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約15年ぶり、二回目の信州上田の旅、二日目、生島足島神社の後は、いよい
よ上田市内へ。
上田城址公園内にある、上田市立博物館に行きました。
こちらでは、歴代上田藩主である、真田氏、仙谷氏、松平氏などの甲冑などの
コレクションが素晴らしかったです。
興味深かったのは、
最後の上田藩主、松平忠礼(ただなり)(1850〜1895)
彼は、兄が早世したために世子となり、安政6年(1859年)に父が急死したた
め、家督を相続。
しかしわずか9歳という若年の相続のため、藩内抗争が激化する。どんな気持
ちだったんでしょうね。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、明治新政府側に恭順して北越戦争、会津
戦争に出兵し、戦功により翌年に賞典禄3000石を下賜されます。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還を経て上田藩知事となりますが、8月16日に
は百姓一揆(巳年騒動)が起こるなど、なおも藩内は混乱していました。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で藩知事を免職されるんですね。
いやー、一体どんな方だったんでしょう。優男のような写真が残ってますが、
興味深い方だなって思いました。
これはあくまで個人的な、写真を見る限りでの想像ですが、・・・周りの側近
が相当苦労しただろうなって・・・だって、どうみても、・・・ごめん、印象
でしかないですが・・・おバカちゃんだもん・・・。
すいません、事実関係全く知りません。
上田市は、凄い人材を輩出している土地ですが、そんな中でのこの松平忠礼
(ただなり)は興味深かったです。(実際どんな人物だったか僕は全くしりま
せん、ご存知の方、是非ご教授宜しくお願いします。)
あと、幕末の先覚者だという、赤松小三郎という方も興味深かったです。
西郷隆盛の3歳年下で、坂本龍馬の4歳年上の方です。
慶応2年(1866年)より、京都に私塾を開き、英国式兵学を教える。門下生に
は、薩摩・肥後・会津・越前・大垣などの各藩士から新選組の隊士までが含ま
れており、呉越同舟状態であったそうです。
普通選挙による議会政治の提言を行うなど、上司を飛び越えて、激変する時世
に置いて、正しいことははっきりと直接意見具申した方だったようです。
しかし最後は、京都・東洞院通りで薩摩藩士で門下生であった中村半次郎と田
代五郎左衛門に暗殺されるんですね。
中村半次郎はその日記で「幕奸」(幕府のスパイ)だから斬ったと記述してい
るそうです。
赤松が薩摩の軍事機密を知りすぎていたこと、薩摩の武力討幕
路線に反対の立場で、議会政治の導入により幕府と朝廷・薩摩の対立を融和さ
せようと動いていたことが暗殺の原因になったものと思われているそうです。
しかし中村半次郎は後年、山県有朋に対して明治維新が早く成り立てば「赤松
を殺すこともなかったのに……」と愚痴を言っていたと伝わります。
なんせ彼は、赤松殺害を気に病み、悪夢にうなされていたというほどだったら
しいです。
興味深い人物ですね。
これも参照してください。
明治維新の歴史の中で、赤松小三郎って、意外と知られていないですよね??
この方の目線での幕末小説、あるいは大河ドラマ、結構面白いぞって思いまし
た。(あるのかな??)
また、世界初の「人口ガン」に成功し、あと一歩のところでノーベル賞を逃し
た、
山極勝三郎(1863〜1930)も紹介されていました。
湯川秀樹が1949年にノーベル賞を取る四半世紀前に、ノーベル賞の有力候
補となるも、惜しくも逃した方がこの上田にいたんですね。
この方は、「うさぎ追いし」という映画にもなっているんですね。
この上田市立博物館、こうした上田の偉人が紹介されていて、
「上田市偉人館」に名称変えた方がいいんじゃないか?って感じました。
絶対その方がいいよ!
はっきり言って、観光客目線で、内容はいいものを持っているのに、それを観
光客に効果的に伝える術が足りない。
せっかく立地は最高なんだから、もっと沢山の観光客が楽しみ、拡散するよう
な施設にしてほしいなって僕は思いました。
そのためには、上田市博物館なんて、いかにも行政的なありきたりのネーミン
グより、上田市偉人館にして、上田市の子供たちも、誇りに思える施設にした
らいいのにななんて、多分、観光客で、そんなこと思っている奴一人もいない
だろうなってことを考えていました。
さて、
上田城址公園では、めちゃめちゃ天気が良く、Tシャツ一枚で暑いぐらい。
上田城櫓を見て、城址公園を気持ちよく散策しました。
さて、そのあと、楽しみにしていた「池波正太郎真田太平記館」に向かったの
ですが、
なんと!水曜日定休はしっかり把握していたのに、この日は火曜日なのに休み
・・・。
うーん、連休の振り替えだそうだ・・・・クソー。
悔しいので、全く予定になかった、
信濃国分寺資料館に向かいました。
信濃国分寺、ここでは、真田昌幸、幸村、信幸が、1600年犬伏の別れで、関ヶ原決戦の東西軍に分かれた後、上田城を東軍側の信幸が昌幸に明け渡すようにとここ
で会って話しているんですよね。
その時は、昌幸が、「あいわかった。上田城は明け渡そう。ただし、汚れたま
までこの上田城を渡すわけにはいかない。綺麗に手直しするので、3日ほど欲
しい」
と言ったところですね。
ところが、昌幸は、約束通りには上田城は明け渡さず、それで第二次上田決戦
へとなだれ込むんでしたよね。
こちらは、結構真面目な展示がありました。
信濃国分寺では、毎年1月7日から8日にかけての八日堂縁日での頒布習俗が「
上田市八日堂の蘇民将来符頒布習俗」として国の選択無形民俗文化財に選択さ
れているということでした。
こちらでは、中国から入ってきたという蘇民将来符が沢山展示されていました。
蘇民将来ってあまりよく知らないのですが、それをもっていれば、災難を免れ、
子孫が栄えるという信仰みたいですね。
この蘇民将来信仰は、スサノオの伝説に由来しているという話もありますが、
イスラエルの祭りに酷似しており、ユダヤ起源のものという説もありますね。
さて、国分寺(僧寺と尼寺)は国家の繁栄と国民の幸福を祈ることを目的とし
ている国の寺ですね(官寺)。
奈良時代の741年の聖武天皇による、国ごとに国分寺を建立するようにとい
う詔から発しているんですね。
こちらの資料館には、旧石器時代から、上田市に関わる歴史的資料が沢山展示
されていました。
で、ここまで見学したところで、なんとなんと、あんなに天気が良かったのに、
凄い大雨に!!
まー疲れもあったので、この日の宿、「上田温泉 ホテル祥園」に早めにチェ
ックインしました。
(つづく)
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信濃国分寺資料館では、真田昌幸が、上田城を明け渡すという話をここでしたということを物語る資料とかありませんでした。
もしかしたら、史実的には認められていないのかな?
観光をもりあげるために、ここではその展示をしてほしかったなー。
2019/5/22(水) 午前 8:50