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「いまに在る」
そこに至るまでのプロセスでは
無意識の反応、リアクションが習慣になっていることを痛感します。
しかも自身の行動よりも、身近にいる自分以外の人の言動から、気づかされることが多いようです。
「攻撃」 「防衛」 「カラに閉じこもる」
これらの無意識のリアクション(反応)は、ゲリー・ボーネルさんの言うレスポンス(応答)とは
対極にあるものなのかもしれません。
反応しないようにと、無意識に黙り、こらえること、結果「カラに閉じこもる」という反応も
経験上、案外見過ごされている無意識のリアクションのひとつのように思います。
そして「攻撃」「防衛」、といっても大層なことではなく、
遠慮がない関係においては、愚痴や言い訳、責任転嫁、正誤等のジャッジにおいて、
始終、飛び交っているものなのかもしれません。無意識に・・・
〜 「The Power of NOW」 〜
ネガティブ性がわき上がってくるのに気づいたら、
それがどんな理由によるものでも、特にこれといった理由が見当たらない時でも、
「『いま』と『ここ』に注目!目を覚ましなさい」と、自分に呼びかけているつもりになりましょう。
わずかないらだちでも、高をくくるのは禁物です。
ネガティブな感情はみな、認識し、観察する必要があります。
観察されない感情がどんどん心の中に積もっていくからです。
「ネガティブな感情は、無益だから心にためこむのはやめよう」
そう思った瞬間、ネガティブ性を捨ててしまえるかもしれません。
もし、捨てることが難しいなら、
ネガティブ性がそこにあるという事実を受けいれ、ネガティブな感情を観察するのです。
ネガティブ性を捨てられない時には、
反応を引き起こしている外的要因が、透明になった自分のからだを通り抜けていく、
とイメージする方法で、ネガティブ性を忽然と消すことも可能です。
自分にネガティブなリアクションを起こさせた原因が、からだを通り抜けていく様子をイメージしましょう。
物事が痛ましくたたきつけてくる「こんなはずではなかった」という、抵抗の壁をつくるかわりに、
自分のからだを通過させてしまうのです。
たとえば、部屋で静かにくつろいでいた時、突然耳をつんざくような音が鳴り出しました。
あなたはいらだちはじめました。
でも、いらだちは、役に立っているでしょうか?なんの役にも立っていませんね。
では、なぜいらだちは起こったのでしょう?
あなたがつくったわけではありません。思考がつくったのです。
この思考のプロセスは、自動的で無意識的です。
思考は、ネガティブ性が、望ましくない状況を、どうにか解決すると潜在的に信じているからです。
もちろん、これは大きな錯覚です。
思考がつくるネガティブな感情は、解決しようとしていた、もともとの原因(この場合の騒音)より、
よっぽど人間にとって有害なのです。
もし、誰かがあなたを傷つける意図で、なにか気にさわることを言ったとしましょう。
そんな時には、その言葉が、すーっと自分を通り抜けていくところをイメージするのです。
抵抗はすべて手放しましょう。
「もう誰も、わたしを傷つけることはできない」という心境です。
これこそが、ほんとうの「許し」です。
この許しをしていれば、わたしたちは、はがねのごとく強靭でいられるのです。
許しをしているかぎり、誰かの言動に、自分の心の状態がコントロールされることはありません。
ほかの誰かに対してではなく、自分自身が、コントロールの座に就いているからです。
原因が、騒音でも、無礼な人でも、洪水でも、地震でも、全財産を失うことでも、
ネガティブな感情を手放す方法は、みんな同じです。
瞑想、ワークショップ、読書をしても見つけられない永続的な心の平安、ほかになにをすればいいのか?
あなたは、自分の外側に「心の平安」を求めているからです。
「もしかすると、次のワークショップに答えがあるかもしれない」
「もしかすると、新しいテクニックがあるかもしれない」
このように、「探す」という姿勢でいるかぎり、「心の平安」の境地に達することはありません。
「いま、自分がいる状態」以外の状態を、探してはなりません。
無意識のうちに軋轢や抵抗を心につくりだすことになります。
平和の境地にいない自分、「いま、自分がいる状態」を、あるがままに受けいれるのです。
自分が「非・平和」にいることを、完全に受けいれた瞬間、「非・平和」は、平和に変わります。
わたしたちが「なにか」を受けいれると、それがどんなものでも、
わたしたちはその「なにか」を超越することができるのです。
つまり「非・平和」を超越することで、平和へと到達できるのです。
これが「受けいれること」から生まれる奇跡です。
「すでにそうであるもの」を受けいれた時・・・
すべての瞬間は、ひとつ残らず、全部極上になるのです。
これがさとりをひらくことなのです。
他者の苦しみや、無意識の行動に直面しても、「いま」に在り、「大いなる存在」につながっていれば、
かたちを超えて相手を見ることができるのです。
相手の輝ける純粋な「大いなる存在」を、自分自身の「大いなる存在」をとおして見ているのです。
すべての人の「大いなる存在」に気づくことで、奇跡的な癒しが起こることもあります。
私たちの唯一のパワーの源である「いま」につながってはじめて、真の許しができるのです。
「いま」につながれば、過去は無力になり、自分がこれまでしたこと、されたことは
「ほんとうの自分」という輝かしい本質を傷つけるどころか、それをかすりもしなかったのだと、
心の奥で気づきます。すると、「許し」という概念そのものが、不必要になります。
本のタイトルではありませんが、(外ではなく、内にある)「いま」のパワーに気づくこと、
それこそが、すべての鍵のような気がします。
感情もエネルギー、様々な捉え方・変換法が紹介されています。 感情エネルギーの変換法/越智啓子・OSHO・津留晃一・マイケルJローズ・他
http://blogs.yahoo.co.jp/wanchan1wan/31826324.html 反応と応答の違い / 質問と洞察 / マイケル・J・ローズ 目覚めた行動の三つのモード/『ニュー・アース』エックハルト・トール著
「いまこの瞬間」の意識のパワーに気づく/『ニュー・アース』エックハルト・トール著
他
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エックハルト・トール
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「いまこの瞬間」の大切さを説くエックハルト・トール氏
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「人生の目的は?」というより、「人生が私に用意している目的は何か?」を尋ねる。
その答えはすぐには来ないかもしれません。
人生に尋ね、答えを受け取る準備として、とても大切なことは・・・
あなたの人生にもっともっと「静寂なとき」を取り入れることです。
そうすれば、絶え間なくやってくる「思考という雑音」に消耗され続けなくてすむのです。
「思考という雑音」はだいたいにおいて必要ではないし、繰り返されているだけのものなのです。
「静寂のとき」というのは極めて大切なものです。
なぜなら、そこにこそあなたの求める潜在的な答えがあるからです。
(そして、当の本人でも理由はわからない、強い衝動に駆られたときの体験談を)
後でわかったことですが、
(ずっと暮らしていたイギリスではなく)アメリカ西海岸のエネルギーフィールドが
この本が生まれ出るのに必要なものだったのです。
ですから、強い衝動に駆られたときは、その都度人生を信頼してきています。
(『ニューアース』で花を取り上げていることについて)
自然界に存在するすべてのものは「内なる静寂」につながる道となります。
「花」は他の植物に比べて、とてももろい存在です。
「花」は他のほとんどのものに比べて密度がないのです。
密度があまりないために、精霊がより自由に流れやすくなっている状態なのです。
ですから、思考を取り込まないで花をじっくり観察してみると・・・
イエスが言った「野に咲くユリの花を見なさい」という言葉は、
本当に、真剣に見なさいということを言いたかったのです。
それらが、あなたの中にもある何かを体現しているのだということを。
でもあなたは、明日のこと等を心配し過ぎているために見逃している・・・ということなのです。
これらの花々は明日のことは心配していない。
それがどんなに美しいのかを見なさい・・・
イエスは、人間にも宿る深い次元に触れてもらいたくて自然界の花々を使ったのです。
(オプラ・ウィンフリーさんの体験談)
すべてのものについている名前をとって庭に出てみようと決めたのです。
赤ちゃんが学ぶような気持ちで花も知らなくて、初めて見るような感じで庭に出てみたのです。
そのとき私は不思議な瞬間を察知したのです。
「威厳に満ちた感覚」というようなものを感じたのです。
いままで感じたこともなかったようなパワー、強さ、つながりを感じたのです。
見ていることと一体になったのです。
この本『ニュー・アース』で言いたかった主なテーマは、「その状態」でもあるのです。
人は決めつけたがるのです。
頭で生きていますから・・・
でも、まず今までと違った関係を自然界のものたちと持ち始めるのです。
それらを見るときに「静寂の状態」から見てみるのです。
つまり「意識」から見るのです。
すべてのものは、ただ生き生きと振動していて、キラキラと輝いているんです。
すべてが活気に満ちているんです。
公園を通り過ぎるだけでもワクワクするんです。同じ道とは思えないくらい。
あなたが思考にとらわれていた時には、それを見落としていたのです。
多くの人は、ひっきりなしにやってくる思考の騒音にとらわれ過ぎて、
すべての意識がそちらに吸い取られてしまっているのです。
あなたは思考に心を奪われてしまっているのです。
思考で頭がいっぱいで、周りにあるすべてのものからの情報を受け取れなくなっているんです。
思考によって自分を見失っているのです。
昨日撮った国立西洋美術館庭園の「考える人」
『ニューアース』より 内なる空間の認識
ときおり思考と思考のあいだの空間が生じているのに、自分では気づいていないのかもしれない。
最初はその空間に気づくことがとても難しい。
要するにいつもほかのことに気をとられているから、自分自身に気づけない。
目が醒めているあいだじゅう、ネガティブな状態で過ごしているのでなく、
たとえばシンプルな雨や風の音を楽しむことができるとしたら、
空を流れる雲を美しいと眺め、ときには一人でいても寂しさを感じず、
娯楽という精神的な刺激物も必要としないとしたら、
何も求めず親切に対応する赤の他人のように自分自身を見られるとしたら・・・
ほんの一瞬であれ、空間が開かれたということだ。
たとえば、美を愛し、シンプルなものごとを評価し、一人でいることを楽しみ、愛情をもって親切に人に接する
という能力のいずれにも共通する要素がある。
その共通の要素とは、これらの経験を可能にする見えない背景としての充足感、平和、躍動する生命感である。
美や優しさやシンプルなものごとの良さを認識できたときには、その経験の背景として
自分のなかに何があるのか(探すのではなく)観察しよう。
精神的に把握して定義できるものでもない。
その経験の源泉であり背景である内なる広やかさ、(言葉を超えた「いまに在る」楽しさ)を感じてみよう。
歴史を通じて詩人や賢者は、真の幸福・・・・私はそれを「いまに在る喜び」と呼ぶ・・・・が
シンプルで一見ささやかなものごとのなかにあることを見抜いていた。
(ほとんどの人たちは‘期待’することによってその大いなる‘ささやかさ’を見落とす、と)
では、なぜ「ごく小さなこと」が「最高の幸せ」をもたらすのか?
最初はそう感じるかもしれないが、
実は真の幸せはこのようなものごとや出来事によって引き起こされるのではない。
これらのものごとや出来事はごくささやかで控えめだから、意識のほんの一部しか占領しない。
そこで残るのが内なる空間、形に邪魔されない意識そのものである。
内なる意識空間とあなたの本質とは同じひとつのものだ。
ささやかなものごとは、内なる空間の余裕を与える。
そして、この内なる空間、条件つきではない意識そのものから、真の幸福「いまに在る」喜びが輝き出す。
内なる空間を発見する方法がもう一つある。
意識を意識することだ。
「I AM 私は在る」とつぶやき、あとは何も付け加えない。そのあとに続く静けさを感じ取ろう。
それはすべての創造、すべての形を生み出す広々とした子宮である。
静かであれ、見よ、耳を澄ませ、いまに在れ。
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あなたを通じてこの世界に流れ込む意識のモードには三種類ある。
あなたが人生・生命を宇宙の創造的な力と調和させる三つの方法である。
この三つのモードは、あなたの行動に流れ込んであなたの行動を
生じつつある目覚めた意識と結びつけるエネルギーの周波数を意味する。
目覚めた行動の三つのモードとは、
受け入れる ・ 楽しむ ・ 情熱を燃やす
↑
それぞれは意識の振動の周波数が異なる。
このモードは一日のなかでも変化するかもしれないが、人生のある段階ではどれか一つが支配的になるだろう。
状況によって適切なモードは異なる。
よく観察すると、受け入れるでも、楽しむのでも、情熱を燃やすのでもない行動は、
自分自身か他人を苦しめているはずだ。
受け入れるとは、
たったいま、この状況のこの瞬間に自分がしなければならないことだからしよう、と思うことである。
受け入れれば、安らかな気持ちで行動できる。(たとえ緊急のことでも)
その安らぎは、微妙な振動のエネルギーとして、行動に流れ込む。
表面的には受け入れるのは受身に見えるが、
実際にはこの世界にまったく新しい何かをもたらす積極的で創造的な状態だ。
その安らかさ、微妙な振動のエネルギーが意識であり、
そのエネルギーをこの世界に流入させる方法の一つが、抵抗せずに降参することだ。
これは受け入れることの一つの側面である。
行動を楽しむことも受け入れることもできないのなら、やめればいい。
そうでないと、自分がほんとうに責任を取れる唯一のこと(ほんとうに重要な唯一のこと)に
責任を取れない。
その唯一のこととは、あなたの意識の状態だ。
抵抗せず降伏すると安らぎが得られるが、行動を積極的に楽しむと安らぎは躍動する生命感に変わる。
新しい地では、人々の行動を左右する動機として、楽しみが欲望に取って代わるだろう。
目的のための手段として行動するのではなく、
いまこの瞬間に全身全霊を込めて行動すれば、どんな行動でも楽しむことができる。
ほんとうは楽しいのは行動ではなく、
そこに流れ込む深い躍動する生命感で、その生命感はあなたと一体なのだ。
だから行動を楽しむというのは、実は生命感のダイナミックな側面を体験することだ。
だから何であれ、楽しんで行動すれば、すべての創造のもとにある力と結びつくことができる。
力強く創造的に拡大する人生を実現するスピリチュアルな実践方法がある。
毎日繰り返す日常の仕事、日常活動のリストをつくってみよう。
(平凡なもの、退屈なもの、苛立たしいもの、ストレスの多いもの等も入れるが、
嫌でたまらないことはいれない。嫌でたまらないことは、受け入れるかやめるかのどちらしかない)
リストの行動をするとき、それを気づきの実践の道具にする。
することに全身全霊を注ぎ、行動の奥に自分のなかの躍動的な生命感を感じ取るのだ。
こうして一つ一つの行動に気づきつつやってみると、むしろ楽しいことがわかるだろう。
外形的な行動が楽しいのではなく、行動に流れ込む、内なる意識の次元が楽しくなる。
行動のなかに「大いなる存在Being」のよろこびが発見できる。
人生の主たる目的は、意識の光をこの世界に持ち込むことだと気づいて、
することなすことすべてを意識のための道具にする人が増えていけば、新しい地が生まれる。
自分の行動を楽しみ、それが目指す目標やビジョンとうまく組み合わされば情熱が生まれる。
目標があっても関心の焦点は、現在この瞬間にしていることに置かなければいけない。
そうでないと宇宙的な目的と調和できなくなる。
あなたは情熱を通じて宇宙の創造原理と完全に調和するが、その創造に自分を同一化することはない。
つまり、そこにはエゴはない。
何かとの同一化がなければ、苦しみの大きな原因の一つである執着もない。
誰も情熱的なままで一生を過ごすことはできない。
形の解体に向かう回帰の動きが始まると、もう情熱はあなたの役には立たない。
情熱は、生命(人生)の外に向かう動きのサイクルに属している。
回帰の動きには(帰路の旅には)、降伏を通じてのみ、自分を調和させることができる。
ストレスと違って情熱はエネルギーの振動数が高いので、宇宙の創造力と共鳴する。
情熱が燃えているときには、自分だけで行動しているのではないと感じる。
情熱は創造的なエネルギーを呼び起こすから、あなたはただ「波に乗って」いけばいい。
あなたを通して この世界に流れ込むもの・・・
その本質を あなたはすべての生きとし生けるものと共有する。
「この本は〝静寂の空間〟から生まれてきました。
そこはいままでずっと、すべての創造が生まれ出てきたところです」 |
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エゴとは無意識である。
自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。
自分が正しいなら、
間違っている人や欠陥のある状況に対して、自分が論理的に優越していると思うことができる。
その意味でエゴは優越感を欲し、優越感を通じて自ら(エゴ)を強化する。
他者のエゴに反応しないこと。
反応しないとは、ゆるすことだ。
あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。
反応しないのは決して弱さではなく、強さである。
最大の防御策は、意識的であることだ。
それが、自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、
人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。
エゴは他人だけでなく、状況にも不満や恨みをもつのが大好きだ。
人だけでなく、状況を敵にすることもできる。
不満と、誰かに過ちや欠陥を教えて正させることを混同してはいけない。
不満をもたないことは、必ずしも質の悪さや劣悪なふるまいを我慢することではない。
(事実だけを取り上げるなら、事実はつねに中立だから―――エゴではない)
(混同するケースに、誰かが悪いと決めつけて喜ぶ「私」がいないか・・・)
何かに不満を持ったとき、頭のなかの声を把握できるかどうか、
つまりその正体に気づけるかどうか、試してごらんになるといい。
それはエゴの声、条件づけられた心のパターン、思考でしかない。
その声に気づけば、同時に自分はその声とは違うこと、
その声に気づいているのが自分であることがわかるだろう。
実際、声に気づいている、その「気づき」があなたなのだ。
(また)、あなたが真実だと知っていることを淡々と述べるなら、エゴは介入していない。
自分をある一つの見解と同一化していないからだ。
(ただし)、エゴは「私」という簡単な言葉に隠れている。
どのエゴも、見解や視点を事実と混同する。
思考ではなく、気づきによってのみ、事実と見解の違いを見分けることができる。
気づきによってのみ、正しく見ることができる。
自分のなかのエゴに気づいたとき、それは厳密に言えばもうエゴではなく、
古い条件づけられた心のパターンになる。
気づきとエゴは共存できない。
特定のエゴイスティックなパターンを誰かに発見して強く反応し、
それが相手そのものだと誤解するときは、
たいてい自分自身にも同じパターンが存在する。
その意味では、相手から学ぶことはたくさんある。
あなたがいちばん恨みがましく感じて強く反応する資質は、あなた自身のなかにもある。
だが、それはエゴの一つの形であって、個人的なものではない。
相手の人間とも、あなたという人間とも、関係ないのだ。
(ただその資質と自分を同一化してしまいがち)
形のうえでは、あなたは誰かより劣り、誰かより優れているだろう。 だが、あなたの本質は誰にも劣っていないし、優れてもいない。 それを認識したときに、真の自尊心と真の慎み深さが生まれる。 エゴの目から見ると、自尊心と慎み深さは矛盾している。ほんとうは両者は同じものなのだ。 他人に傷つけられそうになって自分や誰かを守る必要がある場合もあるが、
「悪を退治する」のが自分の使命だと考えないように気をつけたほうがいい。
自分も闘う相手と同じことになってしまう。
無意識、つまり機能不全のエゴイスティックな行動は、闘っても退治できない。
何を相手に闘っても、闘えば相手はますます強くなるし、あなたが抵抗するものはしつこく存在し続ける。
(病気は、エゴを強くも弱くもする)
闘いは、心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって強くするし、
たとえ闘いに勝っても、
打ち負かした敵と同じような、それどころかもっと手ごわい敵、新しい悪を生み出す。
エゴをありのままに人間の心の集団的な機能不全として認識すること。
ありのままを認識すれば、もうそれを誰かのアイデンティティだと誤解したりはしない。
また、エゴに反応しないでいることも容易になる。
個人的に受けとめることもない。
誰も悪くはない。
それは誰かのエゴ、それだけのことだ。
人によっては症状が重いかもしれないが、誰もが同じ心の病に苦しんでいるとわかれば、
共感をもてるし、やさしくなれる。
すべてのエゴイスティックな関係につきものの波乱の火に油を注ぐこともない。
油とは何か? 反応だ。 エゴは反応を糧にして肥える。
抵抗すると心が縮こまって、エゴの殻が固くなる。あなたは閉ざされる。
抵抗しているとき、否定的な状態のとき、どんな行動を取っても、さらに外部の抵抗にあう。
抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。
エゴから解放されるために必要なのは、エゴに気づくこと(観察する)だけだ。
あなたが自分を同一化していた形、自己意識を与えてくれた形が崩壊したり奪い去られたりすると、
エゴも崩壊する。
エゴとは形との同一化だからだ。
どんな状況でも、その役割に自分を同一化せずに、しなければならないことをする。
エゴを乗り越えるとは、中身から脱することである。
(中身とは、自分が感じとること、経験すること、行動や思考や感情。ほとんどの人はそこに自分を同一化する)
自分自身を知るとは、自分自身であることで、
自分自身であるとは、心の中身と自分の同一化をやめることだ。
人類を苦しめてきた悲惨さに終止符を打つには、 与えられた瞬間の自分の内面の状態に自分が責任をもつことから始めなくてはならない。 たったいまから。 いまこの瞬間、自分のなかにネガティブな状態があると気づいてもそれは失敗ではなく、成功である。
気づけば、思考や感情や自動的な反応と自分が切り離される。 これを否認と混同してはいけない。 否認ではなく、認識で、認識の瞬間にそれらとの同一化が解消する。 (それは)気づきであり、「いまに在る」意識として内面状態を観察している。 思考から気づきへの変化が起こると、エゴの小賢しさよりもはるかに偉大な知性があなたの人生に働き始める。
気づきによって、感情や思考さえも個人的なものではなくなる。
それが本来、個人的なものではないことがわかってくる。もうそこには自己はない。
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エックハルト・トール氏のお話「苦しみの終焉」
すべてを甘受して生きていきたい〜
それは「いま この瞬間ある状態をありのままに受け入れて」初めて可能になります。
あなたがある苦しみのところまで行き着いた時、
その苦しみのほとんどは自分で創りだしていたということに気がつくはずです。
それは、あるがままの状態に対する抵抗から生まれたものであり、
そこにあるものに、ある意味を付けたことで創られたものなのだと気がつくのです。
それは自分が意味付けした思考から生まれたものであり、
その状況そのものから生まれたものではありません。
ですからあなたが・・・
「苦しみは十分体験した」と本当に気づいて、実際人生においてその体験を十分にしたのであれば、
あなたは「もう苦しみはご免だ。十分だ」ということができるところにきたのです。
ほとんどの人にとって、「苦しみ」だけが唯一のスピリチュアル・ティーチャーです。
また「苦しみ」は、あなたを豊かにするものです。
苦しみは徐々に襲ってきて、エゴの自分に気づかせてくれるものです。
苦しみからのメッセージに心を開く・・・
人間の苦しみをたくさん体験したからこそ、
「もっと違う生き方がある」というメッセージを受け取る段階にきたのです。
その生き方とは、「もう自分で苦しみを創りだすことはしない」・・・というものです。
なぜなら大体において、人間は自分で苦しみを創りだしているからです。
ですから、あなたがそのメッセージに耳を傾ける準備ができたなら・・・
準備が整った人は、実際にスピリチュアル・ティーチャー、霊的な教えに出会っていくのです。
そして「もうこれ以上苦しむ必要がない」と、目覚めた人生へと加速していくことができるのです。
あなたが自分自身に対して苦しみを与えなくなると、誰も、何も、あなたを苦しめなくなります。
あなたの思考があなたを苦しめているのです。
現状でもないのです。
苦しみは100%、あなたがその状況に意味付けした思考からくるのです。
だからそれがわかってくれば他の生き方があるとわかるでしょう。
それは「もうこれ以上あるがままの状態にああだこうだというのをやめよう」という生き方です。
これが自分自身を苦しめることから解放されることなのです。
他の人を苦しめることももうなくなるのです。
なぜならこのふたつはいつも一緒だからです。
「スピリチュアルに生きるとは」
スピリチュアリティーとは一体何であるのか・・・
それはスピリチュアルに生きるかどうかの問題なのです。
スピリチュアルに生きたくなければ、それはそれでいいのです。
シフトが起こる準備が整うまで、悩んだり、苦しんだりするだけです。
人間はあるところに辿り着くまでに、準備を必要とするものなのです。
私はもう十分な体験をした・・・。もう変化していく準備が整った。そして、もうこう言うことができる・・・
「いま この瞬間」だけが存在しているのだ。
私は「いま この瞬間」ともっと仲良くしていこう。
それがどんな状態でやってきても、「いま」を認めて、意識して生きていこう。
「その状態」というのは、「その瞬間」とは違います。
「その瞬間」がとった形が「その状態」、「いま」なのです。
「いま」というのは、「起こることそのもの」ではなく、
起こることが「起きる場所」が、「いま ここ」なのです。
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