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嘉吉の乱(1441)といえば、足利将軍義教公を赤松満祐が弑殺した大事件で、高校の歴史の教科書にも出てくるくらいですね。
赤松満祐については、以前、『醍醐随筆』収録の珍しいエピソードをこのブログでも紹介しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/16340665.html
さて、この乱の顛末については群書類従に『嘉吉記』という記録が収録されていて、一般に読むことができます。
江戸時代前期、これに加えて読み物化した『嘉吉軍記』という本も出版されました。
これは比較的流布したもののようですが、残念ながら活字で読むことができません。
僕もまだ読んだことがないのですが、ただ、これを批判的に継承した本が後世作られました。
それは『播州嘉吉軍記大全』と題する本です。
写本で現在1冊しか確認できないものなので、珍書といっていいでしょう。
明和元年(1764)、播磨の後藤基邑という人が著しました。
後書に「先に嘉吉軍記有りといへども、詳らかならざる故に、改めて事跡を正し委しく是を記し侍る」とあり、さらに「吾が国の昔語りを後の人にしらしめむ」とあるから、その執筆目的は歴然としています。
この本を5年後の明和6年に小松重利という人が写し、さらに2年後の明和8年に赤松義資という人がこれを写しています。
赤松義資という人は明らかに本軍記の赤松家とゆかりのある人物なのでしょう。
ただ室町時代の名家の赤松家は信長の時代に消えてしまうと思うので(このへん、曖昧orz)、少なくとも義資の家は庶流の流れを汲んでいるのでないかと想像します。
ちょっと調べてみます。
(この書では赤松・足利両家のことも多少言及しているので、これから読んでみます。)
画像は赤松家の城山城(きやまじょう)攻めの場面に描かれた図です。
右下に名所の人丸塚や明石の浦が見えます。
本文中には出てきませんが。
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嘉吉の乱 戦後 赤松氏のその後
脱出した教康は義父の大河内顕雅を頼るが拒まれて自害し、満祐が擁立した義尊も討たれている。満祐の弟の義雅は一族である満政の陣に出頭して切腹し、息子千代丸(後の赤松時勝)の育成を託した。
またもう一人の弟である則繁は九州に逃亡し、一時は朝鮮に渡るなど活躍したが文安5年(1448年)に河内で討たれている。
享徳3年(1454年)に満祐の甥の赤松則尚が赤松氏再興を掲げて播磨に侵入したが、敗れて持豊に討ち取られた。
分家の有馬氏出身の有馬持家・元家父子は8代将軍足利義政の側近として活動していたが、それぞれ満政、則尚の反乱に連座して隠居に追い込まれた。
嘉吉3年(1443年)9月、後南朝勢力が御所に乱入し、三種の神器のうちの神璽が奪われる事件が発生した(禁闕の変)。
赤松氏の遺臣は後南朝勢力に潜入し、長禄元年(1457年)12月に神璽を奪還して後南朝の後裔を殺害した(長禄の変)。
この功により時勝の子赤松政則は赤松氏の再興を認められ、加賀半国守護に任ぜられた。応仁の乱では旧領の三国をめぐって山名氏と争い、三国守護の座を奪還した。
2018/9/2(日) 午前 11:00 [ 歴史の真実を世紀ごと学ぶ ]