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17世紀半ばの頃、江戸、川崎を舞台とする物語が作られました。
実話に尾ひれを付けて面白おかしく仕立てたものらしいです。
テーマは「酒」。
タイトルは『水鳥記』。
なぜそんなタイトルかというと、「酒」を分解すると、<さんずい>+<酉>ですね。
<さんずい(水偏・三水)>は「水」
<酉>は「鳥」
ということで、「水鳥」となるわけです。
主人公の地黄坊樽次(じおうぼう・たるつぐ)は晋朝の竹林の七賢の一人劉伶の魂魄が現れ出でたものです。
何のためにというと、酒の効能を普く人々に伝え、下戸をなくして上戸に導くためだそうな。
樽次の住まいは江戸の大塚。
今の東京都豊島区大塚です。
そこで事件が起こります。
樽次のもとに行った川崎の池上底深(いけがみ・そこふか)の一味が一人ならず、二人も吐血してしまったのです。
これに怒った底深は樽次のもとに攻め込もうと計画を立てます。
底深の家来のうち、樽次にも恩がある斎藤伝左衛門忠呑(ただのみ)は、これは大変だと思って、樽次に手紙で密告します。
樽次はそれならばと、逆に自分から川崎に乗りこむとにします。
そして二つの勢力は戦うことに。
とはいえ、ここでいう戦いは合戦とか出入りとかいう類ではなく、酒の飲み比べです。
平和な話です。
興味のある方は『仮名草子集成』第42巻をご覧ください。
ちなみに底深の住居は川崎、つまり今の神奈川県川崎市です。
舞台は大師河原。
川崎区大師河原として、今でも地名が残っています。
大塚の樽次は馬に乗って川崎に向かいますが、そのルートは次の通りです。
大塚―森川宿(文京区森川)―本郷通(文京区本郷)―湯島(文京区湯島)―神田明神(千代田区外神田)―通町(神田〜新橋辺)―日本橋―中橋(中央区八重洲辺)―新橋(港区新橋)―増上寺(港区芝公園)……大師河原(神奈川県川崎市川崎区大師河原)
道行きがてらお参りした神田明神のくだりが中々面白いものです。
通り沿いに神社を見つけた樽次は、従者に
「これはいかなる神ぞ」
と問うたところ、平将門を祀る神田明神だと答えました。
すると、
「ひやにても神酒(みき)ならばいただかんに、かんだ(神田=燗だ)と聞けばうれしや」
と言って、馬より早く飛んで降りて参拝しました。
そして、諸願成就の契約に、お神酒をいただこうと内陣に入って神前を見たら、酒がありませんでした。
ガッカリした樽次は次のような歌を詠みます。
当世は神もいつはる世なりけり かんだといへど ひや酒もなし
※現代は神も嘘をつく世であることよ。燗だ(神田)といっても、ひや酒さえないのだから。
本来、神に祈願するときには、祈る人間が酒を奉納するわけですが、樽次は神から酒をもらおうとしています。
その上、当の酒がないものだから呆れてしまいます。
このへんの常識のなさが面白いですね。
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古典的奈良漬
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今日で9月が終わりですね。
夜道を歩いていたら、どこからともなくキンモクセイの香りが漂ってきました。
風が心地よく、一日の疲れもとれました。
さて、この一月かかりっきりだった本があります。
『群書治要』。
唐代貞観5年(631)に成った大著で、古典的文献から政治の要(治要)を抄出して編纂したものです。
もとより一読して内容を把握できるような類ではなく、正直、消化不良状態です…。
とりあえず印象に残った文章をちょっと抜き出しておきたいと思います。
『史記』「本紀」
王益々厳しく、国人敢へて言ふこと莫し。道路、目を以てす。
*後年の足利将軍義教公の治世もこんな感じだったかと想像します。
『三国志』「蜀志」
忠を尽くし時に益すれば仇なりと雖も必ず賞ずべし。
法を犯し怠慢なれば親たりと雖も必ず罰すべし。
*諸葛孔明は身内だからといって手心を加えず公平に賞罰を加える姿勢で臨んでおりました。
民主党政権もかくあってもらいたいもの。
『六韜』
将に三礼有り。
冬日、裘を服(き)ず。
夏日、扇を繰らず。
天雨、蓋幕を張らず。
*兵を統率する将として、兵と苦労を共にすることの重要性を説いています。
『尸子』
己の欲せざる所、諸人に加ふるなかれ。
*基本ですね。
『潜夫論』
学問を待つにより、その智すなはち博く、その徳すなはち碩(おほ)いなり。
*聖人や逸材であっても生まれながらに智能が秀でていたわけではなく、学問をすることでそのような人間に至るのだといいます。
『傅子』
政は私を去るに在り。
私去らざれば則ち公道亡ぶ。
*政治家、官僚にあるべき姿勢だと思います。
最後に『論語』「述而」より
子曰く「三人行けば、必ず我が師を得べし」と。
*明日、友人と三人連れで岡崎市に文楽を聴きにいきます。
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先月、成田からヘルシンキに向かう飛行機の中で読み終えた本があります。
『京都大学蔵実隆自筆和漢聯句訳注』(2006年、臨川書店)です。
ハタンガ(Khatanga)の南のあたりを飛んでいるときのことでした。
まあ、そんなことはいいとして、この本の内容ですが、室町期最大の古典学者三条西実隆(さんじょうにし・さねたか)とその息子公条(きんえだ)の二人による和漢聯句(わかん・れんぐ)の本文と注釈が収録されています。
和漢聯句というのは漢句(五言詩)と和句(5・7・5、もしくは7・7)を100句連ねた文芸で、室町期から江戸前期にかけてもてはやされたものです。
室町時代は連歌が非常に盛んで、公家・武家を問わず下々まで100句(=百韻)の会が行われました。
百韻には飽き足らず、千句連歌、さらには万句連歌まで張行されました。
毛利元就や輝元も厳島神社で張行した万句連歌をしており、戦国武将の間でもたいへん好まれました。
さて、実隆・公条の両吟百韻は永正7年(1510)1月7日に行われたものです。
しかも各句に付いた注釈は非常に詳細で優れたものです。
おかげで難解な漢句の鑑賞の手助けになりました。
その中で気になったのが次の付け合い。
去取暁猿哭(去取 暁猿哭く) 実隆
窮憐櫪馬嘶(窮憐 櫪馬嘶ふ) 公条 ※嘶(いば)ふ
前の句は、山を去ると、暁の猿が慟哭した情景を詠んでいます。
それに続き、困窮して悲しんでいると、厩(うまや)の馬が嘶(いなな)いたという句を付けています。
連歌にしろ、聯句にしろ、句を繋げるにあたって、前の句の何らかの要素を受け継がなくてはいけません。
では「窮憐」の句は前の句から何を受けたのでしょうか。
注釈ではこの点明確な解釈を出していないようです。
「人間のある種の行動や情況に呼応して動物たちが鳴くという点で前句と共通する」
と記しています。
つまり猿が人間の下山という行動に哭くのに対し、後句は馬が人間の困窮という情況に鳴くという句を付けたという解釈です。
猿と馬、もしくは猿と厩というのは実はしっかりとした結びつきがあります。
中世の厩が描かれた絵画などを見てみると、厩に猿が繋がれているものがあります。
また絵馬に、猿が馬を引く図があります。
室町時代の物語に、昔話の「猿聟入り」にも通じる作品に『藤袋草子』というのがあります。
猿にさらわれた人間の娘を猟師が救い出す物語です。
猟師は猿の棟梁が人間の娘を置いてその場を離れているときにやってきます。
その時、娘のそばには監視役の部下の猿がいました。
猟師はその猿を威しつけて、策略(娘を閉じ込めていた藤袋に猟犬を入れる)を言い付けないようにさせます。
「かまひてこの由を告ぐるな。さあらんには、おのれが命を助くべし」
戻ってきた猿はまんまと猟師の策略に引っ掛かり、犬に襲われて退治されてしまいます。
その後、監視役の猿は「忠節の者」として命を救われ、猟師の家来になって、厩の番を命じられます。
猿をば厩に置きて、馬を飼はせ給ふ。
もちろんこれはあくまで物語のネタです。
馬小屋に猿を繋ぐ習慣があるのはなぜかということを付会したもので、正しい由来ではありません。
厩猿については、柳田國男『山島民譚集』や石田英一郎『河童駒引考』などに資料とともに論じられていますのでご参照ください。
というわけで、
去取暁猿哭
に対して
窮憐櫪馬嘶
の句があるのは、猿に櫪馬(厩の馬)を付けたということになるでしょう。
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先日の名古屋訪書の旅で偶目した本に十二支をテーマにした戯文集がありました。
十二支の動物を題材にした作品には、古くは室町時代の『十二類絵巻』があります。
これは前半に十二支の動物たちの歌会が描かれ、後半にそれ以外の動物たちとの合戦が描かれています。
この絵巻物は比較的流布したもののようで、江戸時代に入って『獣太平記(けだもの・たいへいき)』と改題されて絵入本として出版されました。
また十二支の動物たちによる歌合や十二支の題による詩歌なども作られました。
センチュリーミュージアム所蔵『十二支歌仙歌合色紙帖』(江戸前期)など好例でしょう。
このほか、こんな作品があります。
【江戸前期】
十二支句合(立圃・作)
【江戸中期】
十二支の図及歌(伊達吉村・作)
【江戸後期】
十二支狂歌集(臥竜園・撰)
十二支鼠桃太郎(鼎峨・作/成美・画)…黄表紙
十二支化物退治(桂子・作/清経・画)…黄表紙
十二支春の友(喜玉・作)…黄表紙
さて、名古屋で見た戯文集は十二支を題材にしてはおりますけど、網羅しているわけではありません。
鼠(檜山坦斎・作)
丑→「丑拾遺物語」全10話
虎(古今堂亀寿・作)
卯(珍文堂戯道人・作)
辰×
巳(酔讃堂・作)
馬(某・作)
未×
猿(酔讃堂・作)
酉(某・作)
戌(小寺玉晁・作)
亥(酔讃堂・作)
以上、辰と未が欠けています。
それぞれの文章は4〜5人の文人仲間が分担して作成したもののようです。
これを小寺玉晁(こでら・ぎょくちょう)がまとめたということでしょう。
この中でなぜか「丑」だけが特殊。
「丑拾遺物語」はいうまでもなく『宇治拾遺物語』のパロディです。
10話収録されていますが、創作っぽいです。
これらは出版して不特定多数の人々に読んでもらうためのものではありませんでした。
古典について博識な人々が何人か集まって、豊富な知識をもとに何の役にも立たない戯文を書き綴っていく営み。
後世の文学者も一蹴して顧みてこなかった文章です。
こういう知的遊戯に興じられる遊民たちに共感を覚えるのでした。
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先日書いた記事「『徒然草』秘伝」の続きです。
松永貞徳家旧蔵の歌道伝書の中にも見られる「徒然草三ヶ条秘事」というのは、おそらく「白うるり」「布のもかう」「放免」なんだと思います。
確認してませんが。
江戸時代は〈秘伝〉といっても平気で不特定多数の読者を相手に出版してしまう時代でした。
この徒然草秘事もまた例に漏れず版行した『徒然草』に付録として掲載されることとなりました。
江戸中期に出た版本の1つに「貞徳の写本を以て開板せしむる者なり」という刊記をもつものがあります。
これに載る3箇の秘事も松永家伝来のものと同内容ではないかと思われます。
その中の「白うるり」はこんな内容です。
仁和寺真乗院の盛親僧都(じょうしん・そうず)は芋頭が好きで年中食べている人でしたが、その人がある法師を見て、「白うるり」というあだ名を付けました。
なぜそんな名前にしたかと訊ねると、こう答えました。
「さる物を我も知らず。
もしあらましかば、この僧の顔に似てん」
要するに盛親は皮膚感覚的にあだ名を付けたわけで、その命名由来は当人も知り得ないのでした。
これは第60段のエピソード。
『徒然草』の注釈・講釈をする人々にとっては、この意味不明の言葉は興味をそそられたようです。
それで解明不明なものではありますが、誰がこしらえたのか、秘伝としてごく一部の人間には真実なるものを伝えていました。
そして、それが、後世、版本に添付されたのですが、その内容は以上の本文のあらすじを記し、最後にこう下記加えているのです。
「云ひ出だせし人さへ知らざれば、作者にも知るまじ。これ、口伝」
つまり、言った本人さえ知らないのだから、作者の兼好法師も知るまい。
これは口伝であるとのこと。
結局、秘伝は秘伝なんですね。
内容は口伝として伝え、文字には記すことができなかったのでしょう。
これについては当時から諸説があって、定説を見ませんでした。
たとえば、「白うり(瓜)」というべきところを「白うるり」と言い損じて訂正できなくなったので誤魔化したという説。
また「白うつかり」、つまり色白でうっかり者なのでという説。
さて、その中で奈良漬所蔵の「徒然草秘事」では「白うるり」は「朝顔の事」だと明言しています。
朝顔の花の口は瑠璃色にして、奥は白し。
朝顔は朝に咲いて夕べにしぼむ儚いもの。
盛親僧都はこの僧をみて、余命いくばくもないことを察したので、朝顔を意味する「白うるり(瑠璃)」というあだ名を付けました。
その後、ある人からどういう意味かと問われたところ、本当のことをいうのは気の毒だと思い、「さる物を我も知らず」と曖昧な返答をしたのです。
このように、いろいろ諸説がある「白うるり」でした。
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