|
前回、十二支の戯文集に触れました。
もう少し書き進めておきます。
これをまとめた小寺玉晁は幕末明治期の尾張名古屋の文人です。
今日良く知られた著書に『見世物雑志』があります。
尾張近辺の娯楽や芸能に関してつぶさに記した名著です。
戯文集の編集されたのは天保年間でしょう。
・天保八年申の年から四年目の申の月庚申の日申の刻
というフレーズが出てきます。
天保8年(1837)から4年目とは天保12年(1841)です。
猿の文章はこの年に作られたことが知られます。
亥の文にも
・天保十年己亥の十月の中の亥の子も炬燵あけて…
とあります。
要するに、このころ仲間同士で十二支の戯文を作ろうと企画して、天保12年頃、玉晁がまとめたのでしょう。
さて、これらの文章の中には上述の『見世物雑志』にも通じる当時の大衆芸能や流行りものを取り上げられています。
馬尽くしのくだりにこんな箇所があります。
主馬の小金吾やつし役、蹄斎北馬は浮世絵師、馬谷馬英は軍書よみ、焉馬は噺の開山なり
小金吾は『義経千本桜』の登場人物。
北馬は北斎の弟子の浮世絵師。
焉馬は烏亭焉馬(うてい・えんば)のことで、江戸時代の名高い噺家。
馬谷馬英は詳細は不明ながら『見世物雑志』にその名を留めています。
青雲堂馬英のことで、天保3年5月に名古屋の大須観音の門前で軍書(大久保黒白論、参考盛衰記)の講釈をしたことが確認されます。
この他にも、つぶさに見ていくと史料としての価値が見出されるように思われます。
たとえばこんな箇所。
桜田三虎もこの頃は春鶯とやら改名して為永門人にぞ入られたる
春鶯は為永春水の門人で、欄外に「桜田三虎は加藤常徳子なり」とあります。
常徳は尾張の医師。
このように経歴が少し知られます。
そんなこんなで丁寧に読んでみると、いろいろ発見できるかも知れません。
|
近世文化人
[ リスト ]




