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先日、実家に戻つたときのこと。
雑談のついでに、母が「こんなものがある」と言つて食器棚の奥からガラス製のアイスクリームカップを1つ取り出してきました。 中々古いものなので大変驚いてゐると、残りもすべて出しきてくれました。 全部で10個。 随分くすんで透明感がありませんでしたが、試しに洗つてみると、みるみる綺麗になりました。 私の母方の祖父は、戦前から戦争末期に疎開するまで、三木屋といふ和菓子屋を営んでをりました。
板橋本町1丁目12番地にありました。 近くには近藤勇を処刑した刑場や縁切り榎といふのがあつたとのこと。 これは今でも名所になつてゐるやうですね。 三木屋の本店は今でも下赤塚にあるさうですが、のれん分けをして独立したのださうです。
で、店を開くにあたつて食器を揃へなくてはならないわけですが、新品では費用がかさむので、上野のかつぱ橋の古道具屋で買ひ集めたものの一部が、今に残るカップだといふことでした。 さて、これらのカップは製作時期が不明です。
一つ手掛かりになるのが、『Theあんてぃーく』vol.13「特集 明治のファッション」(平成4年8月・読売新聞社)といふ大判の雑誌です。 これに「明治のガラス雑器に魅かれて 柳川幸三さんのコレクション」といふ記事が載つてゐます。 この中で写真紹介されてゐるカップの中に下のものがありました。
これと同じものが実家にもあります。 さういふわけで、これは明治期の作ではないかと思つたのですが、本文をよくよく読むと、「こうしたガラス器は明治、大正のほんの一時期につくられたもので、ガラス職人がひとつひとつ手作りしたものである」とありました。 結局、目下のところ、明治なのか大正なのか不詳といはねばなりません。 とはいへ、明治大正期のアイスクリームコップが5種10点出てきたのは僥倖です。
このほか、和菓子作りに使つた竹べらも出てきました。
これまた戦前のものです。 |
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このところ買いためた古書の整理を兼ねて、めぼしいものを幾つか紹介します。
■『アララギ』昭和28年10月号「斎藤茂吉追悼号」
※釈迢空(折口信夫)の追悼文が収録されてゐるので入手。
迢空はこの年の9月3日に他界しました。
10月1日発行という表示が正確ならば、当人は本誌を手にすることができなかつたでせう。
編集後記には次のやうに記されてゐます。
「本号執筆者の一人である、旧アララギ同人釈迢空(折口信夫)氏は、九月三日病歿せられた。深く哀悼申上げる次第である。追悼録二に収めた一篇は、七月末病を押して執筆せられたものである。」
他にも錚々たる人々が寄稿してゐます。 横山重の文もあるかと期待しましたが、ありませんでした。 でも岡田真(ただし)の文があつたのは収穫です。 この人は歌人といふよりは蔵書家として著名で、奈良漬も何冊かこの人の印記の捺してある本を持つてゐます。 同じくアララギ歌人の岡麓が岡田に献本したものとか、古典籍とか数点。 なほ、歌集も出してをり、拙蔵本には署名が入つてゐます。 で、その追悼文を読んでみると、大阪の鹿田松雲堂に案内した時の思ひ出が綴られてゐます。 そこで正保版『祖庭事苑』を買つたが、茂吉に譲つたのだといひます。 どこまでも本から離れられない人のやうですねw 結局、後日、自分用に正保版よりも善い古活字版を手に入れたといひます。 きつと蔵書印を捺したはづだから、この人の印記をもつ古活字版は探せば出てくるものと信じます。 他の著名な執筆者…小宮豊隆・新村出・山田孝雄・平宗敦夫・宇野浩二・木村荘八・鈴木信太郎・川田順・斎藤昌三・水原秋桜子・山口誓子・なかのしげはる・幸田文・小堀杏奴・河野多麻・西尾実・土屋文明など。
『アララギ』は、このほか昭和17年11月号も入手しました。
これには釈迢空が「白桃以前」という論考を寄せてゐます。 奈良漬の折口信夫コレクションがまた増えましたw ■『はまぐり姫 付、くらげのおつかい(講談社の絵本)』昭和27年 文・千葉省三、絵・村上三千穂
※蛤女房をどう造形してゐるのか気になつて入手しました。
表紙では蛤の付いた冠をかぶつてゐますが、他では完全な人間の姿で描かれてゐます。 付録として後半1/3くらゐを割いて掲載されてゐる『くらげのおつかい』は海月骨無しの話。 こちらはクラゲの姿そのままを擬人化してゐます。 ただし目鼻は傘に付いてゐます。 他の魚介類は頭にモチーフとなる魚介類を冠してゐるタイプ(頭部着装型)とフルフェイスのマスクのやうに描かれてゐるタイプ(頭部異類型)とがあります。 ■『〈万民有益〉諸芸独稽古』明治19年
礼式・茶の湯・活花・書道・漢詩・和歌・俳諧・狂歌・雑俳・絵画・盤上遊戯・音曲・唱歌・諸々の遊戯・算術などの心得や作法を説いてゐます。 いろいろ面白い記述があるので、またの機会に紹介するつもりです。 ■『唱歌集』明治40年写 亡き孫を幼稚園に連れていつてゐた老婆が、遊戯唱歌の際に聞書したものをまとめたもの。 珍しい資料なので、これまた別の機会に紹介予定。 ■『八幡古表神社の傀儡子(吉富町文化財調査報告書第2集)』吉富町教育委員会、平成元年 福岡県築上郡吉富町に鎮座する八幡古表神社(はちまん・こへう・じんじや)に伝わる芸能の報告書。
傀儡子舞(くぐつまひ)と神相撲について報告してゐます。 後半、傀儡子の写真を掲載。 さて、驚いたことに、神相撲とは、その名の通り、神々の相撲の人形劇だといふことです。 神社での相撲といふと、奉納相撲と決まつてゐると思ひましたが、当社の神相撲は神々(の人形)を東西に分けて、勝ち抜き相撲を興行するのです。 奉納相撲の精神は、神の御覧に入れて、楽しんでいただくことにあるわけで、そこから転じて観衆も楽しむやうになつたと見られます。 ところが本相撲はどうでせう。 次第としては、まづ行司役の神が当社の主祭神たる神功皇后の像を拝します。 ついで相撲が行はれます。 終了後は皇后を筆頭として神殿に帰還します。 恐らく主祭神を慰撫するために神々が相撲を興行するのが本義だつたのではないかと思はれます。 その意味では神話世界を相撲といふかたちで現出させてゐるわけです。 依代となつた傀儡を通して神々が相撲をとつてゐるのだと思ふと、何とも不思議な感じを受けます。 神楽と傀儡遊びが融合した中世芸能の名残でせうか。 非常に惹かれます。 4年に一度行はれるさうだから、次回は平成28年のやうです。 今度は拝見したいものです。 なほ、当社については下記サイトを御覧ください。 http://kohyoujinjya.jimdo.com/ |
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前回の記事で紹介した鳥取県師範学校1年生の秋本義道君は、父の伝記も書いてゐます。
大正4年(1915)3月5日のこと。 幕末に生まれ、勉学に励み、また家業を手伝ひ、その住む村で一定の地位を得、自分の社会的役割を果たすべく尽力する姿が記されてゐます。 当時のごくささやかな村人の人生のやうに思ひます。 また、さうした父の姿を誇らしく思ふ義道少年の心意も読みとれて、好感が持てます。 略伝をまとめておきます。
【秋本万蔵】
文久3年(1863)〈数え年1歳〉鳥取藩士山田家に生まれる。 元治元年(1864)〈2歳〉秋本家の養子に入る。 明治2年(1869)〈7歳〉小学校に入学。 明治12年(1879)〈17歳〉半年間、雲山小学校(現・鳥取市雲山の面影小学校の前身の1つ)の代用教師となる。 この間、秋本家は農業のかたわら、酒の小売業を始める。 明治13年(1880)〈18歳〉養父伝四郎死去。 明治18年(1885)〈23歳〉結婚。酒の小売に代えて蒟蒻製造を副業とする。 明治25年(1892)〈30歳〉一男誕生。 明治35年(1902)〈40歳〉四男誕生。 大正3年(1914)〈52歳〉この年か、雲山村総代に推薦される。 大正4年(1915)〈53歳〉大掛樋(大路川)の工事の監督役兼務。 以下、原文を掲げます。
凡例は前回の記事に同じです。なほ、読点が著しく少ないので、やや多めに加へました。
「父の傳記」
父は姓名を秋本萬蔵と云ひ、文久三年に生れ現在五十三才である。僅か二才の時、鳥取舊藩士山田氏より秋本家の養子となり、厳格な養父傳四郎に養育せられる事と成つた。七才の時、最寄の小学校に入学し、稲村、安藤両先生に就て修身、國語、算術等を主として授かつた。 十才及び十四才の時、附近の小学校児童を大路学校に集められ、国語、算術の試験が有つた。然して萬蔵は特に算術及び書き方に秀でてゐたから、其の試験に於て一等の好成績を占めたと云ふ。又讀書力に富み、時間場所の如何を問はないで、竈の火や神佛の燈明等に向ひ、此に耽り、時々母に叱られたと云ふ。 十七才の春、雲山小学校の代用教師として月俸五拾銭を以て奉職し、此の報酬を有益な書物の資とした。此の間は僅々半年に過ぎなかつたが、今尚同年輩の人より先生と尊称せられて居る。然して軍人に志が有つたが、當時の制度として長男は志願することを得なかつたから、此の志も水泡に帰した。 其後、父母は農業の傍、酒の小賣業を営み、萬蔵も此に従つて、程近い造酒屋(ツクリザカヤ)より酒を賣つて来て、風の日も雨の日も厭はず賣り歩くを己の本領として甘んじて居た。 或る冬の朝のこと、寒風吹き荒びて道路は凍つた。萬蔵は例の如く重荷を荷ひ、杖を立てゝ坂路を登つて居たが、中途辷り倒れた途端、五升樽、谷間にころがり殆んど失敗した。 又或時、豪雨、盆を傾ける程も降つた。會々行商し残つた一斗程の酒を商ふには川を隔てた向の村に渡らなければならないので、先づ此の由を神に告げて、此の行を全うする事を祈り、倉皇渡るか否かに木橋は凄まじい事をたてゝ、ふわりふわりと流れ出した。斯く危険を冒し、無事、酒を賣ることを得たと。 十八才の時、養父に死に別れ、其後は一人の老母と共に少量の金を資本として家業に勵んだ。 二十三才の冬、妻を娶り、且耕作の歩数を増し、以前の副業に代へるに蒟蒻製造を開業し、親子三人協力一致して黽勉し、此の商業の利益や収穫物の賣上金の幾分割いて貯蓄し、田地も相當買ひ求め、段々家族が増えて来たので、三十一才の時、家屋を新築し、續いて翌年一棟の土蔵を建設し、斯くの如き複雑な生活中家産を興した。 現今は二十四才の嫡男を頭として、十四才の末子を合せて四人を真の愛情を以て訓育し、それぞれ相等の学校教育を受けしめ、富と云ひ、身分と云ひ、一村で恥ぢない地位を占める様に至つた。蓋し家族和合し勤倹産を治めた所以の致す所であらう。 先年、雲山村総代に推薦せられた。偶々當年は昨年の大洪水に破損した大掛樋の工事があつて、此の監督役さへ兼務した。そして或事から上村と下村との間に軋轢を生じ、三ヶ月の豫定工事も一年に亘つた。其の折、両村の間に立ちて種々の難局に處し、東奔西走して席の温る暇なく、数十回の協議に頭を悩ました結果、一千円余の工事は落成した。最初の程は工事の歩を進めないのを責め、且不平を漏らした人々も、此に至つては宛ら神の如く尊敬する様になつた。これ、献身的態度に出たからである。又甚だ神佛に信仰心深く、身、世人に對して諄朴叮嚀に接しために、世人の敬慕する所となつた。終り。 |
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■ここに大正4年(1915)の作文ノートがあります。
鳥取県師範学校1年生の秋本義道君が口語文体の常体(デアル調)といふ条件で、5月28日に書いたものです。 教師が添削して朱が訂正されてゐる箇所が散見されます。 この中に「矢野動物園」と題する一文があります。 評価は甲。
気になる内容なので、全文紹介したいと思ひます。
なほ、読みやすくするために、訂正箇所は訂正後の表現を採り、適宜段落を改め、明らかな誤字も改め、濁点や文末の句点を補ひました(原文に付けてある文とない文とがあります)。
「矢野動物園」
去る廿四日本校生徒は諸先生に引率されて矢野動物園に動物を見に行つた。園の位置は四通八達して居る菊橋向の繁華な所を前にした草地に設けられて居た。以前来た時の当園よりは甚だ規模が大きくなつてゐる感があつた。観覧者は絡繹して押し合ふ程でその中には中小学校生徒も多く行てゐた(*「来てゐた」の誤りか)。 先づ入口に嬉戯してゐる猿は観る子供を相手の様にして遊んでゐた。 次に目についたのは印度産の大虎で年令は四才にて体重は四十八貫と説明した。体構へは猫に良く似てゐるが一度怒れば人をして凛乎とさせる程鋭き聲を出し頸毛を一本立てとし鋭利なる歯をむき出す。 之に隣り居る獅子は獨乙領東部アフリカの産にて年令六才、体重五十六貫と云つて居た。「能ある鷹は爪隠す」と云つてゐる様に人が竹にて觸れても泰然自若としてゐたが一度食糧の肉を之に見せた所が獰猛な聲で呼んだ途端我等を始め附近の諸動物もおののき顫つた。 日本産の狼は深く裂けた恐しい口を開けしきりに出處をあさるかの様で絶えず動いてゐた。 猩々は黒毛褐色の毛を以て被つて居た。丈は二尺に足らない位であつたが年令は九十才に達してゐると聞いては驚いた。然して此の一生は百五十才位だから之は未だ壮年時代である。 之に竝んで熊、山猫等が居たが、之等は珍しき或は威がなかつたが大層人に馴れて甘藷を食べたりしてゐた。 今度は牝の大獅子で前に劣り無く威風堂々たる貌流石に百獣に王としての物凄い様を具備してゐた。 駱駝は丈高く稍馬に似てゐるが性質優しく足は蹄大きく口は兎の如く三つに裂けて全身は古綿のやうな毛以て包んでゐた。 鷲は未だ子であつたが其の勇悍なる性は既に動作に現してゐた。 途中に孔雀、駝鳥、鰐、カンガルウが竝んで居たが之は書物で見たると甚だ異つてゐなかつた。 次に丈高く大きな間を占めてゐる象は此處に繋がれ細い目を観客に注いでゐた。体は運動不充分な故が皺で畳まれて居た。然し、之の象の体重は一万余りあつて丈は一丈余、長さは二丈に余るとの事で一日の食糧三、四十貫の藁、水、其他の食物を食べて居るとの事で有つた。 概して云へば珍しき動物を直観し新知識を得ることが出来ると共に、昂然たる気象を養ふに大に効果有る事と自分は思つた。 ■この動物園に飼育されてゐる動物を整理すると、次のものが挙げられます。
サル
トラ(ベンガルトラ)
ライオン(ドイツ領東アフリカ(=タンザニア・ルワンダ・ブルンジ)産) オオカミ(日本産?) 猩々(ゴリラ) クマ ヤマネコ ラクダ
ワシ ダチョウ ワニ カンガルー 秋本君の関心外のために記されなかつたものも他にゐると思ひます。
全部でどのくらゐ飼つてゐたんでせうね。 ■ところで秋本君が学校行事として行つた動物園は矢野動物園といふ名のところでした。
一寸調べてみた限りでは、鳥取県下にそのやうな動物園があつたか確認できませんでした。 本文をよくよく読んでみますと次のやうにあります。 園の位置は四通八達して居る菊橋向の繁華な所を前にした草地に設けられて居た。
以前来た時の当園よりは甚だ規模が大きくなつてゐる感があつた。
これによると、動物園は草地に仮設されたもののやうです。
さうすると、巡回する型の動物園ではなかつたかと思はれます。 丁度これに当てはまるかなと思ふものに、矢野巡回動物園があります。 http://www2.otani.ac.jp/~tmatsu/2002bunka/0012203/chapter03.html 上記のサイトによると、明治40年(1907)にドイツから来たライオンによつて全国的な人気を獲得したとのことです。 上記見学記にも「獨乙領東部アフリカの産」の大獅子として取り上げられてゐます。 本巡回動物園の詳細な記録が残つてゐれば、はつきりとしますが、おそらく大正4年5月前後には鳥取市内で興行を続けてゐたのだらうと思はれます。 ■この中で特に気になつたのは、「日本産の狼」といふ箇所です。 ニホンオオカミはすでに絶滅して久しいものですが、とりあへずウィキペディアで確認してみますと、明治38年(1905)に奈良の山間部で捕獲されたものが最後の生息情報だとのことです。 本見学記が大正4年(1915)。 最後の記録から10年後のものですが、なほ動物園にゐたことになるわけです。 単純に記主秋本君が勘違ひしただけなのか、動物園側が虚偽情報で話題作りを狙つたのかといふ可能性もなくはありません。 しかし、素直に受け入れるならば、結構面白い記録になるわけです。 当動物園の飼育してゐた動物の履歴が残つてゐればその点判明すると思ひますが、どうでせうか。 ニホンオオカミは絶滅したといはれてからも、目撃情報は散発的に出てゐるやうです。 菱川晶子『狼の民俗学』には、昭和7年頃に和歌山県本宮町の山中での目撃談が紹介されてゐます(266ページ)。 同書によると、動物園での飼育記録として上野動物園で、明治21年当時、ニホンオオカミを飼育してゐたこと、その後、朝鮮産、満州産、シベリア産のオオカミが飼育されてゐたことが記されてゐます(275ページ)。 かうしてみると、矢野動物園で飼育されてゐたオオカミはニホンオオカミではなく、日韓併合後に渡来した朝鮮産の可能性もあるのではないかと思ひます。 ともかく、記録を探してみないと判然としませんね。 気になりますが、このへんで擱筆。 |
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■戦国期の大名衆には武士・医師・連歌師・僧侶などが咄の衆として仕へることがありました。
御伽の衆(通称「御伽衆」)の一種です。 一方、公家方では禁裏や仙洞に、これに類する役割の殿上人がゐました。 彼らは、御咄の衆なり御伽の衆なりと明記されることはありませんが、その性格からすれば、武家方の御伽衆に近いでせう。 時代は江戸初期にくだりますが、たとへば後陽成院の「御伽の衆」と明確に称される三人衆がゐました。 山科言緒(やましな・ときを)・西洞院時直(にしのとうゐん・ときなほ)・土御門泰重(つちみかど・やすしげ)です。 彼らは院や女院の中和門院のもとに参り、物語をする、草子をよむ、連歌会等に参会する、手習の補佐をするといつたことをしました。 近世初期、後陽成院が限られた近臣に求めたものは、読申や謡もあつたでせうが、それよりも談話が主であつたと思ひます。 後水尾院もまたこの近臣との関係を継承しました。 御伽に召される人々といふことで、これは「御伽の衆」と呼ばれました。 ただしこの呼称は固定的な官職名ではありません。 これについては拙著『室町時代の文芸とその展開』第1章で詳述しましたので、御関心のある方は御覧ください。 ■ともあれ、さういつた御伽衆の役割といふものは、江戸時代において、各藩において少なからず継承されていつたもののやうです。
とりわけ今興味をもつてゐるのは、尾張藩初代藩主徳川義直の時代に御伽衆として仕へた三宅長斎といふ細工頭です。 この人物については『長斎記』といふ本が伝はつています(『仮名草子集成』第49巻所収)。 詳しくは後日に取り上げたいと思ひます。 ■さて、前置きが長くなりましたが、年末、たまたま明治期の写本を手に入れました。
江竜貞吉といふ人の手帖のやうなものです。 前半は「所有宅山藪耕地明細牒」や活用語表、付属語一覧。 後半は西郷隆盛や勝海舟などのエピソード、滋賀の史跡などが書き留められてゐます。 恐らく後者は主に書物や新聞などの抜書ではないかと想像されますが、はつきりしません。 なほ筆録者である江竜貞吉といふ人は、明治前半の滋賀県の学校資料に見えます。
水哉学校で学務委員をしてゐました。 それ以外のことは未詳です。 ■この本の中に次の話も収録されてゐます(便宜、句読点・濁点・送り仮名を補ふ)。
維新の以前、彦根に久米道中と云ふ町医あり。話術に長ずるを以て御舘入医師を命ぜられ、引馬を下されしに、或る日、其の馬に騎り他出せしかば、馬、忽ち馳せ出だし、止むる能はず。途中にて不図友人に出逢ひたり。友人曰く、何処へ行かむと欲する乎と。久米、声ふるひながら答へ曰ふ、此の分にては何処へ参るとも計らひ難しと。 久米道中といふ町医者は話術に長じてゐたので城への出入りを許されました(医術を認められたわけではないのです)。 で、馬を許されたのですが、どうも乗ることができなかつたやうです。 町医者ならば仕方ないですね。 で、乗りなれない馬を走らせてゐると、自分に呼び掛ける声が聞こえました。 「何処へ行くつもりだい?」 道中は声を震わせながら答へました。 「この分では何処へ参るとも予想できません」 ―こんな話。 久米道中とは、道香ともいつて、彦根藩に仕へてをりました。
歌は香川景樹に師事し、いくらか短冊も残つてゐるやうです。 天保10年(1839)他界。享年79歳。 上のエピソードの時の藩主は井伊直中(1766-1831)か直亮(1794-1850)かではないかと思はれます。 それ以外の伝記情報はまだ知りませんが、追々調べていきたいと思ひます。 今回は「御伽衆」とも「咄の衆」とも記されてをりませんが、話術をもつて藩主に仕へる医師といふ点で、その系譜に連なる人物として、久米道中なる町医を紹介しました。
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