっかりあいた穴をうめるために、何かに のめりこむケースが多いのです。
しかし、自分の外側、または形あるものごとをそれを求めても心の穴はうまるどころか、
穴が底なしであることにいずれ気づくと。
たとえば自分自身が満たされた状態ではないのに、身を粉にし、何かに尽くすケースなども…
そうすると自分を欺くこともできなくなり、にっちもさっちもいかなくなるのです。
エゴ的思考が人生をコントロールしているかぎり、真の心の平安を得ることはできません。
エゴ自体が、ほんとうの自分の代用品であるので、ほんものではなく、
自分の外側にある‘にせもの’で、アイデンティティを証明する必要があるのです。
 
  
 
思考をアイデンティティから切り離してしまえば、自分が正しいかどうかなどはどうでもよくなり、
負けたからといって、アイデンティティがゆらいだりすることもなくなります。
そうすると、
「絶対に自分は正しくないといけない」という強い感情(これは一種の感情的暴力です)を、
もう抱くことはありません。
これは思考ではなく、自分の内側にある「大いなる存在」をアイデンティティにしているからです。
 
自分が(たとえば)自己防衛をしていると気づき、その行動を観察すれば、その行動をやめるでしょう。
思考を観察して、自分から切りはなすと、思考がくりかえしおこなうパターンと、
エゴがいつも演じたがる役に気づくようになります。
 
意識の光に照らせば、無意識のパターンは消え去ります。
思考からパワーを奪回すれば、思考は強迫的な性質を失います。
思考の強迫的な性質というのは、「決めつけ」をせずにいられないことです。
決めつけをすると、「すでにそうあるもの」に抵抗することになり、
痛みを生む衝突やドラマをこしらえてしまうのです。
「すでにそうであるもの」を受け入れると、もう思考から支配されません。
 
「いま」に在り、自分の内側を観察しつづけるのです。
 
幸運にも身近に、しっかりと「いまに在る」人を見つけられたら、その人物と一緒に過ごすことをお勧めします。
「いまに在る」人のそばにいると、自分も比較的簡単に「いまに在る」ことができるからです。
その人といることが、自分自身の「意識の光」を、強くするのです。
 

 
最後に、ある意味とても矛盾するお話(笑)。雲 黒斎さんのツイートを。
【精神世界を「学ぼう(情報やマニュアルの収集をしよう)」という姿勢自体が、
精神世界の理解を妨げてしまいます。
なぜなら、僕たちが人生の中で培ってきた情報やマニュアル、
それらを一度手放した時にこそ、その理解が訪れるからです】
 

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