穴あき日記〜奈良漬のブログ

『「もしも?」の図鑑 ドラゴンの飼い方』(実業之日本社)出来しました/ツイッターID:@NarazakeMiwa

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近年、鳥山石燕の妖怪画の再評価が著しい。すでに90年代から小説、マンガ、ゲーム等のクリエーターたちがこれを用いる機会が増えてきた。これは1992年刊行の国書刊行会本と、2005年以降、版を重ねている角川ソフィア文庫本、さらにウィキペディアの拠るところが大きいだろう。
ところがよくよく本文を検証してみると、単純な翻刻ミスから内容的に看過できない誤読までいくつか散見される。管見では23ヶ所に修正の必要を覚えた。以下に具体的に指摘していくことにしたい。
※田中→田中初夫編『画図百鬼夜行』渡辺書店、1967年 (本文は目次ページにあり。また『画図百器徒然袋』未収録)
 国書→稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』国書刊行会、1992年
 角川→『鳥山石燕画 図百鬼夜行全画集』角川ソフィア文庫、2005年(使用本=第24版、2014年)
※引用本文中の( )は直前の漢字に付いている振り仮名を示す。
※ウィキペディア所引の本文もおよそかくのごとし。要注意。

1. 人魂(田中105/国書139/角川99)

  魂(こん)気(き)の如きはゆかざることなし。
  魂(こん)気(き)の如きはゆかざるなし

「こと」の部分は欠損があり、判読がむつかしいが、補正してみると「事」の崩し字であることが知られる。
イメージ 2
イメージ 1









2. 大首(田中130/国書168/角川124)

  おそろしなんもおろか也。
  おそろしなんもおろか也。

釈文で「おそろし。」と文を処理している点に問題がある。たとえば下のような事例を見てみよう。
  凡そあたりをはらつてぞ見えたりける。おそろしなんどもをろか也。(『平家物語』「能登殿最期」)
  いとゞ恐しなんども云ばかりなし。(『源平盛衰記』巻六「丹波少将被二召捕一附謀叛人被二召捕一事」)
このように、「おろか」は相手を侮蔑する表現ではない。
そもそも、そうであれば、一体、石燕は誰を誹謗しているのだろうか。
大首だろうか、それとも、不運にも大首に出くわしてしまった人だろうか。
どちらに対してでもない。
闇夜に突如現れた大首を前にして、「恐ろしなんど言ふもおろかなり」ということで、つまり、「恐ろしい」という言葉にもならないということである。
このような釈文の誤りを踏襲し、英訳本では「How ridiculous !」(p.146)としてしまっている。

3. 百々爺(田中131/国書169/角川125)

  もゝんぐはとがごとふたつのものを合せて、
  もゝんぐはとがごとふたつのものを合せて、

濁点を打ち損じ。

4. 天逆毎(田中133/国書171/角川127)

  或書ニ云フ。(下略)
  (省略)

他の項の画中詞を見る限りでは、漢文体の本文は原文のままというのが釈文の基本姿勢のようである。しかし、本項目では書き下し文に改められている。

5. 彭侯(田中154/国書194/角川142)

  千歳(ざい)のには精(せい)あり。
  千歳(ざい)の木(き)には精(せい)あり。

単純に、振り仮名を落としている。

6. 白粉婆(田中160/国書200/角川148)

  おしろいばは此神の侍女(ぢぢよ)なるべし。
  おしろいばは此神の侍女(ぢぢよ)なるべし。

濁点を打ち損じ。

7. 蛇骨婆(田中161/国書201/角川149)

  蛇(じや)骨(こつ)婆(ば)は此の国の人か。(中略)訛(あやまり)りて蛇(じや)骨(こつ)婆(ば)といふと。
  蛇(じや)骨(こつ)婆(ば)は此の国の人か。(中略)訛(あやまり)りて蛇(じや)骨(こつ)婆(ば)といふと。

白粉婆と同じく、濁点を落としている。

8. 倩兮女(角川151)

  一(ひと)たびへば、(角川)
  一(ひと)たび笑(わら)へば、(国書)

田中本(163)・国書本(203)では原本通り「一(ひと)たび笑(わら)へば、」と振り仮名を付けているが、角川本ではこれを落としている。

9. 屏風闚(田中190/国書238/角川178)

  枝(だ)をつらね
  枝(だ)をつらね

原本では「枝」に「ゑだ」と振り仮名を付けている。

10. 目競(角川182)

  大(だい)政(ぜう)(にう)道(だう)清盛(きよもり)
  大(だい)政(ぜう)(にう)道(だう)清盛(きよもり)

田中本(194)・国書本(242)では原本通りに「大(だい)政(ぜう)(にう)道(だう)清盛(きよもり)」であるが、角川本では「入」を「人」に誤っている。

11. 否哉(角川184)

  怪(くはい)(さい)(中略)この否(いや)哉(ゝ)も
  怪(くはい)(さい)(中略)今(いま)この否(いや)哉(ゝ)も

田中本(196)・国書本(244)では原文通り「怪(くはい)哉(さい)(中略)今(いま)この否(いや)哉(ゝ)も」と記している。角川本は「怪哉」を「怪我」とし、また「今」の振り仮名を落としている。

12. 滝霊王(田中198/国書246/角川186)

  滝(たき)つぼより
  つぼより

原本では振り仮名が付いていないのに、翻刻では付けている。

13. 文車妖妃(国書266/角川198)

  文車妖(ふぐうまよう)妃(ひ)
  文車妖(ふぐるまよう)妃(び)
  Fuguruma-yōhi (英訳本)

国書本は釈文の見出しを原本通り「文車妖(ふぐるまよう)妃(び)」とするが、ページの見出しを「文車妖(ふぐうまよう)妃(ひ)」としてしまった。恐らく角川本は後者を継承した結果、「文車妖(ふぐうまよう)妃(ひ)」としてしまったようだ。その結果、これを受けた英訳本でもyōhiと、清音になっている。

14. 長冠(国書268/角川200)

  このがしはの
  このがしはの

原文は「手」という漢字を用いているが、これを平仮名に翻刻している。

15. 沓頬(国書269/角川201)

  瓜(うり)を喰(くろ)ふ霊隠(れいいん)寺(じ)の僧(そう)(中略)瓜田にくに
  瓜(うり)を喰(くろ)ふ霊隠(れいいん)寺(じ)の僧(そう)(中略)瓜田にくに

「鄭瓜州の瓜田に怪がある」「瓜を食べる」「霊隠寺の僧」「これを聞いて符を与える」という4つのセンテンスに分けられる。
問題は「瓜を食べる」という部分だ。
釈文では「霊隠寺の僧」に修飾し、「瓜を食べる霊隠寺の僧」という主語を作っている。
しかし、そうすると、「鄭瓜州の瓜田に怪がある」の「怪」が何か説明されないまま、霊隠寺の僧は瓜を食べながら護符を与えたことになる。これはおかしい。
何者かが瓜田で盗み食らうことが「怪」であり、それを防ぐ相談を受けた霊隠寺の僧が護符を与えたと解すべきだろう。
したがって、
  鄭瓜州の瓜田に怪ありて、瓜を喰ふ。
  霊隠寺の僧、これをきゝて、符を与ふ。
とするのが正しいと思われる。
また、護符を「瓜田にかくに」は「瓜田におくに」の誤りである。
内容的にも護符を瓜田に置いたのであって、瓜田に書いたとするのはおかしい。
また「書くに」を「掛(懸)くに」と解すのであれば、「掛(懸)くるに」としなければ、文法的に誤りである。
文語文が文章作成の基本である石燕がこのような基本的な誤りを犯していると解するのは強引すぎるというものだろう。
英訳本も注意が必要。

16. 払子守(国書277/角川209)

  仏性(ぶつしやう)ありけり
  仏性(ぶつしやう)ありやと

「則」とは公案、いわゆる禅問答で用いる問題である。
したがってその文は問い掛けの形式を採っている。
「狗子にさへ仏性ありけり」としてしまうと、犬に仏性があることを既成事実として語るだけで、質問になっていない。まるで「昔、男ありけり」ではじまる『伊勢物語』のようだ。
これは文末の「やと」を誤って「けり」と翻刻してしまった結果である。
ここは「狗子にさへ仏性ありや」と、問うているのである。

17. 禅釜尚(角川212)

  文福(ぶく)茶釜(ちやがま)のためしも
  文福(ぶく)茶釜(ちやがま)のためしも

16と同様、「と」を誤っている。国書本(285)では正しく翻刻されていたものを改悪してしまった。

18. 鞍野郎(国書286/角川214)

  おし
  おしかへし

国書・角川両本及びウィキペディアでは「『保元の夜軍に(中略)気も魂もきへぎへとなりし』とおしみて唄ふ声」と翻刻している。
鞍野郎は『保元物語』に取材した物語歌を語る妖怪として描かれている。
琵琶法師の平家語り、あるいは浄瑠璃語りを想像すればよいのだろうか。
その歌は巧みで聴くものに興を覚えさせるものであった。
「惜しみて」歌う声とはどういうものであろうか。ちょっと解しかねる。
ここは歌うのを惜しむということではなく、「おしかへして」歌う、つまり鎌田正清のエピソードを繰り返し繰り返し歌う声に興があると説いているのである。
「おしみて」の「み」と解した部分は、「か(可)へ」の連綿と「し」から成っている(下図参照)。
英訳本も注意。
イメージ 3









19. 琵琶牧々(国書295/角川223)

  そのぼく馬のびはのにして
  そのぼく馬のびはのにして

原文に「精」とあるのを、「轉」と読み誤ったものだろう。
これと同じ漢字はたとえば「三味長老」にも見える。
そちらでは「精(せい)」と振り仮名が付してあるから間違いない。

20. 襟立衣(国書297/角川225)

  彦(ひこ)山の豊(ぶ)前(ぜん)坊(う)
  彦(ひこ)山の豊(ぶ)前(ぜん)坊(う)

歴史的仮名遣いの表記として、「坊」は「ばう」とするのが正しい。
しかし、ここでは「ぼう」と記されている。
一見すると「ば」に見えなくもないが、よく見ると「者」ではなく、「本」を母字とする「ぼ」の変体仮名を用いていることに気付く。
すなわち「者」を母字とする仮名の場合、右下に下がるだけだが、「本」の場合は一旦右上に上げてから右下に筆を持っていくのである。
ここでは後者の筆遣いが確認できる。

21. 乳鉢坊(国書299/角川227)

  乳ばち坊のばちのおと
   乳ばち坊のばちのおと

この箇所は原本が極めて不鮮明であるため、判読のむつかしいものであった。
もとより「泉ばち」なる語句は他の文献に見出されず、また文意が不通であったし、そもそも筆遣いが「泉」のくずし字とかけ離れている上、「乳」に酷似しているから素直に「乳」とするほうが良いと考えていた。
この推測は、摺の良いスミソニアン・ミュージアム所蔵本がウェブ上で公開されるに及んで確実なものとなった。
重要なことは、この誤字の訂正によって、内容の解釈に変化が生まれたことである。
すなわち、
  乳ばちばうの乳ばち((夕だち))のおとにゆめさめぬ
と、言葉を掛けているわけである。
そう解すると、乳鉢(夕立)の大きな音に驚いて夢から覚めたということになる。
英訳本も注意。

22. 瀬戸大将(国書317/角川241)

  からつやき
  から津やき

「つ」は仮名ではなく漢字と見るべきである。
「油赤子」に「大津」という地名が出てくるが、この「津」は「瀬戸大将」に見える「津」よりもくずれている。
それでも漢字として記されている。
これよりもより原形をとどめる文字がここでは用いられているのであるから、「津」と記すのが適切だろう。

23. 山颪(国書320/角川244


  山おやじ(中略)はりめぐら

  山おろし(中略)はりのごとし


この項目には2ヶ所問題がある。一つは「山おやじ」であり、もう一つは「そう身の毛はりめぐらし」である。
それらの部分を拡大したのが下の画像である。
イメージ 5











まず、「山おやじ」と翻刻した部分を見てみよう。
「山」は問題ない。
続く「お」も問題ない。
しかし次の「や」と読んだ部分であるが、これは「ろ」に「し」を続けたものに見えないだろうか。
本書における「や」の用例は随所に見られるのでご参照願いたい(たとえば「大首」や「目競」)。
ところが「山颪」の文字は違う。
まず左端から筆を入れて右に動かしている。
そして最後の一画は右下から左へ真っ直ぐに引くか、横棒の上から下に緩やかな曲線を引いている。
これに対して「山おろし」の事例はどちらにも該当しない。
そもそも、一画目が左端から始めるのではなく、「お」の点の延長にして、横棒の上から入っている。
これは「ろ」の筆の入る位置に等しい。
これと類似する事例は「天井下」にあるのでご参照願いたい。
イメージ 4












これは「おそろしきめを」と読むべきものである。
その34文字目「ろし」の「ろ」の一画目と「山おろし」のそれとを見比べていただきたい。
入り方が同じであることが分かるであろう。
さらに、「し」が「ろ」の曲線の内側から下に直線を引くように記している点も同じである。
以上のことから、「山おやし」と翻字し、これを「山おやじ」と解釈するのは誤りであり、正しくは「山おろし」とすべきであることは明らかだろう。
内容的にみても、この山颪という妖怪が豪猪、すなわちヤマアラシに似ているから名づけられたので、冒頭に「豪猪といへる獣あり」の一文を配しているのだろう。
しかし、問題はここだけではない。
「山おろしと言ひて、そう身の毛はりめぐらし、此妖怪も名とかたちの似たるゆへにかく言ふならん」としたところで、まだ文意が通じにくい。
「そう身の毛はりめぐらし、此妖怪も名とかたちの似たるゆへ」というところが不自然である。
実はここにも誤字があると考えられるのだ。
「そう身の毛」に問題はない。続く「はり」もそうとしか読めない。
しかし、「めぐらし」とした部分が明らかにおかしい。
類似する文は「骨傘」に見られる「のごとく」であるから、ご参照願う。
また、スミソニアン本は摺りが良いので、大いに参考になる。
その前に、角川本で「め」とした文字であるが、原本紙面の損傷もしくは版木の欠損により「め」の一画目が読めない状態になっていると判断したらしい。
それで「め」としたのだろうが、しかし、本書に記される「め」は円が大きくない。
先に掲げた「天井下」中の「おろそしきめを」の「め」から分かるように、円の部分を細いのである。
それに対して「の」は右の「骨傘」の「の」のように円が半月状になっている。
ひるがえって「山颪」の「はり」の下の文字はどうかというと、明らかに「の」と同じく半月状の円である。
したがって、これは「め」ではなく「の」と読むべき文字である。
ついでその下は「骨傘」の「の」の下にある「ごと」の合字と同じと見るべきだろう。
濁点の位置も同じだ。
内容面から見るとどうか。
「針のごとし」と解することによって、前後の文意が通じる。
つまり、「総身の毛、針のごとし。」、これに続いて「此の妖怪も名とかたちの似たるゆへ」この名が付いたとなる。
「此の妖怪」という主語の「この」は上の文を受けた語であるから、「ごとし」で文を止めたほうが適切である。
以上を整理すると、次のように釈文を修正する必要がある。

  山(やま)颪(おろし)
  豪(がう)猪(ちよ)といへる獣(けもの)あり。
  山おろしと言ひて、そう身の毛、針のごとし。
  此妖怪(ようくわい)も名とかたちの似たるゆへにかく言ふならんと、夢心におもひぬ。

国書刊行会本(1992年刊)および角川ソフィア文庫本(2005年刊)の普及率は高い。
そのためにわずかの間に「山おやじ」なる誤った別名もまた流布するようになってしまった。
ウィキペディアは今後修正することができるが、書籍として流布したものは中々むつかしい。
たとえば水木しげる『図説 日本妖怪大鑑』では
  別名を「山おやじ」といい、深山に住んで群れをつくって害を為すことがあるといわれているが、
と記している。
他にも類似する説明をした文献が散見される。

※以上は2017年12月9日の異類の会での報告をまとめたものである。

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鈴木棠三は「擬人的思考」と「擬人法」を次のように説く。
 
〈擬人的思考〉
「擬人的思考は、未開人にあってはごく普通に見られるもので、かれらは超自然的存在、またはその現象に対して、人格的生物つまり人またはその行為と同一視するのが常であります。文明人もかつてはこの段階を経過したのですが、文明の進歩とともに擬人的思考は一部に残留する程度となり、大部分の中心的事象についてはこれを克服します。このように擬人化は未開人においては自然作用、乃至は自然発生的といえる思考法です」
〈擬人法〉
「文明人はこれ(=擬人的思考)を意識的に利用する場合あるのです。すなわち芸術創作にあたって、目的的に擬人法を利用するのです。時には造形美術においても擬人法が使用された例がありますが、特に多いのは言語上における使用です。」
 
ここにいう〈擬人的思考〉は超自然的な存在やその現象の人格化ということなのだろう。しかしそこには飛躍があると考える。
自然物や自然現象を超自然的に捉えることで、まずそこに神格化・妖怪化という段階が現れる。そこに聖性をみたり、説明不可能な現象の背後に霊的なものをみたりするわけだ。自然そのものやその現象を神や妖怪を認めている。
それを神話・物語、または図像で表現する段階で、人間の姿がイメージされる。人格化とはこの段階を指すのではないだろうか。神や妖怪は龍や動物、鳥、魚など様々な姿で示されることも多いが、その中で人間として描かれることもある。このうちの、人間として造形されるものを人格化、つまり鈴木のいうpersonificationと捉えるのが順当と考える。
一方、〈擬人法〉は鈴木のいう通りである。その上で〈擬人化〉とは、鈴木の言葉を借りていえば「芸術創作にあたって、目的的に擬人法を利用」してキャラクターを造形する表現方法であるといえるだろう。何物か、人間以外のものを「人間として」、言い換えれば「人に見立てて」造形することである。ここには〈擬人的思考〉を生み出す信仰的土壌は問題とならない。しかし、ここではpersonificationよりも、anthropomorphizationの訳語としたほうが、現代においては適切のように思われるし、人格化と概念的な区別を付ける上で有効だと思われる。
ともかく、神を人間の姿にイメージする民俗社会的な想像力と、ミッキーマウスや艦娘を創り出す机上の想像力とを一緒するような考えは取ってはならないと思うのである。
 

ただ、文化人類学ではanthropomorphization(anthropomorphism) を古くから人格化と同義に用いてきた経緯がある。たとえば日本でも広く読まれたE.タイラーのPrimitive Culture(1871)ではanthropomorphicconceptions of spirit and deity(精霊や神の観念) とする。そして、それらの人間の姿をした形体をanthropomorphic form と表現する。

その一方で、personification of Sun and Moon, personificationsof the sand-pillars など、太陽、月、砂柱が人間の姿で現れたものをpersonificationと表現する。また崖や井戸、滝、火山などの自然物が精霊として人間の眼に映ることをpersonify the natural objects などと記している。

どちらにしても、精霊や神が人間の姿で実体化したことを表しているもので、両者に明確に区別を付けて使っているようには思われない。こうした不徹底さが、今日に至るまでの混乱を招いているといえなくもないだろう。特に影響力のある研究者たちがそのまま受け入れていることで、この問題が中々解消されないもどかしさがある。
そこで、以下に簡単に私見を述べておく。
 
先に〈擬人的思考〉と〈擬人法〉という鈴木の説を紹介した。今日的な用法に近づけてみると、前者は〈人格化〉、後者は〈擬人化〉と親近性があると言えないだろうか。そうすると、次のように整理できるのではないか。
前者は民俗社会を基盤とした想像力の所産である。特定の社会では雷や正月に来る神、また天狗や鬼などの妖怪に共通した人間の姿をもつイメージが与えられている。これを人格化(personification)と捉える。
それに対して、後者は個人の想像力の所産である。艦船を美少女に描く、刀剣をイケメンに描くといった、主に机上で表現されるキャラクター、言い換えれば擬人法を利用して創作されたものを擬人化(anthropomorphization)と捉える。これらは主に物語作品、絵画、彫像などで表される。『擬人化と異類合戦の文芸史』では「物語世界の住人」とたびたび表現しているが、つまり、譬喩表現を二次元でキャラクター化したものであり、決して現実世界に実在し得ないものだ(それに対して神や妖怪はその存在を信じる人にとっては現実世界に実在している)。
このように使い分けることで、前者は文化人類学的な観念論における術語であり、後者は文芸学的な表現論における術語であると見做すことができる。そうすると、異なる思考が混線することなく、それぞれの議論を深めていけるのではないかと思うのである。
 
ともかくである。人里に現れる三輪山の神様もゆるキャラのふなっしーもゲームキャラクターの艦娘もみんな擬人化だ、発想は同じなんだという雑な論調には辟易している。どうにかしたいものである。
 
なお余談だが、小池藤五郎はその著書『山東京伝』(1961年)の中で、京伝の黄表紙『心学早染草』における善魂(よきたましい)、悪魂(わるたましい)のキャラクター化を「擬人化」と表現する。これは全く問題ない。が、「擬人化」に「モディフィケーション」とルビを付けている。それは違うのではないかと思う。

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擬人化という語(1)

現在の日本では、〈擬人化〉という語が過剰なほど使われるようになってきた。これは2000年以降の現象といえるだろう。
ただ、動物が人間に〈変身〉することも〈擬人化〉という語で表現する現状は、文化論や物語分析の文脈では適切でない。
さらにいえば、古くから文化人類学の分野では人間の姿で神が表されることを〈擬人化〉と表現されることが多い。これもやはり同様に適切とは考えない。太陽や雷を神として信仰する行為と、「フォークとナイフをイケメンに描いてみました」という個人的創作とを同じ次元で扱おうことになってしまう。
小著『擬人化と異類合戦の文芸史』(三弥井書店)では、序論において、〈変身〉という概念と〈擬人化〉という概念は別であるということ、〈神格化〉や〈妖怪化〉と〈擬人化〉とは、文化的位相も物語上の意味や機能も異なるということを論じている。
以下には、本書の性質上取り上げなかったことを、補っておきたい。
 
そもそも、この〈擬人化〉という術語はいつ頃から使われ出したのか。
これについては鈴木棠三『通名・擬人名辞典』(東京堂出版)の「擬人名概説」が参考になる。これはあくまで「擬人名」という術語の語史に主眼があるのだが、周辺語彙も扱っている。これによると、『広辞苑』に「擬人観」という項目があり、そこにはanthropomorphismの訳語であるという。『広辞苑』の何版からある項目なのかは分からないが、1955年(昭和30年)に初版が出ているから、それ以降のことであるのは確かだろう。
鈴木が古い事例として挙げるのは、1915年(大正4年)刊行の『大日本国語辞典』で、それには「擬人」「擬人法」が立項されているという。ただ、「擬人」は「自然人にあらざる者に、法律が人格を付与すること。又は、其の人格。法人」とあり、法律用語として扱われている。一方、「擬人法」は「非情なものを、人類に擬していひなす法」という、今でも普通に使われる修辞法の用語として扱われる。
 
ちなみに『日本国語大辞典』第2版(初版未見)には「擬人化」が立項されており、「人間でないものを、人間になぞらえて扱うこと」とする。妥当な解説だろう。そして初出例として1935年(昭和10年)発表の鏑木清方「雪」を挙げる。すなわち「多く行はれる禽獣の擬人化の中でも殊に傑れたものであらう」とある。前後の文脈は分からないが、今と変わらぬ用法で使われているようである。
 
ところで、鈴木は「擬人」が翻訳語であるか否か、翻訳語ならばいつ頃造られたのか、資料的に確認できずに結論を保留している。
鈴木はpersonificationが「無生命の事物、あるいは抽象的観念を人として表現する」として、その訳語のように捉えているのだが、すでに1919年(大正8年)の『袖珍新聞語辞典』に「擬人」をpersonificationの訳語として示してある。
戦前、戦後にかけての日本では、これが一般的だったのかも知れない。
結局、「擬人」が訳語であるか、それとも、personificationに、すでにある「擬人」という語を採用したのか、まだよくわからない。
ちなみに「擬人法」は『袖珍新聞語辞典』に先んじて1892年(明治25年)の正岡子規『獺祭書屋俳話』に見える。翻訳語のようにも思われるが、あるいは国文の分野で用いられ出したものかも知れない。

そういうわけで、鈴木と同様、私も結論は保留としたい。

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昨日、若い学友とのやりとりの中で、ポーランドのスモクの話からエストニアのピスハンドと呼ばれる小型の龍の話に及んだ際、ピスハンドはピスヘントが正しいのではないかとのご指摘を受けた。

エストニア語の表記はPisuhändである。
ウィキペディア日本語版で「ピスハンド」と立項されており、またPisuhändを取り上げている日本語サイトはいずれも同様に「ピスハンド」と記述している。
さらに英語サイトではしばしばPisuhandと、補助記号を省略した表記がされている。
それで、私も特に疑うことなく「ピスハンド」と呼んでいたのだが、指摘されてみて、確かにこれは不正確じゃないかと思った。
なるほど、たとえば作曲家のG.F.Händelはヘンデルであり、指揮者のW.Fultwänglerはフルトヴェングラー(or フルトベングラー)である。
しかしその一方で、同じ発音をする帽子のhatはハットであり、子羊の肉のlambはラムである。
/æ/のアルファベット表記がaだとア、äだとエという日本語表記の慣用があるのだろうか。
であれば、それに従ってピスヘンドとすべきなのだろう。
また、語尾の[d]であるが、これはエストニア語では無声化する。
語尾の[d][t]は無声音であっても「ト」と表記するのが外来語表記の慣用である。

そういうわけで、ご指摘の通り、ピスヘントとするのが日本語表記の慣例に則った最良のものであろうと思う次第である。

さて、そのピスヘントであるが、表記はともかく、日本語版ウィキでは次のように説明されている(抜粋)。

ピスハンド (Pisuhänd) とは主にエストニア(バルト地方)の民話に登場する小さなドラゴンである。トゥリヘンドともいう[1]。ドイツでは[要出典]プークと呼ばれる[1]

ピスハンドは蛇の体に4本の脚が付いた、非常に小さなドラゴンである[1]。翼もついていてドラゴンに近い描写もある。これへの信仰が元で、蛇が家を守る動物として広く崇められている。これを家蛇信仰という[要出典]
ピスハンドは宝を持ってきて(場合によっては隣家から盗む場合も)くれるのでしばしば「ゴブリン」としての扱いもなされる。この場合、ゴブリンと言っても善良なホブゴブリンという種族である[要出典]

[1]と注記された部分の出典はいずれもキャロル・ローズ著、松村一男監訳『世界の怪物・神獣事典  (シリーズ・ファンタジー百科)』 (原書房、2004年)である。
この書は未見だが、[要出典]として記述の典拠を求められている部分も本書の内容を反映しているのだろうか。
「ドイツではプークと呼ばれる」という記述もローズの事典に拠ることが[1]と注記されているが、なぜ「ドイツでは」の部分を取り立てて[要出典]にしているのかが分からない。
ウィキ閲覧者はこの記述によってローズの事典まで遡及できればよいのであって、ではローズがドイツではプークと呼ばれることを何に拠って記述したのかまで、このウィキの匿名ライターの文責とすることはないと思うのだが。
もっとも、ローズの事典も読まずにウィキの記述をとやかく言っている私が言うことでもないか…。
一応、この事典でドイツのプーク(Puk)がエストニアのPisuhandやPukje, Tulihand, Puukなど同種であるということが記されているらしいことは下記のサイトから窺われる。

ただ、後半の〈家蛇信仰〉という術語は寡聞にして聞かない。
訳語なのだろうか。
日本では蛇の信仰は蛇信仰とか蛇神信仰というのが一般的だろう。
霊的な蛇を蛇神、蛇霊という。
アオダイショウは家の守り神だが、そうした信仰を家蛇信仰というのだろうか。ちょっと不勉強で聞いたことがない。
「これを家蛇信仰という」と明言しているので、これこそ出典を示してもらいたいところだ。
また「ホブゴブリンという種族である」と記しているが、これもローズの事典にあることだろうか。
1913年にヴィルデというエストニア人作家が『Pisuhänd』という小説を発表した。
英語タイトル(いつの段階でついたのか不明)が「The Hobgoblin」という。
なので、ピスヘントをホブゴブリンと捉えるのは間違った認識ではないのだろう。

ともあれ、ピスヘントは蛇の姿であったり、ゴブリン(エルフとも)であったり、恐らく地域によって異なるイメージが
与えられてきたようだ。
ただ、その根本にあるのは古くからの素朴な自然崇拝であるようで、これがキリスト教が浸透する中でこのようなかたちで残っているのだと一般的には言われている。
ちなみにリトアニアにはアイトヴァラス(Aitwaras)というドラゴンがいて、やはり住む家に富をもたらす。
ふだん家にいる時は黒猫か黒い雄鶏の姿でいるが、外に出ると飛龍になるらしい(Encyclopedia of Beasts and Monsters in Myth, Legend and Folklore)。
大きさはよく分からないが、最初から小型の龍よりは、黒猫が龍に変身するほうがいい。

最後に、上にも出てきたが、ピスヘントについて調べているうちに、プークとかプクとかいうモンスターを知った。
これで思い起こすのは、数年前、エストニアの首都タリンを訪れたとき、旧市街の土産屋で奇妙な土鈴を見つけて買って帰ったことだ(下図)。
たしか、Pukといったかと記憶する。
ちょっと正確に思い出せないので、間違ってたらご寛恕願う。
もしそうであれば、これはドラゴンではなく、ゴブリンとしてのプークである。
宝を家にもたらすゴブリンであるから、縁起が良い。
そういうことで土産物として売られているのだろう。
今度行く機会があれば、しっかりモンスターのことを調べておきたい。
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smok=龍

龍はポーランド語でスモク(smok)という。
ウィキペディアにも立項されているが(https://pl.wikipedia.org/wiki/Smok)、日本語版に変更すると、「竜」のページに飛んでしまう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C)。
そこには、もちろんスモクのことは全く触れられておらず、中国や日本の龍の総論的な記述の域を出ない。
スラヴ語族では竜を「ズメイ」などと呼び、それについては日本語版でも充実した内容になっている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%A1%E3%82%A4)。
ちょっとこの辺りの知識が必要になったので、スモクの記述のうち、総説と語源の部分を拙いながらも訳出しておく。

【龍】
――空想上のクリーチャー、巨大で飛行する爬虫類の最も一般的なタイプ。
多くの神話や伝説、さらに文学、映画、ゲームに現れる。
多くの神話に描かれる龍は、火を吐くだけでなく、豊かな知性に恵まれ、魔術を使え、言語を解した。
これに加えて、財宝を持ち、または守った。

様々な龍のような動物が多くの文化の神話の中にいた。
龍は自然の力や四大元素、とりわけ火と空気を表象した存在だ。
龍もまた多くシンボリックな役割を担わされた。
幾つかの物語において、龍は人間に変身することができる。
典型的な龍は4本足を持っているが、しばしば2本足のワイヴァーンと呼ばれる龍のエンブレムに表される。

【語源】
ほとんどの欧州言語において、龍はギリシャ語drakanドラカン(鋭い眼)に由来する。
例えば英語「dragonドラゴン」、ブルガリア語「drakonドラコン」、ドイツ語「Dracheドラヘ」、チェコ語「drakドラク」。

ヴィエスワフ・ボリスは『ポーランド語語源辞典』(2005年)において「smokスモク」というのは汎スラヴ語であるという。すなわち、チェコ語「zmokズモク」、スロヴァキア語「zmok/zmakズモク/ズマク」、古代教会スラヴ語「smokъスモカ」など。
原スラヴ語「スモカ」は飛行する爬虫類の形態、もしくは人間の姿をとる神話的なクリーチャーだ。
もし「龍(スモク)」という語が原スラヴ語「sъmъkъサマカ」に由来するものであれば、スリップする、行く、上にあがる、どこかに着く、敏捷にどこかへ速くこっそり飛び越える、滑るといった動詞と組み合わせることができる。

疲れたので、ここまで…。
誤訳があればご容赦。

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