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「日本の美を求めて」 東山魁夷
を読みました。
やっぱり日本は素晴らしいねー。
@私は人間的な感動が基底に無くて、風景を美しいと見ることはあり得ないと信じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。
私は清澄な風景を描きたいと思っている。汚染された荒らされた風景が、人間の心の救いであり得るはずがない。風景は心の鏡である。庭はその家に住む人の心を最もよく表すものであり、山林にも田園にもそこに住む人々の心が映し出されれている。河も海も同じである。その国の風景はその国民の心を象徴すると言えよう。
@母なる大地を、私たちはもっと清浄に保たねばならない。なぜなら、それは生命の源泉だからである。自然と調和して生きる素朴な心が必要である。人口の楽園に生命の輝きは宿らない。
@日本では、中国の牧谿の絵を大変尊重しますが、中国の美術史の中ではあまりたいした画家とはされていないらしいのです。牧谿の絵は日本の風土の中でその真価を認められたといえましょう。
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読書
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「危険な世界史 血族結婚編」 中野京子
を読みました。世界史の、まーとんでもないエピソードが散りばめられた本。
あー、世界の中心が欧州だなんて・・・、どっか世界史間違っているねー。日本の凄さを改めて感じる。
@美王ルイ15世。特別扱いの寵姫ポンパドゥール夫人がいるなか、この鹿の苑ガールズたちの中で唯一、いっときとはいえポンパドゥール夫人の地位を脅かしたといわれるのが、アイルランドの血を引くオミュルフィ嬢だ。
@どんどん良くなるプロイセン三代目。歴代プロイセン王、初代フリードリヒ1世、二代目フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、三代目フリードリヒ2世(大王)。
初代フリードリヒ1世は贅沢三昧で無能。二代目フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、質実剛健を旗印に、音楽や文学、教養などはどれも無意味と切り捨てた。
三代目になって、フリードリヒ2世(大王)は、芸術愛好家となり、出来が良くなった。
@最悪の夫にして父、国民の不人気ナンバーワンのイギリス王と言えば、ジョージ1世。
@ジャン・ジャック・ルソー。彼はフランス革命がおこる11年前に亡くなったが、同時代人の多くがールイ16世もナポレオンもー、革命はルソーに起因すると考えていた。(ロベスピエールなど、彼を「人類の師」と呼び、遺体を聖者の殿堂パンテオンへ移したほど)。ルソーは、教育論「エミール」で、教育論を展開しているが、そのルソー本人は、自分の子を全員孤児院へ捨てた。
彼には若い愛人がいて(後年結婚する)、次々五人の子供を作らせたが、出産直後に産婆に命じて孤児院へ捨てさせたのである。嘆く愛人を説得するのに苦労した、と後に自分で描いている。どの子にも、名前さえ付けてやらなかった。彼は、「エミール」で、「父親としての義務を果たせない者は、父親になってはいけない」だの「貧困も仕事も、子供を養育しない理由にはならない」などと書いているのだ!!
@パリには、1830年になるまで、公衆トイレなどなく、町中物凄い臭気だった。ロンドンはさらにおくれて、1852年まで公衆トイレはなかった。
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を読みました。本当に覚えずらいんだよねー。
@ロシア人がアジアふうの長い髭をやめたのは、ピョートル大帝が近代化のためと称してヒゲ禁止令をだしたときのこと。
@ロシアの英雄といえる軍人、トゥハチェフスキー。
しかし優秀だったので、嫉妬の鬼スターリンが野放しにはしなかった。秘密裁判にかけ、無実の罪を被せ、処刑する。その時も堂々と臆することなくスターリンを批判した。その後、1941年、ついにソ連とドイツとの戦争が始まるが、トゥハチェフスキーをはじめとした優秀な将官を軒並み粛正していたために軍隊が弱体化しており、ソ連はいきなり大ピンチ。ヴォルガ地方まで一気に侵攻されます。
そんなときに大いに活躍したのが、実はトゥハチェフスキーがヴォルガにいたころに鍛え上げた連隊だったのだ。
@「ヴィッチ」系の苗字は、他のスラヴ系民族にルーツを持つことが多い。最後に「コ」あるいは「エンコ」という苗字を持つロシア人は、ウクライナ系やベラルーシ系。
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「陰謀の日本中世史」 呉座勇一
を読みました。
練馬の宝、呉座さんは、なんというか、ガチンコっていうか、シューティングだね。
世に憚る歴史のうそに対し、情け容赦なく鉄柱を加えていくねー。
凄いけど、プロレスファンの僕としては、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」みたいなのの方が、史実とは違っていたとしてもたのしめたりして・・・。
@初期室町幕府では、足利尊氏の弟の直義(ただよし)が行政・司法を担当する一方で、足利家執事の高師直が軍事面で活躍した。しかし両者の方針が対立した。
足利直義は伝統や秩序を重視する守旧的な人物で、王家や公家、寺社の権威も尊重した。一方、高師直は進取の気性に富んだ改革派で、現実主義・実力主義を貫いた。
将軍足利尊氏は徐々に権限を直義に委譲し、これと同時並行的に高師直の権限が削減されていった。これは幕府に敵対する南朝勢力が弱体化したことで、軍事を管掌する高師直の重要性が低下したからである。
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を読みました。
いやー、徳川慶喜という怪物に何度も叩きのめされ、慶喜側近の板倉勝静や原市之進らに何度もやられ、鳥羽伏見の戦いで錦の御旗が翻るまで、大久保が慶喜に優位に立った瞬間は一度もなかったんですね。
明治の近代日本を築くために、私心を捨てて戦った姿は、まさに英雄ですね。
メモメモ。
@板倉家の勝静は松山藩主となる。そこで起用したのが、松山藩の藩校・有終館学頭の山田方谷である。山田方谷は、板倉勝静から諮問を受けたときは、常に複数の案を進言した優秀な部下だった。
@ペリーが琉球を経由して日本に来航した1853年、欧州ではクリミア戦争が勃発している。この年の露土戦争ではイギリスがオスマン・トルコ帝国の支援に介入し、クリミア戦争となる。フランス、オーストリア、プロシアはイギリスに付いた。戦線は極東まで及び、カムチャッカ半島でロシアは英仏連合軍と戦っている。
実は、ロシアは、イギリスやフランスに追い掛け回されながら、日本に開国を求めているのである。ここに日本側の交渉の余地があった。
250年の友好国オランダは、すでに発言力のない弱小国に落ちぶれていた。
そこに、大国ではないが、全くの小国でもない新興国アメリカが現れた。阿部ら幕閣の結論は一つ、最初に条約を結ぶのはアメリカしかない。
@江戸幕府最後の5年は、「兵庫開港」が最大の政治争点として政局が動いている。
@誰もが本音では即時攘夷の不可能なことなど知っている。だからこそ、攘夷派は主流派への攻撃材料としたのだ。実行不可能な理想論で主流派を揺さぶるのは、反主流派の常である。
@薩英戦争。大久保利通の初陣。後に海軍大将となる山本権兵衛は、この時にわずか10歳で志願兵として戦った。同じく東郷平八郎は12歳である。決戦は一日で終わった。鹿児島城下は文字通り火の海にされた。ただし、薩摩が放った大砲がイギリス艦隊の旗艦に当たり、イギリス側は艦長・副長をふくめ死傷者65名を出した。当時の人々には、攘夷を最も過激に煽った長州がみじめな敗北を喫し、日ごろから開国を唱えた薩摩が武威を示したと映った。
@岩倉使節団が不在の二年間のあいだに、留守政府の江藤たちがすっかり主流派となり、権力を握っていた。使節団が留守の間の成果は目覚ましかった。四民平等令、田畑永代売買解禁、陸海軍省と近衛師団の設置、国立銀行条例、徴兵制導入、太陽暦の採用、地租改正が次々となされた。電信が通り、鉄道が開通し、富岡製紙工場も開業した。
@明治7年(1874)、佐賀の乱。最近では大久保の陰謀だとする説が出てきている。江藤新平を殺すために、大久保が仕掛けて暴発させたというのである。大久保の鬼気迫る指揮のもと、佐賀の乱はたちまちのうちに制圧された。
江藤はさらし首に、一方的な通告でされた。
大久保利通は、徹底して、江藤新平が導入した近代的司法制度を踏みにじった。異常である。大久保の人生において、これほど感情をぶつけたことは後にも先にもこの一事である。西郷隆盛との仲を裂かれたことへの怨念としか思えない。
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