|
■戦国期の大名衆には武士・医師・連歌師・僧侶などが咄の衆として仕へることがありました。
御伽の衆(通称「御伽衆」)の一種です。 一方、公家方では禁裏や仙洞に、これに類する役割の殿上人がゐました。 彼らは、御咄の衆なり御伽の衆なりと明記されることはありませんが、その性格からすれば、武家方の御伽衆に近いでせう。 時代は江戸初期にくだりますが、たとへば後陽成院の「御伽の衆」と明確に称される三人衆がゐました。 山科言緒(やましな・ときを)・西洞院時直(にしのとうゐん・ときなほ)・土御門泰重(つちみかど・やすしげ)です。 彼らは院や女院の中和門院のもとに参り、物語をする、草子をよむ、連歌会等に参会する、手習の補佐をするといつたことをしました。 近世初期、後陽成院が限られた近臣に求めたものは、読申や謡もあつたでせうが、それよりも談話が主であつたと思ひます。 後水尾院もまたこの近臣との関係を継承しました。 御伽に召される人々といふことで、これは「御伽の衆」と呼ばれました。 ただしこの呼称は固定的な官職名ではありません。 これについては拙著『室町時代の文芸とその展開』第1章で詳述しましたので、御関心のある方は御覧ください。 ■ともあれ、さういつた御伽衆の役割といふものは、江戸時代において、各藩において少なからず継承されていつたもののやうです。
とりわけ今興味をもつてゐるのは、尾張藩初代藩主徳川義直の時代に御伽衆として仕へた三宅長斎といふ細工頭です。 この人物については『長斎記』といふ本が伝はつています(『仮名草子集成』第49巻所収)。 詳しくは後日に取り上げたいと思ひます。 ■さて、前置きが長くなりましたが、年末、たまたま明治期の写本を手に入れました。
江竜貞吉といふ人の手帖のやうなものです。 前半は「所有宅山藪耕地明細牒」や活用語表、付属語一覧。 後半は西郷隆盛や勝海舟などのエピソード、滋賀の史跡などが書き留められてゐます。 恐らく後者は主に書物や新聞などの抜書ではないかと想像されますが、はつきりしません。 なほ筆録者である江竜貞吉といふ人は、明治前半の滋賀県の学校資料に見えます。
水哉学校で学務委員をしてゐました。 それ以外のことは未詳です。 ■この本の中に次の話も収録されてゐます(便宜、句読点・濁点・送り仮名を補ふ)。
維新の以前、彦根に久米道中と云ふ町医あり。話術に長ずるを以て御舘入医師を命ぜられ、引馬を下されしに、或る日、其の馬に騎り他出せしかば、馬、忽ち馳せ出だし、止むる能はず。途中にて不図友人に出逢ひたり。友人曰く、何処へ行かむと欲する乎と。久米、声ふるひながら答へ曰ふ、此の分にては何処へ参るとも計らひ難しと。 久米道中といふ町医者は話術に長じてゐたので城への出入りを許されました(医術を認められたわけではないのです)。 で、馬を許されたのですが、どうも乗ることができなかつたやうです。 町医者ならば仕方ないですね。 で、乗りなれない馬を走らせてゐると、自分に呼び掛ける声が聞こえました。 「何処へ行くつもりだい?」 道中は声を震わせながら答へました。 「この分では何処へ参るとも予想できません」 ―こんな話。 久米道中とは、道香ともいつて、彦根藩に仕へてをりました。
歌は香川景樹に師事し、いくらか短冊も残つてゐるやうです。 天保10年(1839)他界。享年79歳。 上のエピソードの時の藩主は井伊直中(1766-1831)か直亮(1794-1850)かではないかと思はれます。 それ以外の伝記情報はまだ知りませんが、追々調べていきたいと思ひます。 今回は「御伽衆」とも「咄の衆」とも記されてをりませんが、話術をもつて藩主に仕へる医師といふ点で、その系譜に連なる人物として、久米道中なる町医を紹介しました。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2014年01月13日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



