穴あき日記〜奈良漬のブログ

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古典的奈良漬

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幕末明治の頃の流行り唄に「ひとつとせ節」というのがある。
数え歌形式のもので、唄本(一枚摺から数丁の冊子本がある)として数多く作られた。
唄本を得意とする版元には江戸東京の吉田屋小吉や吉田栄吉などがいるが、地方にも小さな店がいろいろあったらしい。

たとえば小生の住む埼玉県下では、
・騎西の小林国吉
・騎西の稲橋アキ
・和土村(現・さいたま市岩槻区)の川島奥次郎
・大里郡妻留村(熊谷市、深谷市付近?)の高田亀吉
・浦和村(現・さいたま市)の小見野弥次郎
・田面沢村(現・川越市)の深野清七郎
など全く知らない版元が出している。
たぶん、卸売りなどをするかたわらで、唄本のような小冊子類を時々作っては頒布していたのではないかと想像する。
明治の本は版元の住所がしっかり記されてあるから、時間を作って現地に行き、あわよくば墓を探し出したい。

ちなみに、新潟に岡田信松という版元がいて、明治20年頃に集中的に10冊ほど唄本を出している。
新潟県中蒲原郡白根町というから、今の新潟市南区である。
僕の手元には「なすとかぼちやしんじよくどき(茄子と南瓜 心中口説) 上」という6丁から成る唄本がある。
これは他に伝本を聞かない珍本である。
内容はその名の通り、擬人化された茄子と南瓜の心中を歌ったもの。
巻末に「ほうねんまんさく(豊年満作)」と題した歌も収録されている。
新潟には、この他にも盛んに唄本を出していた版元が2、3ある。
瞽女唄といい、流行り唄といい、幕末明治期の越後の文化は面白い。

それはそうと、倉田隆延編『一ツトセぶし』(古典文庫)に「しんぱん女とうぞく三ヶ月お六」(明治27年)という面白い摺り物が収録されている。
刊記に福島県の上遠野(現・いわき市)の鈴木みの「著作兼発行」とあるから、この人が出版だけでなく、作詞もしたようだ。
原文は読みづらいので、適宜漢字を宛て、句読点を付けて載せておく(自分用)。

一ツトセ
広い御国(みくに)に名も高き、三ヶ月お六の物語、お話聞いても恐ろしいや。
二ツトセ
生れ故郷は仙台の北鍛冶町(まち)のま、おきつさん、五歳連れ子のお六さん、
三ツトセ
見れば優しき玉椿、小野小町か照手姫、年は十七、つぼみ花、
四ツトセ
世にも稀なるお六さん、母ときんじと三人で、父親、おきつを絞め殺し、
五ツトセ
いつまでこうしていられない。生まれし故郷をあとに見て、二本松さして急ぎ行く。
六ツトセ
無残や、母親おとしこそ、馴染みのきんじと娘にて、二人で母親刺し殺し、
七ツトセ
長くもいられぬ二本松、金の工面を一番と、質屋かんべい、忍び込み、
八ツトセ
やたらに家内を縛り付け、三千余りの金を取り、大阪さして急ぎ行く。
九ツトセ
ここは大阪北新地、今はおさととと名を変えて、林楼(はやしろう)にて芸者する。
十トセ
東京(とうきょ)麻布の華族さん、お六はお客の目を忍び、金革(きんかわ)時計を盗み取り、
十一トセ
今は大阪、立ち退いて、群馬、茨城、栃木県、三重、埼玉、滋賀県と、
十二トセ
二百九十と、九度(ここのたび)、二万と六千九百円(いん)、一年余りに盗み取り、
十三トセ
三界二界はごかいろで、吉原に名高き大文字屋(だいもんじや)白菊女郎(じょろ)と偽りて、
十四トセ
暫く勤めをしる(=する)うちに、馴染みのきんじを刺し殺し、殺した証拠は桜木と、
十五トセ
ここに川口大探偵(だいたんて)、合点の行かぬは白菊と、厳しく探偵致される。
十六トセ
ろくに知れないそのうちに、すぐにこの屋を逃げ出だし、横浜おもてに参られて、
十七トセ
しかし悪事は恐ろしや。外国生まれの大泥棒(おおどろぼ)、お六はその屋い(=へ)忍び込み、
十八トセ
早く鉄砲盗み取り、その屋、頭(かしら)を撃ち殺し、この場でお六は頭する。
十九トセ
国の難儀を思わずに、ここでも八十と四ヶ所で、金高(きんだか)一万二百円(いん)、
二十トセ
日本に稀ない(=なる)大泥棒(おおどろぼ)、人をかどをて外国い(=へ)売りてやるのが漏れ聞こえ、
二十一トセ
今は探偵六人で、上(かみ)の御用と声(こい)を掛け、お六はこの屋を逃げ出だし、
二十二トセ
日々(にちにち)悪事は篤くなる。二十と六年一月(いちげつ)の二十七日、その晩に、
二十三トセ
三更四更の夜中過ぎ、ここは大井の浜辺にて、またも三人斬り殺し、
二十四トセ
暫く東京(ときよ)で身を隠し、ここは東京(とうきょう)小網町(ちょ)で、かきがわ方にて匿いて、
二十五トセ
ここに名高き大探偵(だいたんて)川口さんの計らいで、かきがわ方にて召し取られ、
二十六トセ
牢屋へ入れられ、お六こそ、今は裁判まわされて、厳しくお調べ致されて、
二十七トセ
子細は一々白状(はくじょ)する。名高き大井の弁護でも、とても敵わぬこの度は、
二十八トセ
早く裁判きわまれば、処分は死刑の言い渡し。年は二十一、盛り花、
二十九トセ
苦労するのも心から、死刑は機械の梯子にて、昇りし間もなく首挟む。
三十トセ
三十二人を手にかけた、末代悪事の名を残す。皆さん、これ見て気を付けな。


戦前の殺人鬼としては、八つ墓村のモデルになった津山事件の都井睦雄が著名だが、このお六は残念ながらほとんど知られていない。
歌の終わりに「末代悪事の名を残す」とあるが、ウィキペディアに立項されるほど名は残らなかったのである。
しかし、大正7年(1918)に「三日月お六」という映画が製作されているから、当時はそれなりに話題になったようだ。
フィルムが残っていたら観てみたいものだ。

※実に久しぶりにブログを更新しました。今後も気が向いた時に書き綴ることがあると思います。どうぞよろしく。
先日、実家に戻つたときのこと。
雑談のついでに、母が「こんなものがある」と言つて食器棚の奥からガラス製のアイスクリームカップを1つ取り出してきました。
中々古いものなので大変驚いてゐると、残りもすべて出しきてくれました。
全部で10個。
随分くすんで透明感がありませんでしたが、試しに洗つてみると、みるみる綺麗になりました。
 
イメージ 1
 
私の母方の祖父は、戦前から戦争末期に疎開するまで、三木屋といふ和菓子屋を営んでをりました。
板橋本町1丁目12番地にありました。
近くには近藤勇を処刑した刑場や縁切り榎といふのがあつたとのこと。
これは今でも名所になつてゐるやうですね。
三木屋の本店は今でも下赤塚にあるさうですが、のれん分けをして独立したのださうです。
で、店を開くにあたつて食器を揃へなくてはならないわけですが、新品では費用がかさむので、上野のかつぱ橋の古道具屋で買ひ集めたものの一部が、今に残るカップだといふことでした。
 
さて、これらのカップは製作時期が不明です。
一つ手掛かりになるのが、『Theあんてぃーく』vol.13「特集 明治のファッション」(平成4年8月・読売新聞社)といふ大判の雑誌です。
これに「明治のガラス雑器に魅かれて 柳川幸三さんのコレクション」といふ記事が載つてゐます。
この中で写真紹介されてゐるカップの中に下のものがありました。
イメージ 2

これと同じものが実家にもあります。

 
イメージ 3

さういふわけで、これは明治期の作ではないかと思つたのですが、本文をよくよく読むと、「こうしたガラス器は明治、大正のほんの一時期につくられたもので、ガラス職人がひとつひとつ手作りしたものである」とありました。
結局、目下のところ、明治なのか大正なのか不詳といはねばなりません。
とはいへ、明治大正期のアイスクリームコップが5種10点出てきたのは僥倖です。
 
このほか、和菓子作りに使つた竹べらも出てきました。
これまた戦前のものです。
 
イメージ 4
前回の記事で紹介した鳥取県師範学校1年生の秋本義道君は、父の伝記も書いてゐます。
大正4年(1915)3月5日のこと。
幕末に生まれ、勉学に励み、また家業を手伝ひ、その住む村で一定の地位を得、自分の社会的役割を果たすべく尽力する姿が記されてゐます。
当時のごくささやかな村人の人生のやうに思ひます。
また、さうした父の姿を誇らしく思ふ義道少年の心意も読みとれて、好感が持てます。
 
略伝をまとめておきます。
 
【秋本万蔵】
文久3年(1863)〈数え年1歳〉鳥取藩士山田家に生まれる。
元治元年(1864)〈2歳〉秋本家の養子に入る。
明治2年(1869)〈7歳〉小学校に入学。
明治12年(1879)〈17歳〉半年間、雲山小学校(現・鳥取市雲山の面影小学校の前身の1つ)の代用教師となる。
この間、秋本家は農業のかたわら、酒の小売業を始める。
明治13年(1880)〈18歳〉養父伝四郎死去。
明治18年(1885)〈23歳〉結婚。酒の小売に代えて蒟蒻製造を副業とする。
明治25年(1892)〈30歳〉一男誕生。
明治35年(1902)〈40歳〉四男誕生。
大正3年(1914)〈52歳〉この年か、雲山村総代に推薦される。
大正4年(1915)〈53歳〉大掛樋(大路川)の工事の監督役兼務。
 
以下、原文を掲げます。
凡例は前回の記事に同じです。なほ、読点が著しく少ないので、やや多めに加へました。
 
「父の傳記」
父は姓名を秋本萬蔵と云ひ、文久三年に生れ現在五十三才である。僅か二才の時、鳥取舊藩士山田氏より秋本家の養子となり、厳格な養父傳四郎に養育せられる事と成つた。七才の時、最寄の小学校に入学し、稲村、安藤両先生に就て修身、國語、算術等を主として授かつた。
十才及び十四才の時、附近の小学校児童を大路学校に集められ、国語、算術の試験が有つた。然して萬蔵は特に算術及び書き方に秀でてゐたから、其の試験に於て一等の好成績を占めたと云ふ。又讀書力に富み、時間場所の如何を問はないで、竈の火や神佛の燈明等に向ひ、此に耽り、時々母に叱られたと云ふ。
十七才の春、雲山小学校の代用教師として月俸五拾銭を以て奉職し、此の報酬を有益な書物の資とした。此の間は僅々半年に過ぎなかつたが、今尚同年輩の人より先生と尊称せられて居る。然して軍人に志が有つたが、當時の制度として長男は志願することを得なかつたから、此の志も水泡に帰した。
其後、父母は農業の傍、酒の小賣業を営み、萬蔵も此に従つて、程近い造酒屋(ツクリザカヤ)より酒を賣つて来て、風の日も雨の日も厭はず賣り歩くを己の本領として甘んじて居た。
或る冬の朝のこと、寒風吹き荒びて道路は凍つた。萬蔵は例の如く重荷を荷ひ、杖を立てゝ坂路を登つて居たが、中途辷り倒れた途端、五升樽、谷間にころがり殆んど失敗した。
又或時、豪雨、盆を傾ける程も降つた。會々行商し残つた一斗程の酒を商ふには川を隔てた向の村に渡らなければならないので、先づ此の由を神に告げて、此の行を全うする事を祈り、倉皇渡るか否かに木橋は凄まじい事をたてゝ、ふわりふわりと流れ出した。斯く危険を冒し、無事、酒を賣ることを得たと。
十八才の時、養父に死に別れ、其後は一人の老母と共に少量の金を資本として家業に勵んだ。
二十三才の冬、妻を娶り、且耕作の歩数を増し、以前の副業に代へるに蒟蒻製造を開業し、親子三人協力一致して黽勉し、此の商業の利益や収穫物の賣上金の幾分割いて貯蓄し、田地も相當買ひ求め、段々家族が増えて来たので、三十一才の時、家屋を新築し、續いて翌年一棟の土蔵を建設し、斯くの如き複雑な生活中家産を興した。
現今は二十四才の嫡男を頭として、十四才の末子を合せて四人を真の愛情を以て訓育し、それぞれ相等の学校教育を受けしめ、富と云ひ、身分と云ひ、一村で恥ぢない地位を占める様に至つた。蓋し家族和合し勤倹産を治めた所以の致す所であらう。
先年、雲山村総代に推薦せられた。偶々當年は昨年の大洪水に破損した大掛樋の工事があつて、此の監督役さへ兼務した。そして或事から上村と下村との間に軋轢を生じ、三ヶ月の豫定工事も一年に亘つた。其の折、両村の間に立ちて種々の難局に處し、東奔西走して席の温る暇なく、数十回の協議に頭を悩ました結果、一千円余の工事は落成した。最初の程は工事の歩を進めないのを責め、且不平を漏らした人々も、此に至つては宛ら神の如く尊敬する様になつた。これ、献身的態度に出たからである。又甚だ神佛に信仰心深く、身、世人に對して諄朴叮嚀に接しために、世人の敬慕する所となつた。終り。
■ここに大正4年(1915)の作文ノートがあります。
鳥取県師範学校1年生の秋本義道君が口語文体の常体(デアル調)といふ条件で、5月28日に書いたものです。
教師が添削して朱が訂正されてゐる箇所が散見されます。
この中に「矢野動物園」と題する一文があります。
評価は甲。
気になる内容なので、全文紹介したいと思ひます。
なほ、読みやすくするために、訂正箇所は訂正後の表現を採り、適宜段落を改め、明らかな誤字も改め、濁点や文末の句点を補ひました(原文に付けてある文とない文とがあります)。
 
「矢野動物園」
去る廿四日本校生徒は諸先生に引率されて矢野動物園に動物を見に行つた。園の位置は四通八達して居る菊橋向の繁華な所を前にした草地に設けられて居た。以前来た時の当園よりは甚だ規模が大きくなつてゐる感があつた。観覧者は絡繹して押し合ふ程でその中には中小学校生徒も多く行てゐた
(*「来てゐた」の誤りか)
先づ入口に嬉戯してゐる猿は観る子供を相手の様にして遊んでゐた。
次に目についたのは印度産の大虎で年令は四才にて体重は四十八貫と説明した。体構へは猫に良く似てゐるが一度怒れば人をして凛乎とさせる程鋭き聲を出し頸毛を一本立てとし鋭利なる歯をむき出す。
之に隣り居る獅子は獨乙領東部アフリカの産にて年令六才、体重五十六貫と云つて居た。「能ある鷹は爪隠す」と云つてゐる様に人が竹にて觸れても泰然自若としてゐたが一度食糧の肉を之に見せた所が獰猛な聲で呼んだ途端我等を始め附近の諸動物もおののき顫つた。
日本産の狼は深く裂けた恐しい口を開けしきりに出處をあさるかの様で絶えず動いてゐた。
猩々は黒毛褐色の毛を以て被つて居た。丈は二尺に足らない位であつたが年令は九十才に達してゐると聞いては驚いた。然して此の一生は百五十才位だから之は未だ壮年時代である。
之に竝んで熊、山猫等が居たが、之等は珍しき或は威がなかつたが大層人に馴れて甘藷を食べたりしてゐた。
今度は牝の大獅子で前に劣り無く威風堂々たる貌流石に百獣に王としての物凄い様を具備してゐた。
駱駝は丈高く稍馬に似てゐるが性質優しく足は蹄大きく口は兎の如く三つに裂けて全身は古綿のやうな毛以て包んでゐた。
鷲は未だ子であつたが其の勇悍なる性は既に動作に現してゐた。
途中に孔雀、駝鳥、鰐、カンガルウが竝んで居たが之は書物で見たると甚だ異つてゐなかつた。
次に丈高く大きな間を占めてゐる象は此處に繋がれ細い目を観客に注いでゐた。体は運動不充分な故が皺で畳まれて居た。然し、之の象の体重は一万余りあつて丈は一丈余、長さは二丈に余るとの事で一日の食糧三、四十貫の藁、水、其他の食物を食べて居るとの事で有つた。
概して云へば珍しき動物を直観し新知識を得ることが出来ると共に、昂然たる気象を養ふに大に効果有る事と自分は思つた。
 
■この動物園に飼育されてゐる動物を整理すると、次のものが挙げられます。
 サル
 トラ(ベンガルトラ)
 ライオン(ドイツ領東アフリカ(=タンザニア・ルワンダ・ブルンジ)産)
 オオカミ(日本産?)
 猩々(ゴリラ)
 クマ
 ヤマネコ
 ラクダ
 ワシ
 ダチョウ
 ワニ
 カンガルー
秋本君の関心外のために記されなかつたものも他にゐると思ひます。
全部でどのくらゐ飼つてゐたんでせうね。
 
■ところで秋本君が学校行事として行つた動物園は矢野動物園といふ名のところでした。
一寸調べてみた限りでは、鳥取県下にそのやうな動物園があつたか確認できませんでした。
本文をよくよく読んでみますと次のやうにあります。
 園の位置は四通八達して居る菊橋向の繁華な所を前にした草地に設けられて居た。
 以前来た時の当園よりは甚だ規模が大きくなつてゐる感があつた。
これによると、動物園は草地に仮設されたもののやうです。
さうすると、巡回する型の動物園ではなかつたかと思はれます。
丁度これに当てはまるかなと思ふものに、矢野巡回動物園があります。
http://www2.otani.ac.jp/~tmatsu/2002bunka/0012203/chapter03.html
上記のサイトによると、明治40年(1907)にドイツから来たライオンによつて全国的な人気を獲得したとのことです。
上記見学記にも「獨乙領東部アフリカの産」の大獅子として取り上げられてゐます。
本巡回動物園の詳細な記録が残つてゐれば、はつきりとしますが、おそらく大正4年5月前後には鳥取市内で興行を続けてゐたのだらうと思はれます。

■この中で特に気になつたのは、「日本産の狼」といふ箇所です。
 
イメージ 1

ニホンオオカミはすでに絶滅して久しいものですが、とりあへずウィキペディアで確認してみますと、明治38年(1905)に奈良の山間部で捕獲されたものが最後の生息情報だとのことです。
本見学記が大正4年(1915)。
最後の記録から10年後のものですが、なほ動物園にゐたことになるわけです。
単純に記主秋本君が勘違ひしただけなのか、動物園側が虚偽情報で話題作りを狙つたのかといふ可能性もなくはありません。
しかし、素直に受け入れるならば、結構面白い記録になるわけです。
当動物園の飼育してゐた動物の履歴が残つてゐればその点判明すると思ひますが、どうでせうか。
ニホンオオカミは絶滅したといはれてからも、目撃情報は散発的に出てゐるやうです。
菱川晶子『狼の民俗学』には、昭和7年頃に和歌山県本宮町の山中での目撃談が紹介されてゐます(266ページ)。
同書によると、動物園での飼育記録として上野動物園で、明治21年当時、ニホンオオカミを飼育してゐたこと、その後、朝鮮産、満州産、シベリア産のオオカミが飼育されてゐたことが記されてゐます(275ページ)。
かうしてみると、矢野動物園で飼育されてゐたオオカミはニホンオオカミではなく、日韓併合後に渡来した朝鮮産の可能性もあるのではないかと思ひます。
ともかく、記録を探してみないと判然としませんね。

気になりますが、このへんで擱筆。

幕末彦根の御伽衆

■戦国期の大名衆には武士・医師・連歌師・僧侶などが咄の衆として仕へることがありました。
御伽の衆(通称「御伽衆」)の一種です。
一方、公家方では禁裏や仙洞に、これに類する役割の殿上人がゐました。
彼らは、御咄の衆なり御伽の衆なりと明記されることはありませんが、その性格からすれば、武家方の御伽衆に近いでせう。
時代は江戸初期にくだりますが、たとへば後陽成院の「御伽の衆」と明確に称される三人衆がゐました。
山科言緒(やましな・ときを)・西洞院時直(にしのとうゐん・ときなほ)・土御門泰重(つちみかど・やすしげ)です。
彼らは院や女院の中和門院のもとに参り、物語をする、草子をよむ、連歌会等に参会する、手習の補佐をするといつたことをしました。
近世初期、後陽成院が限られた近臣に求めたものは、読申や謡もあつたでせうが、それよりも談話が主であつたと思ひます。
後水尾院もまたこの近臣との関係を継承しました。
御伽に召される人々といふことで、これは「御伽の衆」と呼ばれました。
ただしこの呼称は固定的な官職名ではありません。
これについては拙著『室町時代の文芸とその展開』第1章で詳述しましたので、御関心のある方は御覧ください。
 
■ともあれ、さういつた御伽衆の役割といふものは、江戸時代において、各藩において少なからず継承されていつたもののやうです。
とりわけ今興味をもつてゐるのは、尾張藩初代藩主徳川義直の時代に御伽衆として仕へた三宅長斎といふ細工頭です。
この人物については『長斎記』といふ本が伝はつています(『仮名草子集成』第49巻所収)。
詳しくは後日に取り上げたいと思ひます。
 
■さて、前置きが長くなりましたが、年末、たまたま明治期の写本を手に入れました。
江竜貞吉といふ人の手帖のやうなものです。
前半は「所有宅山藪耕地明細牒」や活用語表、付属語一覧。
後半は西郷隆盛や勝海舟などのエピソード、滋賀の史跡などが書き留められてゐます。
恐らく後者は主に書物や新聞などの抜書ではないかと想像されますが、はつきりしません。
なほ筆録者である江竜貞吉といふ人は、明治前半の滋賀県の学校資料に見えます。
水哉学校で学務委員をしてゐました。
それ以外のことは未詳です。
 
■この本の中に次の話も収録されてゐます(便宜、句読点・濁点・送り仮名を補ふ)。

維新の以前、彦根に久米道中と云ふ町医あり。話術に長ずるを以て御舘入医師を命ぜられ、引馬を下されしに、或る日、其の馬に騎り他出せしかば、馬、忽ち馳せ出だし、止むる能はず。途中にて不図友人に出逢ひたり。友人曰く、何処へ行かむと欲する乎と。久米、声ふるひながら答へ曰ふ、此の分にては何処へ参るとも計らひ難しと。

久米道中といふ町医者は話術に長じてゐたので城への出入りを許されました(医術を認められたわけではないのです)。
で、馬を許されたのですが、どうも乗ることができなかつたやうです。
町医者ならば仕方ないですね。
で、乗りなれない馬を走らせてゐると、自分に呼び掛ける声が聞こえました。
「何処へ行くつもりだい?」
道中は声を震わせながら答へました。
「この分では何処へ参るとも予想できません」
―こんな話。
 
久米道中とは、道香ともいつて、彦根藩に仕へてをりました。
歌は香川景樹に師事し、いくらか短冊も残つてゐるやうです。
天保10年(1839)他界。享年79歳。
上のエピソードの時の藩主は井伊直中(1766-1831)か直亮(1794-1850)かではないかと思はれます。
それ以外の伝記情報はまだ知りませんが、追々調べていきたいと思ひます。
今回は「御伽衆」とも「咄の衆」とも記されてをりませんが、話術をもつて藩主に仕へる医師といふ点で、その系譜に連なる人物として、久米道中なる町医を紹介しました。

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