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本の波動のようなものがつたわってきます。 【この世界は、“完全なる今”の連続でしかないのです。】
【「信念」「体験」「感覚」とは、どこから生まれてくるのでしょうか。それは、すべての潜在意識のなかにある「過去の記憶」が再生して生まれてくるのです。つまり、わたしたちは「過去の記憶」に支配されて生きているのです。】
では、どうすれば?
【「過去の記憶」を愛してあげればいいのです。“愛される”ことで、「過去の記憶」はクリーニングされて光となり、消去されるのです。】
【思考は、過去の記憶から作られています。それならば、顕在意識を使って思考することを手放し、潜在意識を信じてすべてを委ねるのです。】
【誤解を恐れずに申し上げたいことは、後悔したり、罪悪感をもったりすることの裏には「わたしはそんなことをする人間ではない」という意味を含んでいるということです。「そんなことをするわたしではない」と言っている限り、自分自身と向き合っていません。「そのままの自分でいい」と認めたときに、初めて変わることができるのです。それが「100%自己の責任」という言葉のパワーの源泉です。“人生に責任”をとって初めて、“人生を創造する”ことができるのです。】
【「クリーニングする」というと、テクニックやメソッドなど何か“やりかた”のことのように聞こえますが、シンプルな表現で言えば、実は、「自分を愛する」ことだと言っても過言ではありません。】
【わたしが強調して言いたいことは「本当に自分がやりたいことをする」ということなのです。】
【「いま」のあなたを愛するのです。】
他には
「引き寄せの法則」の限界
顕在意識に任せなければならない重要な三つの仕事
「愛しているよ」のワーク
本にクリーニングをおまかせする方法
喘息、アトピーなど、“健康”について
「自愛メソッド」瞑想バージョン
自分を愛することが出来ない(無価値感)等のQ&A
両親のクリーニングについて
等々
【わたしは、目標や目的を持っていません。目標を持つということは、「わたしは不完全である」ということを宇宙に宣言していることになります。「変わらなくてはならない」ということは、「今のわたしはダメ」ということを表しているのです。】
【そして、話すことは“出まかせ”を心がけています。その講演会に最適な内容を話すためには、どれだけ自分のエゴを消せるかにかかっていると思っています。自分がゼロになれば、最適な言葉が口から出て来るのです。“出るにまかせる”=“出まかせ”なのです。】
【“人生を創造する”うえで、わたしたちがするべきことがひとつだけあります。それは“完全なる今”を生き続けるということです。つまり、何も変えないということなのです。】
【他人はもちろんのこと、自分自身も変えることはできないのです。なぜならすべての人はすでに100%完璧だからです。わたしたちが唯一変えることができるのはわたしたちの記憶だけなのです。】
【人を変えようとすればするほど、人は変わりません。わたしたちの変えたいというその思いが、その人をそこに留めているのです。】
【目の前にいる人、目の前にあることが今のわたしたちの心を映し出しています。】
【不完全に見える、この世に存在するすべての人、もの、出来事は、わたしたちに愛されるために、わたしたちを愛するために存在しているのです。人生を創造して生きるために現れてくれているのです。】
【“かわいそうな人”も“助けなければならない人”も存在しないのです。わたしたちがするべきことは、“お世話をする”のではなくて、“かわいそうな人”や“助けなければならない人”のように見える人たちに出会う体験をクリーニングすることなのです。】
【他人の心配をすると、そこに記憶の交換というものが起きます。】
↑大切なことが詳しく書かれています。
【人への気遣いは美徳のように言われていますが、過度の気遣いは、人生を他人のために生きることに他なりません。】
【“すべての人は完全な存在である”ということを認識し、そのステージに立ったとき、究極のクリーニングが起きるでしょう。】
最後の最後に心底に漂う何か疑問のようなものがフ〜ッと拭われ、納得するかもしれません。
【最大のクリーニングの方法は、問題を手放すことなのです。】
【宇宙では必要なことが、必要なときに、起きています。問題は存在していません。】
【わたしたちに必要なことは、この世界が完璧であるということを認識し、宇宙の流れに乗って、今を楽しむことだけなのです。】
幸せを呼ぶ自愛メソッド〜生き方が変わる!〜 河合 政実著
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いろいろな本
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この本に度々登場するリストの「巡礼の年」〜ル・マル・デュ・ペイ〜
5/15CD発売決定
ラザール・ベルマンの演奏で聴くCD3枚組。デビュー前後の時期に“ドイツ・グラモフォン”に残した録音。
どんな本でもそうなのだけれど
伝わってくるもの 感じたものは
きっとそれぞれ個人的なものなのだろうな〜と
そんなことを思いながらも
“向き合わなければならないもの”といったテーマは
生きていくうえで共通している“課題”のようにも
そして
それもそのはず それは深い共通しているところからやってくるのだから
とそんなことも
“色彩を持たない”って何?
“多崎 つくる” ん?名前に何か意味があるのだろうか。
“巡礼”って何だろう…
答えは読んだ後 混沌としたなかからやってきます。
前回私が読んだ『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』もそうでした↓ブログ
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』著者インタビューより↓
ある日ふと思い立って、机に向かってこの小説の最初の数行を書き、
どんな展開があるのか、どんな人物が出てくるのか、どれほどの長さになるのか、何もわからないまま、
半年ばかりこの物語を書き続けました。
最初のうちに僕に理解できていたのは、
多崎つくるという一人の青年の目に映る限定された世界の光景だけでした。
でもその光景が日々少しずつ変貌し、深く広くなっていくのを見るのは、
僕にとってとても興味深いことだったし、
ある意味では心を動かされることでもありました。
本文より↓
どれだけ深く考えても解答は得られそうにない。
彼は「未決」という名札のついた抽斗のひとつに入れ、
後日の検証にまわすことにした。
彼の中にはそんな抽斗がいくつもあり、
多くの疑問がそこに置き去りにされている。
「どうしてこんな話になってしまったのだろう?」
『誰かにその話をしちゃうことが必要だったからじゃないかしら。自分で思っている以上に』
「それはただ表面的に塞がっているように見えるだけかもしれない。
内側では、血はまだ静かに流れ続けているかもしれない。そんな風に考えたことはない?」
「一人のプロフェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくてはいけない。
自分が見たいものを見るのではなく、
見なくてはならないものを見るのよ。
そうしないとあなたはその重い荷物を抱えたまま、これから先の人生を送ることになる」
「あなたの中で何かがつっかえていて、そのせいで
本来の自然な流れが堰き止められている。なんとなくだけど、そんな感じがする」
「いっときの揺れ戻しはあるかもしれない。
でもあなたは少なくとも解決に向かって、前に一歩を踏み出している。それが何より大事なこと」
「でもそのときには起こらなくても、またいつかどこか別の場所で、
同じようなことは起こっていたかもしれない」
「長い目で見れば、そのときもし違う判断をし、違う行動を選択していたとしても、
僕らは結局今と同じようなところに落ち着いていたんじゃないのかな」
「生きている限り個性は誰にでもある。
それが表から見えやすい人と、見えにくい人がいるだけ」
「これまでずっと犠牲者だと考えてきた。
でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。
犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちに
まわりの人々を傷つけてきたのかもしれない。
そしてまた返す刃で僕自身を傷つけてきたのかもしれない」
「自分の心の中にいったいどんな濃密な闇が潜んでいるのか」
その闇はどこかで、地下のずっと深いところで、つくる自身の闇と通じあっていたのかもしれない。
身体の中心近くに冷たく硬いものが――年間を通して溶けることのない
厳しい凍土の芯のようなものが――あることにふと気づいた。
それが胸の痛みと息苦しさを生み出しているのだ。
自分の中にそんなものが存在することを、それまで彼は知らなかった。
それは彼がしっかり感じなくてはならないものなのだ。
‘多崎つくる’の‘つくる’は想像どおり、
‘多’も、つくるは自分自身を空っぽの容器に喩えていることから察しがつく。
そして多崎の‘崎’は
真名さんの著書『深・古事記』の「さきみたま」を思い出し↓
【日本言葉としての「さき」は、内容を実現しようとする様子、追進の様子をあわせ持った意味です。
「さき」は、物を分裂・前進させる働きをあらわす言葉です。】
勝手になるほど、と(笑)
ついでに『深・古事記』からもう少し追記すると↓
【「さきみたま」は区別区分の魂(分かれていく魂)で、「くしみたま」は一つにまとめる魂です。
「この分かれるもの」と「まとめるもの」がバランスをとるときに、和魂は完全となります。】
【各人の「分」(適材適所)がそれぞれ異なるほど、
かえってケンカ(否定しあう対立)が起こらずに、みんなで一致団結できるわけで、
現実宇宙はこのようなにぎにぎしい和魂が本質となっております。
そういう「分」(適材適所)を自ずと素直に表現したがるのが、私たちの純粋な肉体なのです。】
また、次の‘つくる’の言動をあらわす描写は日常よく思い当たること↓
何か言わなくてはと思うのだが、言葉は出てこなかった。
・・・・・
それでもまだ言葉は出てこなかった。
そのとき口にするべきだった言葉が思い当たったのは・・・・・(ずっと後のこと)
正しい言葉はなぜかいつも遅れてあとからやってくる。
↑‘正しい’かどうかはわかりませんが、(言葉はあくまで道標として)
そのときフィットした言葉は、
よくしばらくしてから浮かんできて「あ、これだった
余韻として
‘つくる’が感じた嫉妬の苦しみと、ただの物理的な痛みに過ぎないという、ただの哀しみとの違いや
興味深い‘灰田’の存在と彼の話が。
そして
人それぞれの個性、その受容
“自分”に対する評価&認識
好まない同じことを繰り返していないか 好きではない役割を演じていないか
“変わること” “変化”をおそれてはいないか
“おそれ” その根っこに気づいているか
結局 総体的に見るとすべては完璧で
無駄なことは何も起こらず何もないということ
自分のなかの“ある覚悟”
等々感じた本でした。
ある意味、人の“気づき”の過程を垣間見ているようでもありました。
これはこの本に限らず起こることですが
私が本の一部をココに抜粋したところで
本来の文章に含まれている背景を読み取ることはなかなかむずかしいと思います。
断片的に切り取ったまた別ものになるのかもしれません…
‘巡礼’がらみで…
映画『星の旅人たち』 原題『The Way』
巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラを巡るお話ですが
スタッフ・キャストの意図も含め、これもたくさんのことが伝わってくる映画デス
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2003年4月に刊行された単行本『聖地巡礼』を改題し、
加筆、修正を加えた文庫本『水の巡礼』
鎌田 東二氏の解説より↓
『・・・「神社巡り」が大流行だそうだ。・・・
もう一つ、大きな理由があることにはたと気づいた。
本書、田口ランディの「聖地巡礼」「水の巡礼」も大いに影響しているのではないかと。
とはいえ、それはただ、多くの女性の中にうごめき潜在していた欲求や感覚に
火をつけただけなのかもしれない。
みんながうすうす気づき、求め、行動寸前にまで無意識レベルで
ウォーミングアップしていたところに、
それが向かうべき方向へ田口ランディがササーっと走り抜け、
行く道を指し示したということ。・・・
本書は天河から始めて、渋谷―水神社、屋久島、富士山、知床、ヒロシマ、青森、
熊本、鹿島神宮、出雲大社という十の聖地への道行きが物語られる。
・・・・・』
というように、
ランディさんの感性から伝わってくるものが、どこか深いところを突き動かすような、
そんな強烈な印象を受けた本でした。
真名さんの『深・古事記』やセミナーでのお話から改めて今、
紹介したいなと。
あとがきから↓
この旅で感じたこと。
それは、日本は水の国だということ。
山尾三省さんが言うように、水と魂は似ている。あるいは同じものかもしれない。
聖地は必ず水源のそばにあった。
水の流れる場所に神がいた。
人は水から命をもらう。
人は水に穢れを流す、御霊を送る。
水と魂を切り離すことはできない。
永遠に魂は巡る。どんなに形を変えても魂である。
どんなに穢れても魂である。
神にもなれば餓鬼にもなる。
でも常に魂は魂である。
そう思うと、とても落ち着く。
水は魂と似ている。同じ性質をもっている。
美しい水は、魂と共鳴する。
美しい水に触れると魂が喜ぶ。
それがうれしくて、気がつくと、水を求めて旅をしていた。
この旅は、水の巡礼だった。
本文より↓ 今回は伊勢神宮とともに「遷宮」が話題の出雲大社の記から。
例の場所。私にとって大切な場所。
出雲大社は禁足地である山を背負うようにして建っている。
その山との境界地点に素鵞社(そがのやしろ)がある。
本殿の豪華さとは比べ物にならない。
ところが、初めて出雲を訪れた時に、
Sさんが「神さまはこっちにいる。古い神様がこっちにいる」と言ったのだ。
Sさんは素鵞社のさらに裏の、山肌から露出した岩の部分を指して、
「ここからものすごい気が出ている」と言って、そこで祝詞をあげたのだった。
・・・
地元の人々の間では、この岩は特別な力をもった岩として信じられているのだそうだ。
・・・
(同行した松村さんは)
「私が思うに、この出雲大社の力を支えているのは、
背後のうっそうとした木々に覆われた八雲山です。
木というのは『気』という発音と同じように、自然に伸びてゆきますが、
この伸び方は、そのまま動いている『気』の流れのままを反映します」
「この力に満ち満ちた森に、人間意識が接触できる傷のような場所があります」
「ここに人間意識を叩き込んだとき、森という自然界の力が、
人間の活動の中に激しく流入してくる。
象徴的に言うと、大地母神は物言わぬ宇宙的な形成力を示していますが、
それを人の意志が叩くとき、
実現力のようなものが返ってくるんです」
「じゃあ、私がこのゲートと接触するためには、ここで一時間くらい扉を叩き続けなければいけないわけね」
そんなわけで、小雨そば降るなか、岩肌の前で、ぼ―――っと立ち続けたのであった。
・・・
小一時間くらい近く、私の頭の中では数々の疑問がぐるぐると回っていた。
疑問がバターになっちゃうほどぐるぐると回っていた。
そうこうするうちに、だんだん考えるのも疲れてきてしまった。
・・・
ああもう、私ってぐちゃぐちゃ、どうしてこう、なにもわかんなくなっちゃったんだよ…。
と、地面のぬかるみを足で掘っていたとき、ふと、急にある「思い」が浮かんだ。
私が思ったのではなく、「思い」の方が勝手に入り込んできたって感じ。
まったくふいに、自分が考えたとは思えないほどふいに、あることが浮かんだ。
「楽しめ」
と「思い」は言うのだ。「え?」と思った。
「楽しめばいいのだ」と「思い」は言葉ではなく言うのだ。
「思い」は言語としてではなく、ある「雰囲気」として私の中に浮かぶものだ。
以下、すべて翻訳である。「思い」は「言葉」ではない。
「生きるということは、その瞬間を楽しむということだ」
みたいな「思い」がどんどん浮かんでくる。
この「楽しむ」という翻訳はあまり適切ではない。
「輝く」とか「実感する」とか「知る」とか、そういう言葉に置き換えてもいいかもしれない。
あ、そうかと思った。
私ったら何を深刻に考えていたんだろう。
命があるのに楽しまなくてどうするというのだ。
そしたら、急に世界が明るくなったように感じた。
なんだか笑いたくなってきた。
なにがあっても私は死ぬまで生きるんだ。
その意味は自分の外側にはない。
自分の内側にしかない。
自分が感じること以外の答えはない。
なぜ生きるのかわからないけど、生きていることを「楽しむ」というのは、
なにかへのゲートだ。
楽しむって「ハッピー」ってことじゃない。
幸福とも少し違う。
辛いことも、苦しいことも、悲しいことも、なにもかもひっくるめて。
「楽しむ」ってことだ。
・・・
聖地に来ると、私の日常に亀裂が入る。
ふだんは縫ってある切れ目が裂けて、かすかに向こう側が見えるのだ。
何かと話題のリスト:巡礼の年〜 |
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白隠さん、紹介ブログはこちら↓『白隠展〜禅画に込められたメッセージ〜』
白隠さんの禅画や「坐禅和讃 ( ざぜんわさん )」は、知らず知らず見聞きしているもの。
真名さんによる超訳『古事記』で思い出し、
この国(大和)及び人々に奥深く浸透している素晴らしさを再度認識した次第で…。
『白隠禅師坐禅和讃はくいんぜんじざぜんわさん』
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき
・・・・・
(続きはネット等で)
阿部敏郎さんのお話↓
『お経のほとんどは漢文で書かれていて、はっきり言ってチンプンカンプンです。
江戸時代、そこに革命的な禅僧が現れました。
白隠さんです。
実はこの人、日本語でお経を作って残したんです。
もちろんいつの世も同じで、当時も新しい試みは大バッシングを受けました。
(大バッシングと言えば、先日レンタルした映画『天地明察』なども…)
でも内容が素晴らしいので、今でも禅寺では、「般若心経」などと肩を並べて読まれています。』
「あなたは、実際には生まれたときから悟っています。
あなたは、ブッダなのです。
ただ、いろんな固定観念で氷のように固まってしまっただけです。
ブッダは水のように流れ、衆生は氷のように固まっています。」
向さんのお話と『白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)』超訳↓
『ふと見た阿部さんのブログに、
「瞬間、瞬間、心の奥底にある安らぎに自分自身を連れ戻すことです。
それを一日に何千回も繰り返すのです。そうすれば、本当の自分が見えてきます」
とありました。
真言(マントラ)には、その「連れ戻す」力、心源にいたらせる威力があります。』
(真言とは、たとえば↓
「オン アボキャベイ ロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
マントラは意味がわからなくてもエネルギーそのものだと云われていますネ)
白隠禅師は人々に、何よりもいま、この本を手にしているあなたに伝えています。
生きとし生けるものは皆、仏の命に生かされている、仏そのものだと・・・・・。
あなたは、もとから悟っているのです。
それは、ちょうど水と氷のようなもの。
本当は水なのに、自我の思いで、ただ氷のように固まっているだけです。
もとから悟っているのに、他に悟りを求めるのは、
水の中で「のどが渇いた!」と叫ぶようなもの。
大金持ちの子が「金がない、金が欲しい」と言って貧しく放浪しているようなもの。
氷は(自我が)とければ水となり、
大金持ちの子は、家に帰ればもとから大金持ち。
人は不平不満、恐れや劣等感にさいなまれ、
あれやこれやの迷いの暗い道を
さまよい歩いています。
いつになったら心静かに安らいで、
生死を超えた、大安楽の真の幸せにいたるのでしょう。
幸せになるのは、いともたやすいこと。
「自分は、もとから幸せだった」と、気づけばいいのです。
素晴らしい素晴らしい「大乗 ( だいじょう )の禅定 ( ぜんじょう )」こそが、
その気づきの道なのです。
皆とともに幸せであることを願い、
身と心をひとつにして、
深く落ち着き安らいだ
無心の心が「大乗の禅定」です。
坐禅は「大乗の禅定」を修する道。
深く禅定を修すれば、罪も煩悩・妄想も消え失せて、
心は落ち着き安らいで、
ただ「いまここ」に生かされてある
命の尊さ、ありがたさをしみじみ味わう
感謝の日々となります。
さらに無我・無心の、本来の自分に徹すれば、
あれやこれやの理屈を離れて、
「いまここOK!」
「いまここウェルカム!」の
自由自在な、惟神 ( かんながら )の道が開けて、
天地いっぱいに輝きわたる、
悟りの世界に遊ぶだけです。
このとき、何を求めることがあるでしょう。
「いまここ」の、日々の暮らしが
そのまま理想の世界、浄土で、
あなた自身が仏なのです。
「禅とは何か」
禅の世界には、神だとか超常現象だとか、何ひとつドラマチックなことはなくて、
あたりまえの現実を、あたりまえに生きる、
そんな態度にあふれている。
―阿部 敏郎―
人生、出会うべき人には必ず出会う。
しかも一瞬早からず、遅からず。
―向 令孝―
『みんながブッダ』より
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『My Stroke of Insight』
ハーバード大学で脳神経科学の専門家として活躍していたジル・ボルト・テーラー博士
自らの脳卒中の体験を綴った著書『奇跡の脳〜脳科学者の脳が壊れたとき 』
最初に知ったのは、デーヴィッド・アイク著『ムーン・マトリックス【覚醒篇⑥】』。
P.183〜190に『My Stroke of Insight』からの体験談が掲載されています。
【左脳そのものは、本来、我々が五感の現実と接触するために不可欠なものであり、
それ自体に間違いがあるわけではない。だが、それを全体の認識を裁定するようになると問題が発生する】
精神科医:越智啓子先生のメルマガでも紹介されていましたが、
ジル・ボルト・テーラーさんご自身
右脳だけの世界を赤裸々に語っているスピーチがYou Tubeでアップされていました。
↑You Tubeスピーチから抜粋↓
1996年12月10日の朝、自分の脳が情報処理能力を失っていくのを経験。
コンピューターにたとえるなら、右脳は並列プロセッサのように機能し、
左脳は単一プロセッサのように機能します。
脳梁を通じて2つの脳半球は通信し合っています。
しかし、それを除けば2つは完全に分かれてしまいます。
それぞれの脳半球は考えることが違い、別のことに関心を持ち、それぞれ別の人格を持っています。
右脳にとっては“現在”がすべてです。“この場所、この瞬間”がすべてです。
右脳の意識を通して見ると、私という存在は、自分を取り巻くすべてのエネルギーとつながった存在です。
私たちという存在は、ひとつの家族として互いにつながっているエネルギー的存在です。
今この場所、この瞬間、私たちはこの地球上で共に世界をよりよくしていこうとしている兄弟姉妹です。
この瞬間に 私たちは完璧であり、完全であり、美しいのです。
左脳はまったく異なった存在です。
左脳にとっては、過去と未来がすべてです。
そして左脳は言語で考えます。
継続的な脳のしゃべり声が、内面の世界と外の世界をつないでいます。
私は一人の確固たる個人になり、周りのエネルギーの流れから離れ、周りの人から分離されます。
そして、その部分(左脳)が脳卒中の朝に私が失ったものでした。
通常の現実認識から離れ、どこか奇妙な場所から自分を見ているようでした。
もはや自分の身体の境界がわからなくなっていることに気づきました。
「私はどうしちゃったの?何が起きてるの?」
その瞬間、左脳のささやきが完全に途絶えました。
全くの静寂になりました。
最初はショックを受けましたが、すぐに周囲の大きなエネルギーに魅了されました。
すべてのエネルギーと一体となり、それは素晴らしいものでした。
私はこの空間を親しみをこめて、ララランド(陶酔の世界)と呼んでいます。
この世界ではすべてのストレスが消えました。
平安で満ち足りた気分になりました。ああ!なんという幸福!
束の間、左脳が戻ってきて・・・
次の瞬間思ったことは
「わあ!すごいぞ!自分の脳を内側から調べるチャンスに恵まれる脳科学者なんてそうはいない!」
私の魂は大きなクジラのように自由に飛び、静かな幸福の海を滑るように進みました。
私はニルヴァーナ、涅槃を見つけたのです。
この大きくなった自分を再び小さな身体の中に押し込めるのは無理だろうなと思ったことを覚えています。
でも、私は生きている、まだ生きていられるのであれば、
生きているみんなもニルヴァーナを見つけることができるんだと気づきました。
世界が美しく平安で思いやりに満ちた 愛する人々で満たされ、
皆いつでもこの場所に来られると知っているのを思い描きました。
意図して左脳から右脳へと歩みより、この平安を見出すことができるのだと
この体験がどれほど大きな賜物となるか、
生きている人たちにどれほど強い洞察を与え得るか、
そのことに気づき、それが回復への力となりました。
大出血から2週間後、手術で言語中枢を圧迫していたゴルフボール大の血栓を取り除かれました。
完全に回復するまで8年かかりました。
さて、私たちは一体何者なんでしょう?
私たちは、器用に動く手と2つの認識的な心を備えた宇宙の生命力です。
そして、私たちはこの世界のなかで、どんな人間でいたいか、どのようにありたいか、
すべての瞬間瞬間において選ぶ力があります。
今ここでこの瞬間、右脳の意識へと寄ることができます。
そこでは私たちは宇宙の生命力です。
身体を作り上げる50兆もの美しい分子が一体となった生命力の塊です。
左脳への選択もできます。
どちらをいつ選びますか?
私たちがより多くの時間を右脳にある深い内的平安の回路で生きることを選択すれば、
世界にはもっと平和が広がり、私たちの地球ももっと平和な場所になると信じています。
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