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「ある神道学者」などともったいぶった言い回しをしなくてもいいのですが、世間ではあまり知られていないから、神道を研究している学者の講義聞書というかたちで示すほうがが理解されやすいと思ったわけです。
その方は上田賢治先生といい、平成15年にお亡くなりになりました。
先日、たまたま古いノートを読み返していたら、この先生の講義の聞書がまじっていたのです。
で、すでにお亡くなりになった先生の講義記録になるわけで、その点、今では貴重だなと思い、そこから少し拾いだしておこうと企てた次第です。
私は古典文学畑の人間で、神道はその延長で興味を持っておりましたので、いわゆるモグリで受講しておりました(一応、許可はとりましたがw)。
講義内容は祇園牛頭天王を神道学の立場で考察する演習形式のものでしたから、専門性が高く、非常に有意義なものでした。
そういうわけで、その講義を、気の向いたときに少しずつ挙げていこうと思います。
ただし、あくまでも筆記録だから、誤記や聞き違えによる文意不通箇所があるかも知れません。ご寛恕ください。
なお、( )内は奈良漬注。
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神祇体制が崩れていく以前に式内社があった。式内社とは『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)に記載された神社のことである。全国の神社を調べさせて作った神名帳が『延喜式』にまとめられている。奉幣(ほうべい)するためにそれぞれの神社から派遣させたものに幣帛(へいはく)を与えていた。そうしたことが失われてしまっている。それで、再調査して、地方ごとに神社名を挙げている。これが今日、朝廷と関係のある古い神社リストなのだ。そこに載るものを即ち式内社という。
記紀に社名が載っていた大神神社(おおみわ・じんじゃ)など、それが最も古いが、次に『延喜式』に載っているかどうか。しかし現在の神社では確認できぬ社も多い。 羅山(=林羅山・江戸初期最大の文人学者)の『神社考』(=本朝神社考)は大変権威がある。本人自身も深い関心をもっている。仏教と対立するかたちで儒教が出てきたから、神社の側に肩入れしたとも言えなくもないが、ともかく、この人が式外(しきげ=式内社に対して『延喜式』神名帳に載らない神社を式外社という)の一つとして祇園(ぎおん=祇園社、今の八坂神社)を出している。これ以前のものは意識の全くない資料が多かったが、式外とはっきりいっているのは重要だ。式外は中央、公に知られていない神社だ。 祇園社について、その始まりは分からない。11世紀に二十二社の中に加えられた。羅山は創建を貞観11年(869)と考えている。相当古いという認識を示していて、少なくとも御霊(ごりょう)を通じて知られるようになった祇園は、貞観11年だといっているのである。 羅山がどう祇園を理解していたのか、羅山の影響は、後の祇園研究にどう関わったのか、資料としてどのくらい知られていたのか、考えてみなくてはならない。 |
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私は昔から乱読癖があって、無闇矢鱈とジャンルを問わず読んできました。
音楽もやはりそうです。 色々渉猟していくうちに、心の片隅に居場所をみつけてとどまるものが出てきます。 そうして、長い年月を経てなおとどまり、ふとしたきっかけで前面に浮かび出てくる、そういう音楽があります。 ホロヴィッツによるスカルラッティのソナタ集、グールドによるバッハのゴールドベルク変奏曲、ニノン・ヴァランによるフォーレの歌曲集がそれです。 たぶん、今後数十年経っても、かけがえのない作品として生き続けることでしょう。 ではこれまで読んできたものに、同様に死ぬまで変わらぬ価値を持ち続けるものはあるだろうかと自問してみます。
これまでは、音楽のように即答することはできませんでした。 もちろん、好きな本は何冊もあるわけですが、年月を経るうちに色褪せて関心を失うものが多く、いまいちはっきりとしませんでした。 しかしようやく墓場まで持っていくに惜しくない本が出てきました。
『伊東静雄全集』(増補改訂版、昭和41年、人文書院)です。 伊東静雄の作品については昔から岩波文庫の『伊東静雄詩集』を座右に置いて、時々開いて読んでいました。
昔から好きな詩人であったことに違いなのですが、近代詩は専門外だから、文庫本で読むくらいでいいだろうと、その程度に思っていたのですね。 でも先日ふと未読の積読本だった本全集を読みたくなったのです。 するとこれが実に面白いもので、540頁もある本ですが、二日間で一気に読んでしまいました。 いろいろと遅れている仕事があって不義理ではあり、申し訳ないと思いつつ、あまりの面白さに読み通したのです。 全集は詩だけでなく、散文(エッセイの類)、日記、書簡も収録されています。
伊東の詩は格調高く、抒情性にあふれた美しい作風です。 とりわけ昭和22年に刊行された第4詩集『反響』は素晴らしく、その中にある「夕映」(昭和21年発表)は事あるごとに想い起されるものです。 わが窓にとどく夕映は
村の十字路とそのほとりの 小さい石の祠の上に一際かがやく ゆっくりとした調子で始まるその詩は
ねがはくはこのわが行ひも
あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ 仮令それが痛みからのものであつても また悔いと実りのない憧れからの たつたひとりのものであつたにしても と、静かな情熱に満ちた調子で終わります。
こうした伊東の詩は一番相性がいいのだろうと、つくづく思ったのでした。
日記は日記で、詩とは異なり、戦前から戦後にかけての市井の様子がよく伝わる記述になっています。
細やかな記述をしているのは、どうも小説の材料とする企てがあったからのようです。 「世相の変遷を記しておくのが目的であります。これを草稿にして小説にしたいものだといふ野心もあるのです」 と書かれた書簡が残っています(昭和19年、書簡番号262)。 書簡はこれまた詩とも日記とも違う面白さがあります。
青年期から壮年期にかけての、すこし毒舌も含んだ書簡は、才気走った気持のいい文章です。 一方、戦後は闘病生活の苦しみが伝わると同時に、若い詩人を育てようという気配りも感じられ、胸に迫るものがあります。 作品、実生活、手紙を通しての人々との交流。
これまでは作品ばかり読んできましたが、人間伊東静雄もまた魅力的に思われてきて、ますます好きになりました。
この秋のちょっとした発見でした。
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伝承文学研究会という会が東京と関西で毎月1度開催されています。
もともとは東京だけでしたが、中心的な先生が関西に赴任されてから、東西二箇所の月例会と、夏に合同の大会が行われるようになりました。 私はこの会に大学院後期課程から参加しており、それから随分経ちました。 大抵の月例会には出席し、いろいろ勉強させてもらっております。 その会が先週の土曜日に第400回を迎えました。 記念の会ということで、いつもの研究発表ではなく、下記のテーマで座談会が催されました。 「領域の深化と多様性―テキスト・資料の発掘、文化としてのアプローチ―」 伊藤慎吾「中近世の公家社会と伝承文学、その他」
恋田知子「物語草子とその周辺」 藤巻和宏「文学研究の対象と枠組み―寺社縁起研究を起点として―」 研究発表でもシンポジウムでもないということなので、肩肘の張らない内容になりました。
三人それぞれ強い関心をもって取り組んできた対象と研究の展望について話をしました。 まず「中近世の公家社会と伝承文学、その他」は公家社会において伝承文学とは何なのかということ。
これを場の問題として捉え、故実口伝の実態について菅原家を中心に研究してきたこと、今後のことを述べました。 基本的には伊藤著『室町戦国期の公家社会と文事』で言及したことを整理したものですが、中でも家や諸道の垣根を越えた口伝のやり取りに注目しました。 また物語読申の場についても三条西家、山科家を例に言及。 音読史の必要性を説きました。 ところで伝承文学研究において、柳田国男以来しばしば説かれる物語・語り物の伝承者としての宗教者・芸能者の問題ですが、これについても一石投じました。 『浄瑠璃物語』に関することですが、ちょっと長くなるので省略します。 要は冷泉という伝承者がいてこの物語ができたという説に対する批判です。 この他、現代文化論にいかに介入するかということについて言及。 次に「物語草子とその周辺」は物語草子研究の現在の諸問題を示し、とくに絵巻・奈良絵本の制作実態や環境について、また寺院という場の問題や宗教的言説との関わりをめぐる研究状況を紹介。
ついで恋田さん自身の関心として〈物語草子〉という概念について、お伽草子と擬古物語及び仮名草子の関係について、尼寺における文芸受容について、仮名法語について種々言及されました。
最後に「文学研究の対象と枠組み」は、藤巻さん自身の研究の軌跡と現在のテーマを述べ、寺社縁起研究の流れを概観。
そして今後の寺社縁起研究の方向性について、古代縁起・太子伝と流記資材帳、中世縁起の多様性、近世縁起―略縁起・霊場記・名所図会・通俗仏書、資料の発掘・紹介、起源論・由緒論・比較縁起論に項目を分けて解説しました。 三人に共通することといいますか、この世代はそれよりも若い世代に比べ、既成の学問的枠組みに批判的な性格が強いように思います。
戦後の国文学が細分化し、学会による棲み分けが進み、古代・中世・近世の繋がりが希薄になる中で、歴史学におけるいわゆる「社会史」の影響もあって越境の試みに積極的であるように思います。 これからどうなることか。
このまま会が存続すれば、第500回は10年後くらいに行われるでしょう。 |
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ちょっと気分が悪くなったらすみません。
あらかじめお詫び申し上げておきます。
アニメ『けいおん!』の海での合宿のエピソードの中で、秋山澪が磯でフジツボを見て恐れおののく場面があります。
またそれに追い打ちをかけるように、律が耳元で「膝の皿にフジツボがビッシリ…」という恐い話をささやきます。
フジツボの生理的な気持ち悪さについては実感できる人が多いのではないかと思います。
僕の場合はフジツボを目にして反射的に気分が悪くなることはありませんが、人によっては澪のような反応をすることもあろうかと思います。
似た経験として思い出すことがあります。
昔、根の深い雑草を引き抜いたら、アリの巣まで掘り起こし、大量のアリが湧き出るようにうごめいているのを見たとき、同じ気分になりました。
卑近な例でいうと、一昨日、ナメコ汁を作りました。
ナメコ汁自体は好きで時々作るのですが、鍋の味噌汁に大量のナメコが浮かんでいる様は気持ちのいいものではありません。
(お椀によそって、5、6個浮かんでいる分には何でもないですが)
最も日常的で、顔をそむけるか、目をつぶるかしないと、軽い吐き気を催すものが綿棒です。
円柱形の透明プラスチックケースにびっしり詰まった綿棒を一本ずつ取りやすくするために、中央にツマミがあるものがありますね。
そのツマミを引き上げて一本抜きとるわけですが、そのとき、ツマミを中心に、山のようにたくさんの綿棒が隆起します。
その動きを見ると目がくらんでオエっと来ます。
こうした気分になるのは〈俗に〉集合体神経症というらしいですね。
この効果をねらった話は冒頭の「膝の皿のフジツボ」のような怪談の一種として散見されますし、ホラー、サスペンス、パニック映画などに趣向として取り入れたりします(大量のワームとかクモとか、米国B級作品にありますねw)。
ところで以前、会津若松の図書館に行った時、近世の怪談を集めた写本があったので読みました。
その中にこんな話がありました(読みやすく表記は改めています)。
天寧寺滝の湯へ、不思議の者、湯治しけり。
これは南山より参れる由にて、その背中に七八寸ほど破れて、その内に蛇の頭二十ばかりありけるが、湯にひたし居れば心地よけれども、湯より離るると、すぐ蛇の頭の動き出して甚だ痛み苦しむ様子ゆゑ、側なる人々、
「こは、如何なる次第にて、左様なる痛みを得給ひしや」
と尋ねければ、かの者答ふるやう、
「去る冬、饂飩を食ひ候ふ折、勝手にて胡椒の粉を取り違へ、蝮蛇(まむし)の粉を与へられし為か、それよりこの痛み出で来たるまでにて、ほかに何の覚えも、これなし」
と物語りけるとなん。
最も珍しき病ひにてぞありける。
滝の湯とは、今日天寧温泉、東山温泉と称される場所で、古くから知られた会津若松の温泉地です。
そこに療養にきた男の背から約20匹の蛇の頭が出ていました。
その男の話では、常は痛み、湯につかっているうちは治まるのだということです。
この奇病の原因は、昨年の冬、うどんに胡椒をかけるべきところ、間違えてマムシの粉をかけて食べたからだそうです。
さて、この話には「奇病」という題が付いています。
背中に蛇が顔を出すという奇病。
人面瘡の一種といえるでしょう。
しかしこの話の気持ち悪さは、やはり20もの蛇の頭が背中で蠢いている点にあるかと思います。
集合体神経症の恐怖をねらった怪談の一種と評せましょうか。
人面瘡のように1つだけ顔を出すのなら、現実味のない怪談だと笑って読み流せますが、20も蠢いていると、現実味はなくても想像するだけで気持ち悪くなります。
どんなに文章が下手でも、読み手・聴き手を恐怖せしむるものですから、ある意味怪談の趣向としては卑怯ですなw
※なお、一言断っておきますが、マムシの粉自体は滋養強壮の薬として古来広く使われてきました。
食してまったく害のあるものではありません。
今でも病み上がりなど体力回復・体質改善が必要なときに、効果があるものとして使用されます。
誤解なきようにご注意を。
参照「まむし粉末」
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『徒然草』に5月5日の賀茂の競馬(くらべうま)のエピソードがあります。
兼好法師が競馬の見物に行きました。
沢山の人で混み合っていて競馬の様子が分かりません。 どこかにいい場所がないものかと探してみたところ、向かいの樗(おうち)の木に法師が一人登って木の股に座って見ています。
しかし、眠気におそわれたようで、次第に舟を漕ぎだしました。 落ちそうになると目が覚め、またウトウトしだすと元に戻るという始末。 はたから見る人たちの中には、ハラハラする人もいるし、バカだなあと思う人もいます。 「なんとたわけた者よ。あんな危ない枝の上で安心しきって眠っているわい」 そんな言葉を耳にして、兼好は反射的に思ったことを口にしました。 「自分たちに死が訪れるのが今この瞬間かも知れないのに、それを忘れて見物などにうつつを抜かす。そのほうがよっぽど愚かしいことじゃないか」 これを聴いた見物の人たちは、その通りと感心したようで、後に立っていた兼好を迎え入れたのでした。 さて、この法師が登っていた樗ですが、今、特定できるのでしょうか。
それはまあ、『徒然草』に正確に記録したわけではないから見付けようがありません。 しかし詮索好きの人はいつの時代にもいるもので、いつしか誰かが
「あれが競馬見物の法師が居眠りしていた樗だ」 などと言い出し、周囲も次第にそう思うようになり、結果、一本の樗に伝説の木となったようです。 これについて、伊勢の神宮文庫というところに、江戸時代の上賀茂神社の社家が著したと思われる写本が残っております。
それを読むと、次のようなエピソードが記されています(表記は読みやすく改めています)。
乳母木(うばき)と申すは二の鳥居の前、御所の屋の辺りにある大木をいへり。
榎なり。 その前に樗の木あり。 かの大木、この木をいだくに似たるゆへに乳母木と名付けたり。 かの榎の囲み二丈ばかり有りしが、樹の根朽ちて延宝年中に倒れけり。 今の木はその跡のしるしなり。 昔くらべ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ちて見えざれば、むかひなる樗の木に法師のぼりて木の股につい居てねぶりて落ちぬべき時に、目を覚まし侍ると、『つれづれ』とやらんに書きたる木はこれなりとぞ。 上賀茂神社の二の鳥居の前に乳母木という大きな榎がありました(二の鳥居は下記境内図中央)。
それに寄り添うように立っていた樗こそ、『徒然』とやらに書いてある木なんだそうです。
江戸時代にはそういう伝承があったようですね。 しかし残念なことに延宝年中に枯れて倒れてしまったようです。 記事は恐らく榎が倒れたのだといいたいのでしょうけど、樗のその後について言及していないので、これもまた運命を共にしたのかも知れません。 昔ノートに書き留めておいたものを読み返して面白いと思ったので、時期外れの記事ですが紹介しておきます。
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