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足利義満の時代、ようやく都の治安も安定してきたころ、菅原家の末裔に東坊城秀長(ひがしぼうじょう・ひでなが)という公家がいました。
暦応元年(1338)に生まれ、その後順調に昇進し、また要職にも就き、康暦二年(一三八〇)二月二十日、43歳のときに後円融天皇の侍読(じとう)になりました。
侍読とは今でいうと、天皇にご進講する役のことです。
なお、次に即位した後小松天皇のご進講もまた長く勤めました。
その後も順調に出世しましたが、これは足利将軍家との関係がよかったことにもよるかと思います。
将軍家との繋がりといえば、足利義満の師範役として『孟子』の講読をしています。
康暦2年(1380)には『孟子』を書写して義満に献呈してもいます。
これは白文ではなく、おそらく菅原家で伝えた訓読のほどこされたものではなかったかと想像されます。
義満の書記役のようなこともしていたようで、義満が朝廷で大将に任じられたときに、その任官記録を草しているし、また連歌の会では執筆(しゅひつ)を担当しています。
その後の義持・義嗣・義教にも師範役をしており(ただし義持は清原良賢を重んじたかも)、将軍家との関係は生涯失敗することもなく、良好だったと思われます。
こうした朝廷・幕府にも重んじられる人物であり、また学問や故実に通じた長老格であったことは室町時代における菅原家の立場を形成するに重要な意義があったと思われます。
これについてはまた整理しておきたいと思います。
秀長は応永18年(1411)に他界。
子孫は栄え、明治を迎えました。
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室町戦国期の文人貴族
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