|
前回の記事で取り上げた五条為学(ためざね)について補足します。
父為親が他界したのは為学が数え年で9歳、文明13年(1481)5月9日でした。
為親はそのとき少納言。
享年36歳でした。
それに先立つ4月23日、為学は内裏に初出仕しています。
おそらく病床にある父の代理であったのでしょう。
元服は長享元年(1487)11月21日、15歳のときでした。
為学元服の記事は内裏女房による記録『御湯殿の上の日記』のほか、甘露寺親長、近衛政家らの日記にも見え、他家にとって多少なりとも注目するところであったようです。
その二年後、禁裏での月次(つきなみ)御連歌の執筆(しゅひつ=記録係)をした為学について、親長は次のように評しています。
菅原為学執筆、年少之者、神妙々々。
為学は年少ながら執筆の役をよく勤め、神妙であるというのです。
執筆の役は複雑な連歌のルールを把握し、且つ文字遣いの正誤をその場で判断しなくてはならないから、それ相応の教養を積んでいないとむつかしい役です。
17歳でこれをしっかり勤めている様子をみて、故実に通じた親長は感心したのでしょう。
実は為学はまだ元服する前の13歳のとき、すでに禁裏での月次の和漢聯句(わかんれんぐ)の御会で執筆を勤めたことがありました。
和漢聯句とは和歌と漢詩の短句を連ねていく文芸で、漢詩作りの能力も必要とされるものです。
このときの様子を、まだ若き天才三条西実隆(さんじょうにし・さねたか)は「感嘆に堪えうる者なり」と驚いています。
このように、為学は若くして菅原家の次世代を担う人材として、あるいは文章道の担い手として将来を嘱望されていたと思われます。
|