|
江戸前期の医家中山三柳(さんりゅう)が幼年時代を過ごした土地は奈良でした。
正確な記録はないのですが、『醍醐随筆』の記事からうかがえます。
優れた文人であった西洞院時慶(にしのとういん・ときよし)の5男忠康は慶長17年(1612)に誕生しました。
幼少期は乙丸(おとまろ)といって、奈良の興福寺一乗院にいました。
そのころ、三柳少年は一乗院に通って乙丸と遊んだりしていました。
その後、乙丸は都に戻り、後水尾院に仕えることになりました。
それがいつ頃かははっきりしませんが、『公卿補任』によると、寛永7年(1630)19歳で元服し、従五位下に昇っています。
その忠康が没したのは寛文9年(1669)8月27日でした(『公卿補任』)。
享年58歳。
『醍醐随筆』にも忠康の人となりや死期が近づき病床でやつれた様が描かれています。
三柳は医師として診察もかねて見舞に来たのでしょう。
それから35日後に他界しました。
ということで、三柳との最後の面会は寛文9年7月23日のことだったようです。
没後に三柳は次の歌を詠んでいます。
四十(よそじ)あまり なれぬる秋の いかにして
今年ばかりや 夢となるらん
忠康は58年で他界したから、40あまりの交友となると、18歳以前からのものだということです。
この点、奈良での幼年時代の思い出と矛盾しません。
もうひとつの記事は、かの戦国時代最大の幻術師果心居士(かしん・こじ)についてのものです。
三柳は次のような思い出を記しています。
「この居士が術は、奈良辺の老人、目の当たり見たりといふもの、山人(=三柳)が童稚のころ語りぬる。
元興寺の塔へ、いづくよりか登りけん。
九輪の頂上に立ち居て、衣服脱ぎてふるひ、またうち着て帯しめて、頂上に腰かけて、世上を眺望して下りたるとぞ」
つまり三柳が幼少時代、奈良のあたりには果心居士を実際に見たという老人がいたそうです。
元興寺の塔のてっぺんに登って服を脱いだり着たりして、世上を眺望しておりたのだそうです。
果心居士についてはさまざまな人が言及していますので、今日でも知名度は高いと思います。
僕の好きな『太閤立志伝』というゲームにも出てきますw
吉川英治『神州天馬侠』では武田家復興の裏で活躍する仙人のような人物として描かれています。
この作品でもやはり塔のてっぺんに座す果心居士が描かれています。
たぶん、『醍醐随筆』のこのエピソードが元ネタなんでしょう。
果心居士については実在が疑われていますが、『醍醐随筆』の記事を読むかぎり、実在したのではないかと想像します。
ただ、時とともに尾ひれがついて超人的な人物になっていっただけではないかと思っています。
この果心居士はもともと興福寺の僧でした。
忠康もまた興福寺一乗院に住んでいました。
三柳も興福寺となにか繋がりがあったのでしょうか…。
ともあれ、この忠康卿との交友と、果心居士の話を聞いたという記事から、三柳が奈良で幼少期を過ごしたことは確認されます。
|