空(くう)/深・古事記

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【いのち】は根本で、ひとつです。
西洋風にいうならばワンネスです。
その「本もと」たる【いのち】が、自由自在に、四方八方に、
「いざ、栄えよう!」と意気込んで、分裂増殖しながら追進するのです。
その「本」たる【いのち】が枝分かれした「先端」「分」が個々人であるのですから、
そこには一切の貴賤の差別はありません。
 
高天原・豊葦原・根の国という三種世界は、外に漠然と在る世界なのではなく、
全ての【いのち】の内側にある世界なのです。
 
照大御神は、【いのち】の輝かしさを象徴しています。
でも、その【いのち】の【和魂にぎみたま】は、ただそのまま在るだけでは何も光らず輝きません。
「現実界」(豊葦原)が【いのち】の表現の場だということを明確に確認し、
その表現を実践行動していこうとする「荒魂あらみたま」を用いてこそ、【いのち】は真に光り輝くことができるのです。
 
沢山の無数の【いのち】(全ての個人個人)が「神ながら」のシステムを成しております。
それぞれの分担を持っており、その都度の個性・才能・特色を発揮するという点では、
誰ひとりとして同じではなく、その一人一人でさえ、
毎度毎度で違った存在になっていることが「いのち」の基本です。
 
いかに大きな愛の意気込みをもって、いかに小さなことにも誠を尽くすのかが大切だということです。
個の中に流れている無限の【いのち】は、他の全員の中にも流れており、
それは全く同じ源の【いのち】であり、各自が個にこだわることは、非常におかしなことと言わねばなりません。
 
 
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大国主命と「ちいさなもの」の出会いが紹介されています。
(すべての人類は、この大国主命の復活した魂でもあると)
大国主命の「荒魂」と、少名彦さまの「和魂」の出会いでもあります。
そして、この小さい、少ないの象徴のような少名彦さまが、とても重要であるとセミナーでも。
「ちいさなもの」↓
 
古事記(神代の巻)より他に、少名彦さまのお心を深く味わうところは、そうそうありません。
少名毘古那神すくなびこなのかみ、少名彦命すくなひこなみこと、少様と呼ばれている神様です。
 
稲羽の白ウサギが、大国主命によって回復するお話がありましたが、
実は、その時にも、この少名彦さまが眼に見えない働きをされております。
ウサギの細胞を癒していった働きは、
少名彦さま自身であるその細胞(和魂)が、大国主命の愛(和魂)によって、
共振し、自ら化学反応をおこしたことによるものです。
このことから、少名彦さまは、「薬」の神さま(=物理化学反応の神さま)としても
祀られておられます。
 
大国主命のように、大きな力、沢山の財、有名な地位、
そういった外側に見えるものは何も持っていない、【いのち】としての極小単位が少名彦さまだったのです。
(今風にいいますと、ips細胞のような極小単位を象徴しているのでありましょう)
 
大国主命が「根の国」での修行をすませ、実際に「現し国」で個人の業績は上げたものの、
それは、権力が主になっていて、あまり豊かな方法ではなかったと、お気付きに。
 
少名彦さまの教訓
「どんなに立派な力を持った心臓でも、心臓は、心臓のための心臓ではないのです。
他の臓器のために心臓として働くのです。
どんなに立派な力を持ったあなたでも、あなたは、あなたのための「あなた」ではありません。
他の者たちのために「あなた」として働くのです。
あなたに欠けていたものは、個人を超えた全体愛の心、すなわち【和魂】だったのです。
自己の喜びと満足だけを考えるなら、そこに【和魂】はありません。
私が持っているこの【和魂】を中心としなければ、みんなが喜ぶ国づくりなどできませんし、
国を治めることもできません」
 
少名彦さまのお供になってからは、【自他の区分をなくす】ところに進んでおります。
以前、「大小ではかるな!」という教えでもあるとお話されていました。
そもそも荒魂でもある私たちの身体、その行ないに「和魂」が具われば…。
 
あらゆる【いのち】に敬意をはらい、
生きることそのものに対する根本的な愛こそが、少名彦さまの教えです。
神皇産霊神かみむすびのかみは、【いのち】を産み、生かす神です。
その御子様である少名彦さまの弟分になって、
大国主命が国づくりの仕上げをなさったということは、
学問・技術の世界から、【いのち】の世界へ入ったことをあらわしているのです。
つまり、「何のための学問、何のためのビジネス、何のための技術であるのか」というところに・・・
どんな商売も、どんな学問研究も、どんな産業も、それを生み出したところの
【いのち】に対する敬意がなければ、それ以上発展することはありえず、
全人類を豊かな心にすることはできないのです。
 
「天の恵み」と「地の恵み」(高天原と根の国)がなければ、
なにひとつ「現実界」へは生まれません。
決して、単独の人間の意志や、頑張りだけで仕上がるものではございません。
 
人が人である所以は、「神」の【ひ】を宿すがゆえなのです。
私たちは、すべからく全員が「高天原」の種子(=いのち)を頂いております。
大和の国に舞い降りた、弥栄なる「神ながら」の【いのち】の種子を、
自分勝手な心で私することなく、世界中のあちこちに、
ますます手伸しく(たのしく)蒔かなくてはならないのでございます。
 
 
セミナーでもおっしゃっていましたが、相手も「神」と思え、と。
「光の柱を立てる。森羅万象の柱をバン!と降ろす。
人間意識からすると、静かなあきらめに。熱意が湧いてこない。
ヒーリングという言葉にも語弊がある。自分が変わらないと他は変わらない。
自分が一番しあわせな状態が他者を癒す。
私たちは次の扉のカギを持っている。
邪心があるとコワい。いのちをかけてください。何もコワくない。
なろうとしない。今ここのことだけ考えていればいい。頭が邪魔しなければ、全部身体が引き寄せる。
いのちへの敬意、一番重いもの。
いのち輝かそう!という方から入った方が楽」等々、お話されています。
 
書には他にも
神ながらへの道への段階、
思兼神おもいかねのかみ:他者を尊重し、思いはかる(おもんばかる)、
みたましずめ、袋せおいの心、大国主命の「うきゆい」、
全一である神である、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ等々、興味深いお話がたくさん。
感じ取れることは各々あるかと。
 
【全部が一律平等に素晴らしい】という根本事実に立ち返り、
「自他ともに満ち足りることを体験する!」と決めていって下さい。
 
〜あとがき〜
古事記を通じて確信したことなのですが、
個人の我欲が湧きだすところと、弥栄なる和魂の【いのち】が湧きだすところは
同じ窓口でありますから、だからこそ、
個人の我欲(生き抜くことや享楽)に執着せずともよいうのだということです。
弥栄なる清明心(和魂)としての【いのち】が、
個人としてのあなたの面倒など、充分にみてくれますので、
あなたは、大いなる天地と一体となって、
全体他者のために生きることだけを意図すればよいのです。
 
 
『ちいさないのち』吉野大地さん 大地さんのHP http://www.turiya-music.com/
 
真名さんのお話から
アマテラスオオミカミ : 全宇宙、全地球を光で満たすという意志のこと
ツクヨミノミコト : ツクヨミは個人。その時々の有限の状態。
タケハヤスサノオノミコト  創る(造る・作る)神様。決めたらサッサとやる。
物理的地球でストレートにやる。中にスサノオを持って、ここにいる限りスサノオ。
トキハカシノカミ : 直線時間からの脱却。
アメノコヤネノミコト : 言葉によって変更していく。
ニギハヤヒノミコト : サイキックな力を育む。
アメノオハバリ : 古きすべてを執着なく完了。ありがとうと完了。
オモイカネノカミ : たくさんの人のことを思う大事な神。
オドヤマツミノカミ : 自分のすべての価値を充分に認める。
オクヤマツミノカミ : 常に向上し、拡大、発展、繁栄する意志。それが普通だと知っている。
クラヤマツミノカミ : 最高の歓喜、輝き。最大の魅力の発揮。(生きててよかった!)
・・・・・
 
神社や教会は、エネルギーとつながりやすいと大野百合子さんもお話されていましたね。
 
深・古事記 神ながらの道  真名著
深・古事記 神ながらの道 真名著/「神ながら」ではないもの
深・古事記 神ながらの道 真名著/私たちの「ことよさし」
深・古事記 神ながらの道 真名著/「のりなおし」「うけひ」「うけひもち」
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【かちさび】とは
原文の「佐備」は、おおよそで「すさぶ」という解釈でよいかと思いますが、
本来「すさぶ」は「いよいよすすむ」という意味で、(第一段階)
次に「一方的に進みすぎて支障が出る」ということになり、
さらに「行き過ぎて衰えが生じる」ということになっていきます。(第二段階)
この『深・古事記 神ながらの道』の中では、
言葉の本来持つ意味が詳しく記されていますが、
現代においてもとても重要なことばかりです。
たとえば、「かつ」(勝つ)、「たたかう」等、解釈のゆがみを知ることが出来ます。
 
古事記では、「かちさび」の第一段階の有り様、
(いかなる難事にも臆せず、屈することなく、かち進む)を経て、
「かちさび」の第二段階が起こった話が語られています。
そこで「とがめず のりなおし」が。
「かちさび」を少しでもとがめるということは、
各自の自由な発達や進歩をおさえてしまうことになりますので、
弥栄いやさかの【清明心】をもって「かちさび」をとがめることなく、
限りない「あい」の【ひ】を示すことが大切なのです。
 
万物の中心、万物の根もと(中心)へ戻ろうとする方向性が「くしみたま」であるなら、
中心から離れて先へ先へと突き進む方向性が「さきみたま」で、
この作用を受け持っているのが須佐之男神です。
 
(「くし」は、物を統一しようとする働きのあらわす言葉。
毛髪も頭によって一まとまりになっているとき→「くし」。団子の串も。
数多くの独立しているものを一つにまとめること。
「さき」は、物を分裂・前進させる働きをあらわす言葉。陸地の崎や、刃の尖端の先、咲く、裂く、割く等。
内容を実現しようとする様子、数多く豊富となる様子、追進の様子をあわせ持つ)
 
「さきみたま」としての作用をする「荒魂」を働かせて、
人の世としての「現実界」を弥栄に発展繁栄させることが
須佐之男神の「うけひもち」ですので、どうしても「かちさび」は起こってくるのです。
この「かちさび」を「くしみたま」の作用によって調整して導くことが、
天照大御神の【のりなおし】です。
天照大御神の「ひのかみ」としての【清明心】を各自の中に思い起こし、
強く明確に自覚し、それを楽しくイキイキと輝かせると【ひ】の力が強くなって、
「ああ!生きていて嬉しい!この世はなんて素晴らしいのだ!
もっともっと生きていこう!」という思いが自ずと湧いてきます。
(これが「いのち」のあらわれのように感じます。
セミナーでは、「いのち」は平等。神・みことは実践するもの、自発的につまり選択する、と))
この弥栄の【清明心】を用いることで、過度の「とがめ」を避けて、
【のりなおし】をすることができます。
 
「のり」は、「みことのり」の「のり」。「いのり」の「のり」。「のりと」の「のり」
「神としての立場」から各自の考え方や行動を直すことですので、そこには
“悪いところ”という否定的発想はなく、各自に対する深い「あい」と信頼があるのです。
 
 
「うけひ」、「うけひもち」(「分」)
天照大御神の「うけひもち」が
【ひ】(ひかり)のこと、【あい】のこと、【たましい】(心)のことであるのに対して、
須佐之男神の「うけひもち」は、
「むすび」という【永遠の物理的創造】ですので、
物質そのもののことや、技法や、勉学などもその「うけひもち」に含まれてきます。
 
現実生活におきましては、
各自が持っている最奥の力を取り出すことが【うけひ】であり、
その最奥の根源的な力(=人の原点の力)を【ひ】と呼んでおります。
【ひ】は、光の【ひ】であり、「いのち」の【い】であり、
永久無限にどこまでも栄えて生きようとする「意」のことです。【和魂にぎみたま】の輝きです。
 
全てと一体化して全てと共に発展しようとする【ひ】は、
【和魂】とか「弥栄いやさかなる心」とも呼ばれ、
『全体他者のために弥栄に生きていくぞ!』と100%本気で決意することが、
各自の中にある【ひ】を完全に取り出すこととなり、これが【うけひ】ということです。
 
根本の【ひ】の力が宇宙の完全秩序のもとに働いていくとき、
「清明心」、「弥栄なる心」、「真の心」、「本の心」が自ずと現れてまいり、
それらを自らの中に発動させて、他者の中にも発動させていただくことが
「うけひ」です。
 
「うけひ」によって【ひ】の力が光輝き始め、
【いのち】が「命がけ」で燃えたぎるようになってまいりますと、
あらゆる全ての物事が、「高天原」の「調和秩序」のもとに適切な発現の場を持ち始め、
それぞれ物事が「適切な働きの場」において分担されます。
そして、その受け持ちをそれぞれに実行しようとし始めるのです。
 
全ての物事がそれぞれの受け持ちを持つことができたのは、
「天の安の河あめのやすのかわ」(いのちの大河)にある【ひ】を、
自己の中に充分に頂いたことによって可能となったわけですから、
受け持ちのことを「うけひもち」と申します。
「もち」とは、「持ち」であり、「餅」でもあります。
「うけもち」(=役割)や「うけひもち」とは粘り強い意志のもとに行われることなのです。
 
「天の安の河」(あめのやすのかわ)での対話より
須佐之男神
『私が泣きごとやグチを言う「泣きいさち」を行ってばかりいた頃の有り様を思い返してみますと、
そのときの自分の中には、内面的な枯渇感や不足感から生じる自分勝手な欲望や、
それを刺激するようなものしか見えませんでした。
でも、たった今、ここに至っては、もう違っています。
地球のいのち、国のいのち、町村のいのち、家々のいのち、自分自身のいのちなどが
脈々と感じられますし、見えてまいります・・・』
 
各々「うけひもち」「分」を明確に自覚し、よろこび勇んで「いのち」を全うする。
そこにはすべてが平等であることの尊さがあり、弥栄繁栄の流れがともにあり。
 
【ひ】への忠誠が森羅万象の「根本」であって、
衣食住のための商売や、研究開発や、技術は、
あくまでも「末」の事柄であることが明確になってきました。
「いのち」の【ひ】を「本」とすることが「神ながらの道」なのです。
根本中心から引き出される(=湧き出る)【ひ】の力によって、
調和された新しい豊かな状態ができていくことを「維新」と申します。
現代に生きる八百万神ともいえる私たちも、
【ひ】が円満完全なる「にぎみたま」によって動くものだということを
ゆめゆめ忘れてはなりません。
 
 
どんなものでも、どんな小さなものにでも、
「いのち」に対する敬意を忘れてはならないことを教えてくれた、
いのちあるものの極小単位の象徴である少名彦さまのお話。(できれば次回に)
もちろん対のような関係性を持つ、大国主命のお話も大変貴重なものです。
稲羽の白ウサギのお話も登場します。
近くの神社の末社が、大己貴命(おおなむちのみこと)、<大国主命とも>
少名毘古那命(すくなひこなのみこと)、櫛眞知命(くしまちのみこと)等が
御祭神であることをつい最近知って驚いています。
 
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深・古事記 神ながらの道  真名著
深・古事記 神ながらの道 真名著/「神ながら」ではないもの
深・古事記 神ながらの道 真名著/私たちの「ことよさし」
 
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〜建速須佐之男命たてはやすさのおのみことの「ことよさし」「まいのぼり」のお話から〜
 
須佐之男神とは、大昔に実際に存在されていた一人の神さまのことではなく、
私たちの内面そのもののことであり、
私たち全員の内側にある意識の働きのことを申しております。
 
須佐之男神の【まいのぼり】とは、この「現実界」を生きる人類が、
「高天原」の神という理想的な型に合一・融合しようとする「意識の作用」を申すのです。
 
【天孫天下り(てんそんあまくだり)】とは、「高天原」の理想が、この「現実界」に宿ろうとする
「意識の作用」のことでございます。
「高天原」を人類が住むこの「現実界」へ迎え入れ、
「根の国」の材料もこの「現実界」へ頂くことによって、三種の世界が合一します。
 
 
宇宙の根本原理である「高天原」
(高次元と解釈されてもいいかと)
物質材料が存在する「根の国」
(黄泉「夜見、闇の意」の国とも)
あらゆる現実の事物は、移ろい変わりゆくもので、いったんは「根の国」へ行かねばならぬ運命を持っています。
「根の国」には、光によって構成された物質材料が存在しております。
そして根本原理の「高天原」の理想を材料のうえに現して、
永久無限に繁栄する「現し国」
(中つ国、豊葦原、現実界→海原とも)
この三つが見事に結びついている現実世界を信じて認めてきた大和民族の祖先には、
深く頭を垂れるほかございません。
 
『深・古事記 神ながらの道』には、三界の円満調和が意味するお諭しも。 
 (三種の神器は【三界の円満調和】のお姿を表現するものと
 
天照大御神の働きは、あらゆるものに【ひ】(いのちのひかり)を授けて、
いのちの輝きや喜びや晴れ晴れとした状態を起こして下さるもので、
それは「現実界」を【生く国】(いのち輝く国)にする役目ということです。【和魂】。
 
須佐之男神の荒魂の働きは、
その【和魂】を「もの」や「こと」のうえに現していくことにあり、
あらゆる「もの」「こと」の中にある【ひ】の輝きをもって
実践的にものごとに当たっていく役目ということです。
それは「現実界」を【足る国】にすることです。 
 
特に大きな力を持ち、権威ある人脈を持ち、豊富な財を持った人が、
自分の生活のことのために、【荒魂】【実行力】だけを発動すれば、
その他多くの人が不満足になるのは目に見えております。
 
豊葦原(現実界)は
「矛盾反対」や二極の陰陽が満ち満ちているところですので、
ここに肉体を持った以上は失望せず、落ち込むことなく、希望を捨てず、
高天原の理想的青写真を思いめぐらして、
勇気をもって、油断なく(意識を眠らせず、無意識にならないで)、
進みゆかねばならないところなのです。
 
この「矛盾反対」のどちらをも否定しなければ(嫌わなければ)、
「矛盾反対」そのものが楽しく喜びに満ちたものになっていくのです。
 
人として生まれてきたことに失望したり、
逆に、「人は神である」ということの理念をはきちがえて、
やたらと優越感や選民意識を持つことはとても不自然で奇妙なことなのです。
 
では、私たちの「ことよさし」とは何であるのか?
 
各人の【分】(適材適所)がそれぞれ異なるほど、かえってケンカ(否定しあう対立)が起こらずに、
みんなで一致団結できるわけで、現実宇宙はこのようににぎにぎしい和魂が本質となっております。
そういう【分】(適材適所)を自ずと素直に表現したがるのが、私たちの純粋な肉体なのです。
 
ところが、「頭」だけはそれを知らず、
「〜であるべき」「〜が最高」「〜しか良くない」と信じ込まされてきています。
特定のことに価値を置くため、多くの人が【分】を離れて特定の一か所にばかり殺到し、
その価値観の中では一喜一憂する激戦区となります。結果的に心休まらない日常に・・・。
 
そういう意味からも、今ここで最も大切なことは、
「頭」が握りしめている【特定の価値観】を一旦は全部手放し、
【全部が一律平等に素晴らしい】という根本事実に立ち返り、
「自他ともに満ち足りることを体験する!」と決めていって下さい。
 
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「ことよさし」とは?
この中つ国(現実界)のあらゆる自然現象や森羅万象、実際の出来事などが
「こと」なのですが、この無数の「こと」の中から一つの「こと」を選択して取り出して、
『あなたにとって、この「こと」は非常に大切ですから、それをよく承知して、わきまえて、
このようになさって下さい』と指示・指令を出すことが「ことよさし」です。
「ことよさし」は、指令する側にとっても指示される側にとっても、
双方において絶対的指令なのですから、
それをよくよく承知して、その大切さを明確にわきまえて、
実現実践に入っていくしか道はございません。
個人の勝手な判断で「ことよさし」を逃げることはできないのです。
「ことよさし」を行うときの、指令する側という存在も、指令される側という存在も、
なかなか見つかるものではないかもしれません。
・・・ 明確に「こと」をつかみ取ることが困難かもしれません。
それらの原因は、そこまでの意識になっている人がまだまだ少ないからなのでございます。
結婚も「ことよさし」の一つ・・・。もちろん、就職も、親子も「ことよさし」なのです。
にもかかわらず、人間世界においては、「ことよさし」を忘れがちであり、軽んじてしまいがちですが、
今一度「ことよさし」の道理を承知して、
そのつとめを実現していくところに、「神ながら」の道があるのではないかと思う次第です。
 
では、私たちの「ことよさし」とは何であるのか?
実は、気付いていないだけなのですが、
私たちは非常に多くの「ことよさし」を指令されて受けております。
まず気付くべきは、
私たちが【肉体という形】をいただいたことが一つの「ことよさし」なのだという厳粛な事実です。
私たちが肉体を持った人型生命体であることは、
どうあがいても「ことよさし」の関係性の上に成り立ってしまっているのですから、
失望したり、不平不満があってはおかしいのです。
人間という、まだ神格完成に至っていない性質のところをよく観察して、
この生命体を【神格】に戻すよう育てていくことが私たちの「ことよさし」なのです。
「今ここ」という現状に置かれていること自体、各自の「ことよさし」なのでありますから、
今の状態の自分に価値があるとかないとか、そういうお話は問題外のお話なのであり、
ただひたすら今ここの「ことよさし」に邁進するのみなのです。
 
大切な仕事であり、やるべき役割、しなければならない事柄だと理解し
(つまり「ことよさし」だと理解し)、それを全うしていくなら、それでもう充分なことなのです。
その「ことよさし」そのものに誇りを持ち、ご自身の内側で、
自分自身をしっかりと褒めたたえて下さい。
これはとても大切なことでございます。
「ことよさし」を受けて、それに真心を尽くした自分の【いのち】や肉体に対して、
充分に『よしっ!』と感謝をなさって下さい。
 
 
そして参上り(まいのぼり)の教えとは?
【参上り】とは、【いのち】の最も真髄である「和魂」をめざして突進することを申します。
弥栄の「全体繁栄」という理想に向かって、どこまでも進もうとする奮発心と実行心のことですが、
「現状のままでは宜しくない」と気がついたとき、それを一切とがめず、何も否定せず、
現状を活かす根本に向かって進み行くことを申します。
【参上り】は、神代かみよの入り口であり、真の人生の幕開けであり、
天孫天下りてんそんあまくだりの糸口なのです。
 
<↑天孫天下りとは:「高天原」の理想がこの「現実界」に宿ろうとする「意識の作用」のこと。
繁栄に向かって、無限の【いのち】の実現が次々と「現実界」で行われていくこと。
たった今ここにおいて、日常で起こっている事実のことを申しています>
 
人の生活、人の悟りは、実に【参上り】のみが入り口なのです。
この【参上り】が、現実生活全ての根本となっております。
これこそが、私たちが神として最も満ち足りる「意気込み」なのです。
大和の民族が【参上り】というからには、
向上心より更にいっそう進んだ、気持ちだけにとどまらない、
【実行・実践の精神】に富んでいる心のことを申すのです。
(実際にこの書で須佐之男神が
自己の「うけひもち」の尊さに気づくまでのいきさつを知ると理解しやすいかと
 
【参上り】はいつでもどんな時でも、あっぱれな【弥栄の清明心】の実現でなくてはならず、
【参上り】と【清明心】は、表裏一体でなくてはなりません。
そして、「まいのぼり」という関門を通過しないうちは、神の入り口に立っておりません。
 
・・・・・
神という表現を聞くと、つい何となく「万能なる存在」と思い込んでしまいがちですが、
そうではなく、
栄えていく【いのち】の表現を、全身全霊で行おうとする存在としてご理解ください。
 
 
 
深・古事記 神ながらの道  真名著
深・古事記 神ながらの道 真名著/「神ながら」ではないもの
 
 
 
 
真名さんの言う「とがめず、のりなおし」、こちらのお話を思い出します↓
「のりなおし」、「うけひ」、「いのち」等についてはまた書かせていただきたいです。
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辛さ・苦しさは、本来の宇宙には存在していないし、私たちの本質的な性質ではありません。
まずはそれを思い起こして下さい。
弥栄の【清明心】が【いのち】の本質ですし、【神】の本質です。
 
辛さ・苦しさはどうやって生まれるのでしょうか?
それは【責める心】から生み出されてまいります。
自分を責めるか、他をとがめて責める心から生まれるのです。
それは【いのち】への否定ということになります。【いのち】の弥栄いやさかとは真逆のものです。
責める、とがめる、罰する思い自体が、【いのち】に反するエネルギーです。
 
私たちは、時として、自分の具体的体験・経験・できごとに対してはもちろんのこと、
それによって湧いてくる感情反応に対しても無意識に【責めて罰する】ことがあります。
「これではダメだ!」ととがめの心を起こします。
そういう【無意識に責める心】やとがめる思いが、自分自身の生きるパワーをダウンさせ、
次元を下げ、結果として自分の中に辛さ・苦しさを生み出します。
何かのできごとがあなたを苦しくさせているのではなく、
外的条件があなたを辛くさせているわけでもないのです。
無意識に自分を責める心だけが原因です。
無意識のまま、気付かないまま、自分を責める心が満杯になれば、
他者や全体を責め始めます。
他者や全体に対しても反感をもち、攻撃したくなります。
 
自分を責め、他者を責めているとき、
【自他の繁栄】など願うなんてもってのほか!という心になっています。
本当の自分(イヤサカを願う自分)を忘れ、遠く離れてしまうわけです。
でも、忘れ離れているだけであって、原点としての本質は何も変わっておりません。
ですので、もしあなたが全体の繁栄を願えないときがあるのなら、
自分の何かを責めてとがめていないかどうか、それに気付いて下さればよいのです。
【何かを責めてとがめる心】は、あなたのエネルギーでもなければ、
光としての本質的なあなた自身でもありません。
それはまるで【つきもの】のようにあなたの肉体を通過しようとしただけのことです。
それらは、フワフワとどこからともなく流れてきて、
あなたが勝手に「自分の思いだ!」と勘違いして捕まえたものにすぎません。
 
責める心はあなたではありません。
どうぞ気付いて手放して下さい。
 
弥栄いやさかとは、大切な根本としての【いのち】のことだけを記憶すると同時に、
【いのち】に無益な雑事や枝葉の記憶をできるだけ手放すことにあるのです。
 
 速佐須良姫神はやさすさらひめのかみという神が、
無益で有害な記憶をことごとく消し去って下さるので、「明日に持ち越さないぞ」と決めて、
あとは神の作用にゆだねておられれば宜しいかと思います。
 
古今東西の人類の長い歴史の中で、必要以上にお金を搾取し、
ひどいときには人の命の輝きさえも、
押さえる方向に導いてきた特権階級の方々が存在してきました。
今も、一部そういう方は存続しています。
だからといって彼らを憎んでも何も始まりません。
むしろ、対立する心がこちら側に湧けば、さらに彼らのエネルギー
(押さえこもうとする力)を強めていくことになります。
 
最も腹立たしく最も忌み嫌う相手こそ、
その方々の弥栄豊穣なることをいのってあげることが肝要かと思います。
なぜなら、彼らこそ、最も貧困な内面(枯渇感)の持ち主だからです。
枯渇感が動的に働くとき、他者をおさえつけようとするエネルギーとなり、
静的に働くとき、他者の言いなりになるアキラメとなっていきます。
この動と静は表裏一体のものです。この双方とも弥栄豊穣ではありません。
全てを自分だけで奪い続けたがるようなマイナスな権力者にこそ、
「どうぞ、本当に満ち足りてください。そして全体の繁栄のために動いていって下さい」と
いのっていくようにすればよろしいかと思います。
 
高天原の【和魂にぎみたま】と豊葦原(物質現実界)の「荒魂あらみたま」とが、
イキイキとしたあっぱれな心を現実界へ現すべく、堂々と融合することが
【神ながらの道】の理想となっています。
 
和魂
神の基本・本質。源は高天原。自分個人を超越した全体愛。
いかなる人種であれ、どんな物質であれ、どんな動植物、山川草木であれ、これらをことごとく
【真善美愛化】しようとすること。
より理想的な形へと発展・繁栄しようとすることなのです。
荒魂
「現魂」とも。【実行実現】していく力。
「荒魂」は、「矛盾反対」を受け入れ歓迎し、この相反するものを【和魂】に同化させていく勇猛果敢な心。
「荒」では本来は意味が該当しません。「現す」「現れる」の「あら」を以って表現が可能になります。
どんなに個人的な「頭」にとって気に入らないものでも、これを歓迎し、
自分の内なる【和魂】に積極的に融合させていくパワフルさが「荒魂」です。
 
 深・古事記 神ながらの道』から引用
 
 
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深・古事記 神ながらの道  真名著 ブログ1↓
 
 
古(いにしえ)に事記された惟神(かんながら)の道
 
装画は、素晴らしい“空”の絵を描かれた寺沢拓也さん。(“空”の絵はmanaさんがお持ちです)
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神話って何なのだろう。
 “八百万の神”という表現で何となく感じる方も、
ここまで具体的には知り得なかったのでは。
 
最近は、自分はある意味“回路”である、
という考えが実にしっくりくるのですが、
この真名さんが読み解かれた(‘うけひもち’でしょうか)
『深・古事記 神ながらの道』で一層深く理解することに。
 
まえがきから↓
古事記は、森羅万象の法則、人と自然の理想、大和の魂の理想が
たたみこまれておりますから、
一字一句に深遠な「お諭し」が含まれておりまして、
その一字一句に無限の味わいがございます。
 
古事記は単なる歴史書ではなく、それを超えた【預言書】であり、
これからの現実的人生の【指南書】というべき内容を含有しております。
未来永劫、人間の発展繁栄のテーマは終わりませんが、
そこに対する見事な指針と答えが、古事記の中に、
あますところなく書き記されているのでございます。
 
古事記の道は、単なる道徳を超えた【神ながらの道】であり、心の道でございます。
個人として個人を超越し、日本人として日本人を超越し、
すなわち、天地と一致する生き方の実践の道でございます。
古事記の中に、一貫して脈々と流れている「万物のいのちへの敬意」を汲み取り、
深く噛みしめて頂きたく願っております。
 
その真意はとても深く、実際に実践行動するしか知ることができないため、
単なる神話やお伽話か、
また歴史学問上からの史実だけの追究にとどまってしまっているのが現状だと。
膨大なストーリーのため、内容の深さを伝える必要性から最小限の叙述にしたということも。
そこには、(本文を読むとわかりますが↓)
自分個人を超越した全体愛【和魂にぎみたま】の【ひ】が伝わってきます。
(自我が元となる、大きな功績・大いなる仕事等を成し遂げることを目的としていたならば、
きっともっと膨大な知識だけが先行していたでしょう。それだけの内容ですから)
 
“いのち”という絶対的なものを感じてみてください。
“いのち”ではじまり、“いのち”で終わるこの惟神の道への指南書は、
「いざ!」と、その“いのち”の遂行を後押ししてくれるようです。
 
本文↓(書籍では、もちろんもっと詳細に語られています)
伊邪那岐神いざなぎのかみ・伊邪那美神いざなみのかみ二柱の神は
歴史的な言葉でいうところの人型をした生命存在を指すのではなく、
「宇宙の生命力」(【いのちの意気込み】)のことでございます。
このありがたく貴重な【意気込み】は、あらゆる一切を背負って、
この天地万物を創り出していこうとする【いのちの意気込み】であり、
それを忘れないために神の名称をつけて尊んでいるわけです。
古い昔のことではなく、理論上の神話なのでもありません。
たった今この瞬間の、いのちの【意気込み】のことを申しています
この二柱の神は、宇宙の生命として人類全ての内側、万物の内側に生きて流れている
【いのち】の輝きですから、私たち人類の一挙一動は、
伊邪那岐神いざなぎのかみ・伊邪那美神いざなみのかみの【たった今の現れ】でございます。
今ここのお話であり、今後の全般を含めた「最新のお話」なのです。
 
【弥栄いやさかの欲求】によって、無限の【いのち】は
どこまでもイキイキと力強く追進しますが、その【弥栄の欲求】の心情は、
じつに晴れ晴れとして、喜々として、明るく、純粋で、まっすぐですので
【清明心】とも呼ばれます。
【清明心】は、すべての発展繁栄を命がけで願う心です。
 
「神ながら」の道は、
この現実界において、
弥栄いやさかの【清明心】を鍛錬する道であり、
それは、発展繁栄するということを、実際に肉体を用いて実践実習する道
のことでございます。
 
各自(人型生命体)は決して個のみの力にて勝手に生まれ来たるのではなく、
個を超越した大いなる力によりて生かされていることが分かります。
 
あらゆる個としての生命体から進入して、共通の「根本」に到達すると、
そこは結局たった一つの「普遍的な大生命」となってしまいます。
そして、その「普遍的な大生命」は爆発的な欲・爆発的な【いのち】そのものであり、
それを生み出しているのが他ならぬ「個を超えた本質的なあなた」であり、
「あらゆる全ての個」によって、「普遍的な大生命」が表現せられつつあります。
その表現が不自然な現れ方をしているのか、
完全な調和秩序=弥栄にのっとった自然な現れ方をしているのか、
それが「個」の幸・不幸の気持ちの分かれ目です。
 
このように、根源的に一つになっている全体の大生命という【いのち】を
「神」とも申します。
 
 
『深・古事記 神ながらの道』、また書かせていただきます・・・
 
深・古事記 神ながらの道 真名著/「神ながら」ではないもの
 
 
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この『深・古事記 神ながらの道』を読みながら、古いノートに書き留めていたのですが、
続きを書こうと次のページを開くと、
そこには以前記した「アワの歌」の歌詞が。
アワの歌って何だろう?と書いていたものですが、すっかり忘れていました。
『深・古事記 神ながらの道』には全く登場しませんが、
何だか偶然とは思えず。。。
Aikaさんの『あわの歌』試聴はこちらで↓

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