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お久しぶりです。
一月以上放置してしまいました…。
さて、前回(と言っても一月以上なわけですが)、途中になっていた、とある神道学者の講義聞書の続きを載せます。
ますますむつかしい内容になったばかりか、筆記能力が至らず、文意不通の点が多々あります。
講義の要点をメモするよりも、話したままをノートに書きとどめようとしていた頃のものなので、早口のお話には中々付いて行けていなかったのです…。
今回は近世の牛頭天王信仰の問題点をいろいろ提示しているくだりです。
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大国主神(おおくにぬしのかみ)などは民話的なかたちで、素朴な神学とはいえるけれども、学問的な神学とはいえない。天照大神と同じくらいの、素盞烏尊(すさのおのみこと)の神学を展開する必要がある。戦前は、皇道史観に則ったもので、上から押し付けるようなものだった。で、突き放したかたちで、神学的に考察されていない。
皇学館の櫻井さん(櫻井治男氏)は、ちょっと書いているようだ。が、あまり論文を私は読んでいない。『瑞垣』に天照大神は女神かと疑問を並べ、皇祖の神であることを述べている。宣長以降を全面的に否定している。西宮さん(西宮一民氏)は、専門は国語学で古典文学だけれど、他にもはっきり言う人はいるか。神学論争のない神道研究は困る。
神話学・歴史学で素盞烏尊を論じているのは神学とはいえない。それらをちゃらちゃら引用して論文を書くのはよくない。例外的に西田長男さんや、亜流の三橋さん(三橋建氏)が書いているけれども、私にとっては神学なんかは頼まれてやるものではない。
もう一つは、日本の学問史・神道にとっても、神仏習合を本気で考えない限り、神学はできない。仏教の側からは、習合の論理はある。神道でそんなのができるのか。許す余地があるのか。歴史上、この問題を論じたことは一度もない。儒学者がちょっと言っているけれども。
牛頭天王の習合とは何なのか。まず歴史的に、いつ、どういうかたちで習合したのか。変わらない姿で継続していたのか。はたして明治で本当になくなったのか。神道の側から、神学的に筋道が立っているのか否かを検討してみる。これが課題だ。歴史上、その背景とも考え得る問題も含めて、物語関係のものを一切とり上げていないが、拾えば結構あるかも知れぬ。去年は上代から中世まで済ませたから、今年から近世の問題を扱う。
近世の問題で注意しなくてはならないのは、明治に神仏習合が排除されたときの牛頭天王を考えると、一番完結したかたちをとっている、上代〜中世の転換点の力、その信仰を辿ることは全体を捉える仕事だ。近世にあっては神社研究が、吉田(吉田神道)、おそらく室町の吉田の流れを別にして、これほどいろんな角度から神社研究がなされた時はない。質の違いや良し悪しを別に、さまざまになされた。現実の牛頭信仰を考える上で、本源を、何の史料を用いて、探ろうとしたのか。どんな信仰として、どんな姿として捉えようとしていたのか。これを明らかにしようと思う。
近世牛頭天王信仰は、素盞烏尊の神格とどうかかわっていたのか。
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異類の会(本日例会日@青山学院大学)
「『簠簋抄』と中世文学」
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先学の言葉
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「ある神道学者」などともったいぶった言い回しをしなくてもいいのですが、世間ではあまり知られていないから、神道を研究している学者の講義聞書というかたちで示すほうがが理解されやすいと思ったわけです。
その方は上田賢治先生といい、平成15年にお亡くなりになりました。
先日、たまたま古いノートを読み返していたら、この先生の講義の聞書がまじっていたのです。
で、すでにお亡くなりになった先生の講義記録になるわけで、その点、今では貴重だなと思い、そこから少し拾いだしておこうと企てた次第です。
私は古典文学畑の人間で、神道はその延長で興味を持っておりましたので、いわゆるモグリで受講しておりました(一応、許可はとりましたがw)。
講義内容は祇園牛頭天王を神道学の立場で考察する演習形式のものでしたから、専門性が高く、非常に有意義なものでした。
そういうわけで、その講義を、気の向いたときに少しずつ挙げていこうと思います。
ただし、あくまでも筆記録だから、誤記や聞き違えによる文意不通箇所があるかも知れません。ご寛恕ください。
なお、( )内は奈良漬注。
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神祇体制が崩れていく以前に式内社があった。式内社とは『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)に記載された神社のことである。全国の神社を調べさせて作った神名帳が『延喜式』にまとめられている。奉幣(ほうべい)するためにそれぞれの神社から派遣させたものに幣帛(へいはく)を与えていた。そうしたことが失われてしまっている。それで、再調査して、地方ごとに神社名を挙げている。これが今日、朝廷と関係のある古い神社リストなのだ。そこに載るものを即ち式内社という。
記紀に社名が載っていた大神神社(おおみわ・じんじゃ)など、それが最も古いが、次に『延喜式』に載っているかどうか。しかし現在の神社では確認できぬ社も多い。 羅山(=林羅山・江戸初期最大の文人学者)の『神社考』(=本朝神社考)は大変権威がある。本人自身も深い関心をもっている。仏教と対立するかたちで儒教が出てきたから、神社の側に肩入れしたとも言えなくもないが、ともかく、この人が式外(しきげ=式内社に対して『延喜式』神名帳に載らない神社を式外社という)の一つとして祇園(ぎおん=祇園社、今の八坂神社)を出している。これ以前のものは意識の全くない資料が多かったが、式外とはっきりいっているのは重要だ。式外は中央、公に知られていない神社だ。 祇園社について、その始まりは分からない。11世紀に二十二社の中に加えられた。羅山は創建を貞観11年(869)と考えている。相当古いという認識を示していて、少なくとも御霊(ごりょう)を通じて知られるようになった祇園は、貞観11年だといっているのである。 羅山がどう祇園を理解していたのか、羅山の影響は、後の祇園研究にどう関わったのか、資料としてどのくらい知られていたのか、考えてみなくてはならない。 |
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