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鈴木棠三は「擬人的思考」と「擬人法」を次のように説く。
〈擬人的思考〉
「擬人的思考は、未開人にあってはごく普通に見られるもので、かれらは超自然的存在、またはその現象に対して、人格的生物つまり人またはその行為と同一視するのが常であります。文明人もかつてはこの段階を経過したのですが、文明の進歩とともに擬人的思考は一部に残留する程度となり、大部分の中心的事象についてはこれを克服します。このように擬人化は未開人においては自然作用、乃至は自然発生的といえる思考法です」
〈擬人法〉
「文明人はこれ(=擬人的思考)を意識的に利用する場合あるのです。すなわち芸術創作にあたって、目的的に擬人法を利用するのです。時には造形美術においても擬人法が使用された例がありますが、特に多いのは言語上における使用です。」
ここにいう〈擬人的思考〉は超自然的な存在やその現象の人格化ということなのだろう。しかしそこには飛躍があると考える。
自然物や自然現象を超自然的に捉えることで、まずそこに神格化・妖怪化という段階が現れる。そこに聖性をみたり、説明不可能な現象の背後に霊的なものをみたりするわけだ。自然そのものやその現象を神や妖怪を認めている。
それを神話・物語、または図像で表現する段階で、人間の姿がイメージされる。人格化とはこの段階を指すのではないだろうか。神や妖怪は龍や動物、鳥、魚など様々な姿で示されることも多いが、その中で人間として描かれることもある。このうちの、人間として造形されるものを人格化、つまり鈴木のいうpersonificationと捉えるのが順当と考える。
一方、〈擬人法〉は鈴木のいう通りである。その上で〈擬人化〉とは、鈴木の言葉を借りていえば「芸術創作にあたって、目的的に擬人法を利用」してキャラクターを造形する表現方法であるといえるだろう。何物か、人間以外のものを「人間として」、言い換えれば「人に見立てて」造形することである。ここには〈擬人的思考〉を生み出す信仰的土壌は問題とならない。しかし、ここではpersonificationよりも、anthropomorphizationの訳語としたほうが、現代においては適切のように思われるし、人格化と概念的な区別を付ける上で有効だと思われる。
ともかく、神を人間の姿にイメージする民俗社会的な想像力と、ミッキーマウスや艦娘を創り出す机上の想像力とを一緒するような考えは取ってはならないと思うのである。
ただ、文化人類学ではanthropomorphization(anthropomorphism) を古くから人格化と同義に用いてきた経緯がある。たとえば日本でも広く読まれたE.タイラーのPrimitive Culture(1871)ではanthropomorphicをconceptions of spirit and deity(精霊や神の観念) とする。そして、それらの人間の姿をした形体をanthropomorphic form と表現する。 その一方で、personification of Sun and Moon, personificationsof the sand-pillars など、太陽、月、砂柱が人間の姿で現れたものをpersonificationと表現する。また崖や井戸、滝、火山などの自然物が精霊として人間の眼に映ることをpersonify the natural objects などと記している。 どちらにしても、精霊や神が人間の姿で実体化したことを表しているもので、両者に明確に区別を付けて使っているようには思われない。こうした不徹底さが、今日に至るまでの混乱を招いているといえなくもないだろう。特に影響力のある研究者たちがそのまま受け入れていることで、この問題が中々解消されないもどかしさがある。
そこで、以下に簡単に私見を述べておく。
先に〈擬人的思考〉と〈擬人法〉という鈴木の説を紹介した。今日的な用法に近づけてみると、前者は〈人格化〉、後者は〈擬人化〉と親近性があると言えないだろうか。そうすると、次のように整理できるのではないか。
前者は民俗社会を基盤とした想像力の所産である。特定の社会では雷や正月に来る神、また天狗や鬼などの妖怪に共通した人間の姿をもつイメージが与えられている。これを人格化(personification)と捉える。
それに対して、後者は個人の想像力の所産である。艦船を美少女に描く、刀剣をイケメンに描くといった、主に机上で表現されるキャラクター、言い換えれば擬人法を利用して創作されたものを擬人化(anthropomorphization)と捉える。これらは主に物語作品、絵画、彫像などで表される。『擬人化と異類合戦の文芸史』では「物語世界の住人」とたびたび表現しているが、つまり、譬喩表現を二次元でキャラクター化したものであり、決して現実世界に実在し得ないものだ(それに対して神や妖怪はその存在を信じる人にとっては現実世界に実在している)。
このように使い分けることで、前者は文化人類学的な観念論における術語であり、後者は文芸学的な表現論における術語であると見做すことができる。そうすると、異なる思考が混線することなく、それぞれの議論を深めていけるのではないかと思うのである。
ともかくである。人里に現れる三輪山の神様もゆるキャラのふなっしーもゲームキャラクターの艦娘もみんな擬人化だ、発想は同じなんだという雑な論調には辟易している。どうにかしたいものである。
なお余談だが、小池藤五郎はその著書『山東京伝』(1961年)の中で、京伝の黄表紙『心学早染草』における善魂(よきたましい)、悪魂(わるたましい)のキャラクター化を「擬人化」と表現する。これは全く問題ない。が、「擬人化」に「モディフィケーション」とルビを付けている。それは違うのではないかと思う。
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