穴あき日記〜奈良漬のブログ

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古典的奈良漬

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傘で飛ぶ話

昨日、一昨日と、ものすごい風でしたね。
ということで、珍しく外界と関連した四方山話を書きます。
 
テレビで強風に吹き飛ばされる傘の映像を見て、最初に想起したのが鈴木春信の「清水の舞台を飛ぶ美人」の錦絵でした。
この絵は田中優子氏『江戸の想像力』(筑摩書房)の表紙に使われており、初めてみたとき、その表紙デザインの素晴らしさに何度となく手にとって眺めたものでした。
(今この本は文庫版となっておりますが、やはり紙の質感も含めると、初版に愛着を覚えます)
イメージ 1
 
『江戸の想像力』というタイトルとこの絵のコラボで、どれだけ妄想炸裂したことかwww
 
さて、この絵よりもほのぼのとした「傘で飛ぶの図」といえば、メリー・ポピンズではないでしょうか。
もっともこっちは上に飛んでいくイメージのほうが強いですかね。
イメージ 2
こちらもまたファンタジーの入った名作でした。
ちなみに『夏目友人帳』vol.2にもちょっとこのネタを使った場面が出てきます。
イメージ 3
空から傘が舞い降りてきます(常人には見えない)。
実は妖怪なのでした。
夏目「……だいたいお前… えっと名前なんだ?」
妖怪「ふん 人間ごときに名乗る名はない」
夏目「じゃあお前は今から「メリーさん2号」だ」
妖怪「メ、メリー?」
 
こういう例を連想しながら思うのは、傘(からかさ)が普及する前は何かを手にして舞い降りるとか、飛んでいくとかいう趣向はあったのかどうかということです。
しかし、中世の説話や物語にはどうもそういうのはないようですね。
傘は高貴な僧侶に差しかけるものであり、つまり天蓋というイメージが強く、後世の人のように自由な発想の媒体にはなっていたかったのかも知れません。
 
中世に散見されるものでちょっと似てるかなと思うのに、鳥が何らかの物を落とすというモティーフがあります。
落し物は手紙であったり、珠玉であったり、穀物であったり、いろいろです。
竹取の翁が伐った竹の節に雀が米を落とすのですが、そこに雨が溜まって酒になったという話もあります。
しかし、人間を落としたり飛ばしたりすることは寡聞にして知りません。
春信やメリー・ポピンズの趣向は傘が普及したればこその、新たなる発想ということなのでしょうか。
 
発想それ自体にはオリジナリティはなく、本来、何らかのモノを媒体としていたものが、新たな媒体に移行しただけではないかという気がするのですが、どうでしょう。
たとえば、道に小銭が落ちていると思って拾ったらビール瓶の蓋だったという笑い話があります。
江戸初期の『醒酔笑』という本では、道に小銭が落ちていると思って拾ったら柿の蔕(へた)だったという話が載っています。
柿の蔕よりもビール瓶の蓋のほうがリアリティがある社会になったので、本来、柿の蔕だったものがビール瓶の蓋に移行したのでしょう。
笑いの質自体は変わらないけれども、そのための道具は変るわけです。
傘を差して舞い降りるという趣向もまた、何か前身があってもよさそうなのになあと思ったのはそういう理由です。
 
ところで実際、傘を持って空を飛んだり、舞い降りたりすることができるかどうか。
きっと試したことのある人はいるんでしょうね。
でも普通に手に入る市販のものではどうでしょう。
子どものように体重の軽い場合は稀にあったのでしょう。
しかし、自由意思で飛んだり降りたりすることはあったのでしょうか。
 
さて、以下に挙げる記事は実際の出来事です。
印刷が悪く、一部判読不可です(□部分)。
すみません。
*****『紀伊新報』昭和4年10月29日*****
「少女を井戸へ吹き飛ばす
 廿五日の大暴風雨
 周参見町の椿事
去る廿五日午後二時、西牟婁郡周参見(すさみ)町中村増太郎氏は暴風雨をおかして同町字北へ通ずる道路を通行中子供の傘を広げたまま飛んで来たので不審に思つてゐるとどこかで悲鳴をあげてゐるのでいよいよ不審になり捜査すると道路より約四尺はなれた井戸の中に少女が泥土一杯に浴びてアプアプしてゐるを発見、大いに驚いて井戸の中へ飛びこみ濡鼠になりながら漸く救助し□□河部□之助氏宅へ連れこみ応急手当をなしたので一命をとりとめたが右少女は周参見字松ノ木松本亀一長女シゲ子(七)で廿五日同所を通行中猛烈な風雨のために吹きとばされて井戸の中へ墜落、あはや溺死せんとしてゐたものである。(下略)
***********************
 
7歳の女の子が暴風雨で傘を広げたまま飛んでいったとのこと。
物語世界ならどこか異界に飛ばされたりするのかも知れませんが、現実は残酷ですね。
そういえば、子どもが鷲にさらわれて、その子が長じて良弁僧正(ろうべん・そうじょう)という東大寺の立派な僧になるという伝説があります。
現実でも鷲に子どもがさらわれる椿事がありますが、その結末は鷲の餌となって、せいぜい残骸が捜索隊に発見されるというものです。
物語のモティーフは現実を反映しながら全然次元が違うものなんでしょう。

竜神と安徳天皇

前回の続きです。
 
安徳天皇とともに、皇位継承に必要な神器は海底に沈んでしまったわけですが、これは当然朝廷で大問題になりました。
八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)は間もなく回収できたものの、宝剣は海人に命じて探索させても一向に見つかりませんでした。
神仏に祈願しても見つからないのです。
これはどういうわけでしょうか。
ある識者の意見はこうです。
――神代、素盞烏尊に殺された八岐大蛇(やまたのおろち)が霊剣を惜しんだ。
 そこで人王八十代ののち、八歳の帝となって霊剣を取り返し、海底に沈まれたのだ。――
この考えによると、安徳天皇は八岐大蛇、言い換えれば、竜神(原本では「神竜(しんりょう)」)の化身ということになります。
この意見を言った人物が誰なのか、判然としません。
「ある博士」とも「ある僧」とも「ある儒士」とも「子細知りたる人」とも伝えます。
時の名僧慈円はこの説は誠であろうと信用しています。
すぐれた知性をもった高僧をして納得させるだけの説得力のある見解だったということでしょう。
慈円の聴いた話はこういうものでした(『愚管抄』)。
「この王を、平相国(清盛)祈り出しまいらする事は、安芸の厳島の明神の利生なり。
 この厳島と云ふは、竜王の娘なりと申し伝へたり。
 この御神の心ざし深きに答へて、我が身のこの王と成りて生まれたりけるなり。」
つまり清盛の祈願によって誕生した天皇は厳島明神、すなわち竜王の娘の申し子であるというのです。
これは八岐大蛇との繋がりを示すものではありませんが、竜神との接点を認める説が複数存在していたことが知られます。
 
複数というのは、八岐大蛇との関係を明確に説くものもあったからです。
『源平盛衰記』の説が分かりやすいでしょう。
老松・若松という二人の海人が海底の竜宮城とおぼしき荘厳な屋敷に入りましたが、そこで安徳天皇を抱いた大蛇がやってきて、事情を説明しました。
昔、竜神の次男が八岐大蛇として素盞烏尊に退治されて宝剣を奪われてしまいました。
つまり宝剣はもともと龍宮のものだから返してもらうのは当然の理屈であります。
八岐大蛇が安徳天皇として現じ、源平の合戦をもたらし、ついには宝剣を竜宮にとり戻したというわけです。
竜神からすれば「宝剣は必ずしも日本の帝の宝にあらず。竜宮城の重宝なり。」というのです。
 
のちに同乗していた建礼門院がこの時の様子を回想して後鳥羽上皇に語っていますが、そちらでは安徳天皇即竜神説を明確に述べていはいません。
しかし彼女は召し捕られて上京するときに夢の中ではっきりと目にしたものがあります。
それは竜宮城の様子です。
安徳天皇をはじめ平家一門の公卿殿上人が美々しい出で立ちで、禁裏に勝る壮観な宮殿にいました。
ここがどこかという問いかけに、二位の尼が
「竜宮城」
と答え、自分のいる場所が竜神の住む城であることを悟ったのでした。
といっても、これは夢の中での出来事。
いくら詳細に述べても現実に目の当たりにしたのとは重みが違います。
前回書いたように、字面をどう捉えるのか、厄介なこと、この上ない話です。
 
蛇足ですが、後世の文献に阿波の鳴門は竜宮の東門であるとするものがあります。
それによると、世間で知られた伝承であったようです。
入水の地は下関のあたりと伝えるから、遥か東方ということになりますが、ともあれ瀬戸内に竜宮城があると考えられていたようです。
もっとも、『平治物語』にみられるように、 悪源太義朝を討った難波三郎が竜宮へ行くことになったのは、摂津箕面寺の滝つぼに入ったからです。
竜宮の入口と実際の城の在り処は物理的距離とは関係ないのかも知れませんね。
 
 
***メディアコンテンツ研究会***
大河ドラマで平清盛が取り上げられることになりましたので、それに関連して頭の整理(自分用)に記事にしておきたいと思ったのが、安徳天皇のことです。
長文ご容赦。
 
壇の浦の合戦で敗れた平家に与する四国九州の勢力はわずかで、もはや命運尽き果てた観がある中、幼い安徳天皇もまた平家の一類と運命を共にすることになりました。

御所船の上で平知盛が呟きました。
「世の中、今はかうと見えて候ふ。」
世にあって、見るべきものを見、何かを悟ったかのような台詞。
防戦することさえも諦め、これから死ぬ身支度に周囲を掃除し始めました。
頼みにしていた知盛の奇妙な言動に、女房衆は動揺して慌て騒ぎました。
そうした中、二位の尼は知盛の心境を理解したようで、もはやこれまでと決断します。
神器を携え、宝剣を腰にし、まだ八歳の天皇を抱いて入水することに決めたのです。
「尼ぜ、我をばいづちへ具して行かんずるぞ。」
幼い帝は不思議にお思いになりました。
「この国は心憂きさかゐにて候へば、極楽浄土とて、めでたき所へ具し参らせ候ふぞ。」
 しばらくして、更にお答えしました。
「浪の下にも都の候ふぞ。」
かくして二位の尼に抱かれた帝は海の中へと沈まれたのでした。

さて、二位の尼の言う〈浪の下の都〉とは極楽浄土なのでしょうか。
それはきっと、子供だましのような慰めの言葉だったのでしょう。
入水の前に弥陀の浄土のある西に向かって合掌しているわけですから、海底に極楽浄土があると思っていたのではないでしょう。
 
物語の字面をどのように捉えるべきか、厄介なことこの上ないのが、この安徳天皇入水のくだりだと思います。
 
 『平家物語』というのは沢山書き写されて世に伝わっただけあって、テクストが一同ではありません。
『平家物語』の名のもとに、異なる内容が多く含まれているのです。
上記の内容は覚一本と呼ばれ、古文の教科書にも使用される、最もよく知られた伝本に基づいたものです。
しかしたとえば延慶本、長門本、源平盛衰記といった、覚一本よりも分量の豊富な伝本では、二位の尼の「浪の下にも都の候ふぞ」の台詞は、下に示したように歌の一句として扱われています。
  今ぞ知る御裳濯川(みもすそがは)の流れには 浪の下にも都ありとは
辞世の歌ですね。
御裳濯川は五十鈴川の異名です。
この川は皇祖神を祀る伊勢の内宮を流れて海に至りますので、転じて皇統をも意味します。
ここでは皇位の流れを御裳濯川に譬えているわけです。
合理的に解するならば、「浪の下の都」はただの慰みの辞と捉えてもいいわけですが、昔の人は字面通り受け取って、本当に都があると考える人もあったようです。
このへんの事情が入り組んでいて、小生ごとき素人にはむつかしいところです。
(続く)

草子の音読

さきほど、本棚から落下した茶封筒の中を見たら、以前読みながらコピーした断片的な資料がいろいろ入っていました。
その中にこんな記事がありました(読解の便宜に送り仮名、句読点、濁点など付加)。
 
*********
 
朝、柳生新次郎、曽根伝作喧嘩シ、伝作斬殺サル。
当七月、新次郎、草子ヲ読ミ居ル所ニ、伝作側ニ在テ
「ソノ方ガ草子ニ聞キ飽キタリ」
ト云フ。
ソノ意趣ナリ。
公、聞コシ召サレ、新次郎、喧嘩、道理アリトイヘドモ、所柄、御上屋敷ノ内ニ於イテ仕ル事、口惜シク思シ召サル。
カクノ如キノ義、仕出スニ於イテハ、書置ヲモ仕ルベシ。
然ルニ、ソノ義ナク、不届ノ仕形ニ思シ召サル。
切腹仰セ付ケラルベシトイヘドモ、伝作、最前ノ仕形不届タルニ就テ、身命ヲ助ケラル。
御国ノ内ニ罷リ在ルベキ旨、仰セ付ケラル。
 
*********
 
『義山公治家記録』という本に載っている記事です。
これは伊達政宗の子で仙台藩二代藩主忠宗の事跡を記録したものです。
 
この記事が面白いのは、「草子を読む」という行為が黙読ではなく、音読だということです。
どういう状況であったのかさっぱり分からないのが遺憾ですが、一つの想像として、当時一般に、「草子を読む」つまり本を読むという行為は音読することを意味していたのかもしれないなということを思わせます。
本は声に出して読むのが当たり前で、他人がそばにいても当然のように音読する。
だからそれは日常的な光景であって、マナー違反にもならない。
しかし伝作はうんざりして愚痴ってしまった次第。
現代でいうと、一緒にラジオを聴いていたけど、つまらぬ番組が耳触りで
「もうラジオ消してくれ」
と言うようなものですかね。
 
ともあれ、音読をめぐる珍事だと思います。
 
これに関する記録は上記の引用部分だけですが、記主には読んでいた「草子」が何であったのか具体的に記しておいてもらいたかったです。
さらに物語草子であれば、どの場面であったのかもw
『平家物語』や『太平記』のような軍記物語か、はたまた漢籍であったか、興味がそそられます。

平将門の伝承覚書

古代東国の武将平将門は朝廷に謀反を起こした者として知られていますが、すでに平安期から伝説化され、また、各地にさまざまな伝承が残っていました。
『将門記』はこの様子をつぶさに叙述しており、この段階で将門の堕地獄説話、地獄からの手紙など伝説的要素が見出されます。
 
現在、本拠地のあった関東では将門に同情的な伝説が多くみられます。
もっとも当地は将門の拠点でありながら、敵対する側の成田山もあります。
成田山といえば平将門が乱を起こしたとき、それを討伐する側、すなわち朝廷側について将門を調伏したことで知られます。
これによって将門が神鏑を射られて他界することになったわけです。
それゆえに、将門贔屓の心理からすれば敵視されても仕方がないのです。
また、将門を裏切った女の名が桔梗ということから、桔梗を植えない、また植えても育たないという作物禁忌も広く分布します。
このように、成田山を忌避し、また、桔梗を忌む風習は千葉県、茨城県、埼玉県、群馬県、福島県など幅広く分布しています。
将門伝承が東日本に広がっていたことを推測できるでしょう。
これは西に向かえば向かうほど、将門を悪者扱いするのと反比例する傾向にあります。

将門を討伐する側の視点で描かいた中世の物語に『俵藤太物語』があり、これは近世に至るまで広く読まれました。
本作品で興味深いのは将門の異能ぶりです。
その他の文献もまじえて、将門の超人ぶりを示すものとして次のものが説かれます。
・身長は七尺あまり(210センチ余り)。
・総身が鉄でできている。ただしこめかみの部分だけ肉身。
・眼球が二つに分かれている。
・分身の術を使い、七つの同体を現す。もしくは六人の影武者がいる。
・長い竹の末に登り立つことができる。
・斬首された後も首が朽ちずにいた。
このうち分身の術については後世の兵法の中に伝承されていきます。
将門は、最後、弱点を見出した俵藤太に退治されますが、大路にさらされた首は七日過ぎても死ななかったといいます(『太平記』『俵藤太物語』)。
首にまつわる伝承としては斬首の地、梟首の地、飛来地、埋葬地など各地にあります。
その首が飛び超えた場所に創建した東京都台東区の鳥越神社、落下した場所という東京都千代田区の津久戸神社などがその例であります。
とくに全国的に有名なのは東京の神田明神でしょう。
ここは本来大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る神社ですが、江戸初期には本殿の傍らの小祠に祀った将門が優勢となり、次第に神田明神即ち将門の霊とみなされるようになったとされます(『月刈藻集』『水鳥記』参照)。

 
なお、将門の娘が尼となってとどまったという土地が千葉や宮城に伝わります。
千葉県柏市の将門神社の傍らには如蔵尼の持ち運んだ地蔵が祀られています。
中世の『元亨釈書』によると、如蔵尼が地獄から蘇生して地蔵菩薩を専ら信仰しました。
 
 
ちょっと気になってた将門伝承を整理しておきました。
長文ご容赦。

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