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玉藻の前は8万歳を生きた妖狐(ようこ)です。
その古い記録は仏典『仁王般若波羅密経』に載っています。
ということで、お伽草子『玉藻の草紙』ではこれを引用しています。
ちょっと詳しくみておきたいと思います。
昔、天羅国(てんらこく)ニ一人ノ王御坐(おは)ス。
其ノ王ニ太子一人有リ。
名ヅケテ班足太子(はんぞく・たいし)ト云フ。
此ノ班足王、外道ノ羅陀師(らだし)ノ教ヘニ依ツテ、千人ノ王ノ頭ヲ切(ちぎ)リ、塚ノ神ヲ祭リ、自ラ其ノ位ヲ取リ、数万人ノ力士、力王ヲ集メテ、東西南北、近国遠国押シ寄セ、搦メテ捕ル間、九百九十九人ノ王ヲ取ル。
昔、インドに天羅国という国がありました。
そこの皇太子を班足太子といいます。
この太子が外道の羅陀師に、1000人の王の頭を切って塚の神に捧げるようにそそのかされました。
そこで太子は父王の地位を奪って自ら王となり、数万人の将兵に命じて四方八方の国々を攻めて各国の王をからめ取ってきました。
その数なんと999人。
今一人足ラザル所ニ、外道教ヘテ曰ク、
「是(これ)ヨリ北一万里行キテ王坐(ましま)ス。
普明王ト云フ。
此ノ王ヲ取ツテ千人ノ数ニ満チ、一度ニ千人ノ頚ヲ切レ
ト云フ。
ようやく999人の王を捕らえましたが、まだ一人足りません。
どうしたものかと思っているところに、羅陀師が来て言いました。
「ここから北に一万里行ったところに王がいらっしゃいます。
この王を捕ってくれば1000人になるから、その時、一気に1000人の首を切りなさい」
時ニ普明王合掌シテ、班足太子ニ向ヒテ曰ク、
「願ハクハ一日ノ暇(いとま)ヲ給ハバ、三宝ヲ頂礼シ、沙門ヲ供養セン」
ト申シケレバ、一日ノ暇ヲ許サル。
其ノ時、普明王、過去七仏ヲ念ジテ百人ノ法師ヲ請ジテ、『仁王般若経』ヲ講説シ給フニ、第一ノ高僧、普明王ノ為ニ、而(しか)モ偈ヲ説イテ曰ク、
「劫焼終訖 乾坤銅然
須弥巨海 都為灰揚」
ト誦シ給フ。
此ノ文、皆説キ畢ンヌ。
捕らえられた普明王は合掌して班足太子にお願いしました。
「どうぞ、一日だけ暇をください。三宝(仏法僧)を敬い、僧を供養しますので」
太子はこれを許しました。
そこで普明王は100人の僧を呼んで仁王会(にんのうえ)という法事を大々的に執り行いました。
普明王、此ノ文ヲ聞キ給ヒ、四諦十二因縁ヲ悟リ、法眼皆空理ヲ得テ、班足太子モ諸法空寂ノ道理ヲ聴聞シ、悪心ヲ翻シ、千人ノ王ニ向ヒテ曰ク、
「是、諸王咎ニ非ズ、外道ノ勧メニ依ツテ悪因ニ趣ク。
今ハ各々早ク本国ニ帰リ無生法忍ヲ得ベシ」
其ノ昔、班足太子祭ラントセシ処ノ神ハ今ノ狐也。
普明王も班足太子も『仁王経』を聴聞して悟りを得、太子は改心して捕らえた1000人の王を解放しました。
外道の羅陀師にそそのかされて太子が祭ろうとした塚の神がすなわち妖狐玉藻の前の正体なのでした。
以上のように、『仁王経』所収の上記のエピソード(「護国品」)に説かれる狐が世々を経て、大陸から渡り、わが国に来たのでした。
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こちらのお話が、巡り巡って、玉藻の前になったわけですか。『外道の羅陀師』というのは男性みたいですね。絶世の美女となったのは、中国あたりからでしょうか。玉藻の前のイメージがあるからかもしれませんが、妖狐が化けるとしたら、やっぱり絶世の美女でなくっちゃ…というイメージだなぁと思いました(^^)
数字については、いろいろ検索してみたのですが、どうして仏教系のお話には「999」が多く出てくるのかというナゾには、いまのところ行き着くことができなくて、残念です…。キリスト教系では神をあらわすみたいですが、仏教系では仏をあらわすというわけではなさそうですしね…。
>ただ日本の古典には暗号めいたものが少ないので、そういう意味ではあまり面白くないかも。
そうなのですか。日本の昔話は、すごい想像力だなぁと思うものとかありますが、それらのほとんどは、大陸から入ってきたお話を参考にしたのでしょうか。竹取物語は日本のオリジナルと思っていたのですが、ちょっと検索してみたら、中国の書物を参考にして書かれたものらしい…ことを知り、ボーゼンとなりました…。
2010/8/26(木) 午前 0:13 [ ゆら ]
室町時代の『玉藻の草紙』の設定でいくと、仏典の『仁王経(にんのうきょう)』にまで玉藻の話は遡ることになります。
けれどもあくまでこれは中世日本人の牽強付会です。
物語ではこの後に古代中国の周王朝最後の皇帝幽王の后に化けて国を滅ぼしたというエピソードが続くのですが、やはりこれも設定上そうしたということでしょう。
天竺(インド)→中国→本朝と仏教が伝来したコースを踏んで、外道の玉藻もやってきたということにしたわけです。
西洋では数字の組み合わせや文字の配列に秘めた意味を与える趣向が好まれたみたいですけど、日本ではあまり見られないようです。
そういう理知的な神秘主義は不向きだったのかも知れませんね。
漢字の呪的分析ならやられてましたが。
(つづきます)
2010/8/26(木) 午前 11:28 [ 奈良漬 ]
昔話についてはまた話題が大きいのでここでは省きますけど、なんでも大陸経由という発想は前近代の日本人がよく考え方たことです。
『竹取』も似た話が世界各地にあるということで、中国の書物を机上に置いて二次創作したというわけではないでしょう。
それならば日本の昔話の「鉢かづき姫」は西洋のシンデレラを起源とし、「百合若大臣」はユリシーズだという話になってきます。
物語の一定の型を話型といいますが、話型の一致の意味することが伝播なのか相互に干渉しない独自創造なのかの決め手は個別に調べてみないと分からないことなんですね。
2010/8/26(木) 午前 11:29 [ 奈良漬 ]
丁寧にくわしく説明してくださって、ありがとうございます。
牽強付会の意味が分からず調べましたが、あっ、なるほどそういうことですか。作者が、登場する妖狐のスケールを大きくするために、元はインドのこの妖狐だったということにした…というわけですね。勘違いをしていました。
『なんでも大陸経由という発想』は、私にもあるみたいだなぁ…と思いました…^^; 気がつかせていただき、ありがとうございます(^^)
『漢字の呪的分析』ですが、数字よりもややこしそうですね…。
『竹取物語』と似た話は中国だけと思っていましたが…。偶然似た話が世界各地でつくられたという不思議さには、「おおっ!」と思います…。月に帰るという発想などは、何か特別な意味がありそうな気がしますし、ついあれこれ考えてしまいます…(^^)
>物語の一定の型を話型といいますが、話型の一致の意味することが伝播なのか相互に干渉しない独自創造なのかの決め手は個別に調べてみないと分からないことなんですね。
そうでしたか。即、思い込んでしまうもので、気をつけようと思います。
ありがとうございました(^^)
2010/8/26(木) 午後 5:00 [ ゆら ]
99で後一つ足りない、という話が、日本にもあって、わらじを繋げて天まで昇るというのがあります。詳細忘れましたが、ジャックと豆の木みたいですね。やはり、99は「一つ足りない」という不足を意味するようですね。
2010/8/26(木) 午後 9:09 [ カムイ ]
「百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬつくもがみ 我を恋ふらし面影に見ゆ」という歌が『伊勢物語』にありますが、一つ足りないというのは物語の設定として緊張感を与えるんでしょうね。
逆に100とか1000とかよりも99とか999とかのほうが多大だという心理が働いているのかも知れません。
2010/8/27(金) 午前 9:09 [ 奈良漬 ]
確かに「一つ足りない」というのでなく「多大」という考え方もありますね。気付きませんでした。
2010/8/27(金) 午後 8:40 [ カムイ ]