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私たち一人ひとりの世界も、ミクロ的にもマクロ的にも、
まるでこの‘はてしない物語’のように思えてきます。
人生の縮図のような物語でもあり、
私たちが知っておきたいことが
ぎゅ〜っと凝縮されているお話でもあります。
『Die unendliche Geschichte』 ネバーエンディング・ストーリー
映画の内容はすっかり忘れていましたが、
どうも忘れていたほうが都合がよかったかもしれません。
あらすじ (アイゥオーラおばさまのお話から)
「ファンタージエン国の女王:幼(おさな)ごころの君は、重いご病気で、もう死にかけていらっしゃいました。女王さまには新しいお名前が必要で、それをさしあげることができるのは人間世界のものだけだったのに、人間がもうファンタージエンにこなくなっていたからです。どうしてこないのか、だれもわかりませんでした。もし女王さまがおかくれになれば、ファンタージエンはおしまいになってしまうのです。ところがある夜のこと、やっとまた人間がやってきました。小さな男の子でした。そのぼうやが、幼ごころの君に、新しい名前をさしあげました。女王さまはそれでまたお元気になられ、お礼に、この国でぼうやの望みはなんでも実現させてあげると約束なさいました。___ぼうやが、真(まこと)の意志を見つけるまで、なのだけれど。それからというもの、ぼうやは一つの望みから次の望みへと、長い旅をして、そのつど望みがみたされてゆきました。一つ望みがかなえられると、新しい望みが生まれました。よい望みばかりではなく、わるい望みもありましたが、女王幼ごころの君は全然区別なさいませんでした。幼ごころの君は何もかも等しくお認めになり、女王さまの国ではみんな同じように大切なのです。ところが、ぼうやは、望みが一つかなえられるたびに、自分の元いた世界の記憶を、一つずつなくしていったのです。といっても、ぼうやはもう帰る気持ちはなかったので、気にもかけませんでした。だから次から次へと望みを持っては進むうちに、とうとう記憶のほとんどを失ってしまいました。覚えていることがなくては、もう望むこともできません。ぼうやはそれでもまだ、何が真の意志なのかわかりませんでした。今やそれが見つからないまま、残されたわずかな記憶までなくなってしまう危険が出てきたのです。もしそんなことになれば、ぼうやは元の世界に帰れなくなるのです。そのとき、ぼうやは、やっと〇〇〇〇にたどりつきました。真の意志が何なのか、それがわかるまでそこにいることになりました。それはぼうやにとってとても大切なことでした。ぼうやはそれまで、自分とはちがう、別のものになりたいといつも思っていましたが、自分を変えようとは思わなかったからです。」
登場人物等についてはこちらのウィキペディアを↓
ファンタージエン中に‘虚無’が広がり、危機に瀕しているときの会話
「(アトレーユ)人の子らの国へゆく道を教えてくれないか?」
「(人狼)虚無にとびこみゃいいのよ。だが希望なんぞ持てるようなこととはまるっきりちがうんだぞ。人間世界に現れたら、おまえ(アトレーユ)はもう今のおまえじゃないんだから。これこそ、ファンタージエンじゃだれもしらない秘密なんだ。おまえたちファンタージエンの生きものってのは、なんなんだい?夢に描かれたものにすぎないんじゃないか。詩の世界のつくりもの、はてしない物語の中の登場人物!おまえは自分が実在するものだと思ってんのか?まあ、この国にいる間はそうだろうよ。しかしな、虚無に入りこんでいっちまえば、もうそうじゃなくなるんだぜ。今のおまえらとは似ても似つかぬものになる。つまりな、幻想(イリュージョン)になったり目くらましになったりして人間世界に入りこむんだ。人間の頭の中で妄想になるんだ。ほんとは怖れる必要なんかなんにもないのに、不安がっていろんな思いを持つようにさせたり、自分自身をだめにしちまうものなのに、まさにそれを欲しがる欲望を持たせたり、実のところ絶望する理由なんかないのに絶望だと思いこませたりするんだ。」
「だから、人間どもはファンタージエンとそこからくるものをみんな憎み、怖れるんだよ。やつら、そういうものを亡ぼしちまうつもりだぜ。まさにそれが、人間世界にひっきりなしに流れこんでくる虚偽(いつわり)をどんどんふやしてるんだってことには気がつかねえんだな。」
「人間どもを支配するのに虚偽くらい強いものはないぜ。人間てのはな、頭に描く考えで生きてるんだからよ。そして、これはあやつれるんだな。あやつる力の召使いになるんだ。人間にいりもしないものを買わせる役にたつかもしれん。それとも人間が知らないものを憎んだり、盲目的に信じこんだり、救いであるはずのものを疑ったりするのに役立つかもしれん。おまえたちファンタージエンの生きものが、人間世界では大きなことを起こすのに使われてるんだ。戦争をおっぱじめたり、世界帝国をつくったり…」
「もちろん自分じゃたいそう利口で、真理に仕えているんだと思いこんでいるんだがな。その連中ときたら、子どもの頭からファンタージエンをすっかりたたきだしちまうよりほか、することがないみたいなんだ。」
ファンタージエンに虚無が広がれば広がるほど、それだけ人間世界に虚偽(いつわり)が氾濫し、そしてほかならぬそのせいで、せめて一人でも人の子がきてくれはしないかという望みが、刻一刻うすらいでゆくのだ。この悪循環から逃れるすべはないことが、今こそアトレーユにわかった。
そして、もう一人、そのことがわかったものがいた。ファンタージエンばかりでなく、この人間世界も病んでいることが、今やはっきりわかった。この二つは結びついているのだ。
「千の扉の迷路は、なにかほんとうの望みがあってはじめて通りぬけられるのですから。ほんとうの望みを持っていないものは、自分が何を望んでいるのかはっきりするまで、寺の中をぐるぐる迷い歩かねばなりません。それが、ときにはずいぶん長くかかるのです。」
「望もうと思っても、簡単には望めるものじゃないね。望みって、どこから起こってくるんだろう。望みって、いったい何なんだろう?」
「あなたさまはご自身の物語を体験なさらなくてはなりませぬ。ここにとどまっておられてはいけません。」
それぞれの章で、はてしなく続きそうなお話を終わらせる、よく出てくる言葉が↓また愉快傑作
「けれどもこれは別の物語。いつかまた、別のときにはなすことにしよう。」
幼い頃封印してしまった‘何か’がよみがえってきたり、
本と一緒に旅をし、さまざまな経験をすることで、
実際の個人の旅をも誘導してくれることになるかも…。
モモ / エンデのメモ箱 / ミヒャエル・エンデ (ブログ↓)
『エンデのメモ箱』から↓
「読者と本のあいだに生じることは、どこで起こるのでしょうか?」
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モモ・他/ミヒャエル・エンデ
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「ねえ、おしえて、」 「時間て、いったいなんなの?」
主人公のモモ
小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。
でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことができる人は、めったにないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです。
モモに話を聞いてもらっていると、どうしてよいかわからずに思いまよっていた人は、きゅうにじぶんの意志がはっきりしてきます。モモがそういう考えをひきだすようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。
たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ。世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。
こういうふうにモモは人の話を聞けたのです!
( ここで思い出したゲリーさんのお話を再度 ↓
「もし、あなたが誰かを、本当に心から承認したとします。
ただ存在を認める・・・、それだけで相手の葛藤が解放されていくのです」 )
モモは人の話を聞くだけではありません。
犬や猫にも、コオロギやヒキガエルにも、いやそればかりか雨や、木々にざわめく風にまで、耳をかたむけました。するとどんなものでも、それぞれのことばでモモに話しかけてくるのです。
モモはひとりで長いあいだ、古い劇場の大きな石のすりばちのなかにすわっていることがあります。頭のうえは星をちりばめた空の天井です。こうしてモモは、荘厳なしずけさにひたすら聞きいるのです。こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞いている大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、ふしぎと心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。
モモの親友、道路掃除夫ベッポ(人の見ないものを見るベッポじいさん)
道路掃除夫ベッポは頭がすこしおかしいんじゃないかと考えている人もありました。なにかきかれても、ただニコニコと笑うばかりで返事をしないからです。ベッポはじっくりと考えるのです。そしてこたえるまでもないと思うと、だまっています。でも答えがひつようなときには、どうこたえるべきか、ようく考えます。
ベッポじいさん 「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。
おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
「そこでせかせか働きだす。
どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?
つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことをな。」
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな。たのしければ、仕事がうまくはかどる。
こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」
「これがだいじなんだ。」
ひとあし___ ひと呼吸(いき)___ ひと掃き。
こうしてすすんでいるあいだに、とても意味ぶかい考えが心にうかんでくることがよくありました。でもそれは、ことばで表現することのできない考えでした。ベッポは仕事がすんでモモとならんで腰かけているとき、こういうふかい考えを話しました。モモはとくべつにすばらしい聞き手でしたから、ベッポの舌はひとりでにほぐれ、ぴったりしたことばがみつかるのです。
「むかしのわしらに会ったよ。」
「ときどきだがね___ 世界がすきとおって見えてくる___ 川みたいにだ、
いいかね?___ 底まで見えるんだ。」
「その底のほうに、ほかの時代がしずんでいる、ずっと底のほうに。」
モモのもう一人の親友、観光ガイドのジジ。
あらゆるてんで道路掃除夫ベッポと正反対の若ものでした。これがまた口からさきに生まれてきたようなおどろくべき口達者なのです。たえずじょうだんをふりまき、へらず口をたたいて、あいてが思わず知らずつりこまれて笑ってしまうような、しんそこ陽気な笑い方をします。名前はジロラモなのですが、みんなジジを呼んでいました。
ジジの物語はこれまではいわばよたよた歩いていたのが、モモと知りあってからというもの、とつぜんに翼をえて空たかく舞うようになったのです。
そしてとくに、モモがそばで聞いていてくれるときには、ジジの空想力はまるで春の野のように花ひらきます。
ふしぎなことに、ジジを軽薄だと非難したことのない唯一の人は、ほかならぬベッポじいさんでした。そしておなじくふしぎなことに、変わりもののベッポじいさんを笑いものにしたことのないたったひとりの人間が、まさにジジだったのです。
( ジジについては、後述にもある『エンデのメモ箱〜四十四の問い〜』から作者エンデの次の言葉を。
「詩的虚構と嘘のちがいは何なのでしょうか?」 )
他の主な登場人物は
モモの他の友だちたち
‘カシオペイア’、モモの相棒となるかめさん
時間をつかさどる‘マイスター・ホラ’&時間の花
そして‘灰色の男たち’
灰色の男たち…
モモ 「どうしているようになったの?」
マイスター・ホラ 「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくりだしているからだよ。それに乗じて彼らは生まれてきた。そしてこんどは、人間は彼らに支配させるすきまであたえている。それだけで、灰色の男たちはうまうまと支配権をにぎるようになれるのだ。」
時間の謎。
鳴りひびく光・・・
どれとして同じもののないあの類なくうつくしい花のひとつひとつ・・・
丸天井のまんなかから射しこんでいる光の柱は、光として目に見えるだけではありませんでした___モモはそこから音も聞こえてくることに気がついたのです。
やがてモモは、ことばが聞きとれるようになりました。太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちそれぞれのほんとうの名前をつげていることばでした。そしてそれらの言葉こそ、ここの時間の花のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消えさらせるために、星々がなにをしているのか、どのように力をおよぼしあっているのかを、知る鍵となっているのです。
モモの体験はそっくり私たちのヒントになるようです。
モモは急に自分の中に不思議な変化が起こったのを感じました。
不安と心細さが激しくなって その極に達したとき、
その感情は突然に正反対のものに変わってしまったのです。
マイスター・ホラのなぞなぞ。
「三人のきょうだいが、ひとつ家に住んでいる。ほんとはまるですがたがちがうのに、三人を見分けようとすると、それぞれたがいにうりふたつ。一番うえはいまいない、これからやっとあらわれる。二ばんめもいないが、こっちはもう出かけたあと。三ばんめのちびさんだけがここにいる、それというのも、三ばんめがここにいないと、あとの二人は、なくなってしまうから。でもそのだいじな三ばんめがいられるのは、一ばんめが二ばんめにきょうだいに変身してくれるため。おまえが三ばんめをよくながめようとしても、見えるのはいつもほかのきょうだいの一人だけ!さあ、言ってごらん、三人はほんとは一人かな?それとも二人?それとも・・・だれもいない?さあ、それぞれの名前をあてられるかな?それができれば、三人の偉大な支配者がわかったことになる。三人はいっしょに、大きな国をおさめている・・・ しかも彼らこそ、その国そのもの!そのてんで三人はみなおなじ。」
一ばんめ、二ばんめ、三ばんめ、それぞれ何?おさめている国とは?そして住んでいる家は?
‘作者のみじかいあとがき’によると、この物語は、
旅先で出会ったなぞめいた旅行者から聞いたお話だそうです。
話がおわったあと、わたしたちはふたりともしばらくだまっていました。するとこのなぞめいた旅行者は、もうひとことつけくわえたのですが、そのことばをわたしは読者にお伝えしなければと思うのです。
「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。
「過去におこったように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」
作者・エンデのお話
「『モモ』の中で、灰色の男たちが登場しますが、私は大真面目にあれを書いています。灰色の男という「力」は目に見えない世界に明らかに実在していますから。」『三つの鏡』
「灰色の男たちは、こまぎれ、分解の原理です。彼らにとっては、計算、計量、測定できるものだけしか現実性をもたない。計量思考を代弁しているのです。計量思考は現代社会をほとんど覆い尽くしている。しかし、人間は今、そこから再び全体性を見つけ出そうとしている。 」
「皆さんが褒めるには、私が『モモ』を書いたのは、現代社会で誰もが忙しくて「時間」の持てない存在になったことに注意を喚起させるためだった。あるいは、人々のストレス状態、世の中の慌ただしさを警告するためだった、というのです。けれども、いや、いや、ちょっと違います、とは言いたい。」
『エンデと語る』
わたしは、これを読んでこう思った。こう感じた。きっと人それぞれ。
そのどれも間違いではなく、やはり回答はあっても解答はないのかもしれません。
『エンデのメモ箱』で問いかけている‘愛読者への四十四の問い’↓もそうなのかもしれませんね。
「おおぜいの人が同じ本を読むとき、本当にみんな同じものを読むのでしょうか?」
「千人の苦しみは、一人の苦しみよりも大きいでしょうか?」
「小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、
なぜカフカはそれをはじめから言わなかったのでしょうか?」
「本に登場する人物は、その本が読まれないとき、なにをしているのでしょうか?」
「それを表す言葉がまだない、そのようなものを考えることができますか?」
「美は客観的事実なのでしょうか、それとも主観的体験なのでしょうか、
それともこのように問うこと自体が、そもそもまちがっているのでしょうか?」
・・・・・
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