練馬区大泉学園・「もんじゃ焼きお好み焼き わらべ」のつぶやき

天候がいいので、バーベキューに行きたい!でもなかなか行けないって方、どうぞ手ぶらでわらべで「室内バーベキュー」をどうぞ。

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海北友松と、斎藤利三







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海北友松は、浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。

天文4年(1535年)2歳で父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で喝食として修行。このときに狩野派を学んだらしい。

師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。
天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。

その画は宋元画、特に梁楷の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い画法(減筆法)によって独自の画境を開いた。

作品は大画面の水墨画が多いが、金碧濃彩の屏風絵もある。八条宮智仁親王亀井茲矩、もともと東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊と親しかった。

海北友松は、明智光秀の家臣・斎藤利三(としみつ)と親交が深く、のちに、光秀が山嵜の戦闘に破れ、斎藤利三も豊臣秀吉に捕らえられ、三条がわらで磔の刑に処せられ、その遺体は河原にさらされた。

ちなみに、斎藤利三は、家光の乳母・春日局の父にあたる。

海北友松は、親友の屍がさらし者になっているのを、
「手をつかねて見ているわけにはまいらぬ」
と、これも親友の東陽坊長盛とはかり、三条河原の夜陰に乗じて衛兵を打ち破り、斎藤利三の屍を奪い取り、真如堂へ葬った。

豊臣秀吉は、これを咎めず、かえって海北友松を厚遇した。

秀吉のみか、信長も家康も、海北友松の烈烈たる武人の魂を愛し、また、その画業は、後陽成天皇の叡聞に達し、勅命を受けて画筆をふるったことも少なくない。


墓所は京都府京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)。友松夫妻の墓の横に斎藤利三の墓がある。

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