穴あき日記〜奈良漬のブログ

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古典的奈良漬

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先週書いた記事の続きです。
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/21109396.html
とある古筆鑑定家、というか、研究者から窺った話を忘れないうちに書きとどめておきます。

・切ることで残った本はたくさんある。一冊の本のままだと焼けたり紛失したりしたらそれっきり。しかし切られたことで、部分的にでも残っているものが多い。元永本『古今和歌集』は最古の写本だが、しかし、それに先行する写本があったことは古筆切によって確認できる。もし元永本以前の本が切られずにいたら、今残っていなかったかも知れない。部分的にでも残されていたから元永本より古い『古今集』があったことが知られるのだ。

・古筆の極(きわめ)は信用できないという人がいるが、それは古筆を分かっていない人の言うことだ。江戸時代の鑑定家は依頼されたら特定の人名を書かなくてはならないものだった。「伝」もつけない。今の鑑定の態度とは違うのだ。鑑定して付けた名前が間違っていることは多い。しかしたとえば「西行」の筆としたら、西行の時代のものだということは大体合っている。その時代、その書流の中で特定の人物を決めているのだ。

・先ごろ、金沢の茶人のところから古文書手鑑が出た。大変大きなもので、重文級だ。平判官康頼や天台座主明雲の真筆もある。そこから一枚譲ってもらった。初音の僧正の名でしられる永縁の筆だ。この人は『金葉集』の歌人だ。この手鑑は金沢藩主の前田家が借金か何かで手放したものだろう。

・手鑑はもともと大名が作って持っていたが、次第に下々に広がっていった。公家も持つようになった。大庄屋もそうだ。そうすると、大名家は2つも3つも持つようになった。さらに名古屋徳川家などはそれ以上、10個も持つようになった。

・良い手鑑は聖武天皇や光明皇后など古代のものから始まって、室町初めのころまでで終わる。先ごろ金沢で出た手鑑もそうした一つ。もうこれほどのものは出ないだろう。

・一番低いのは、室町時代のが2、3枚あって、あとはそれ以降のものばかり。さらに短冊も一緒に入っているようなものだ。

・物語切といえば、普通『源氏物語』『伊勢物語』だ。しかし意外と『狭衣物語』も多い。古筆家は『源氏』や『伊勢』の本文を読み知っているが、『狭衣』についてあまり知らないのだ。昔から物語といえば「『源氏』『狭衣』」といわれるように、『狭衣』も多いのだ。


以上のことが思い出したことですが、このほかにもご自分のお持ちの古筆切を前にいろいろ面白いお話をしてくださいました。

蛇足ですが、最後の物語切(ものがたりぎれ)については、お伽草子作品などには「古今・万葉・伊勢・源氏・住吉・狭衣」というフレーズがときどき出てきます。
このあたりが当時一般に読まれた古典作品だったように思われます。

ある古筆鑑定家の語録

先日愛知県豊橋市に、国文学研究者にして古筆の鑑定もする先生のお宅にお邪魔しました。
その際、いろいろお話を窺いました。
帰路、列車に揺られながら忘れぬようにノートに記しておきましたものがあります。
いい加減な記憶力なので、もっと聞いたことがあったのですが、残念!

・格下の本の表紙を剥がして善い本の表紙を取り替えることを「おいはぎ」という。

・手鑑から古筆切を剥がして残った外装を買うことを「素(す)を買う」という。

・戦前の東京美術倶楽部などの売立目録は、名家や財産家が金に困って売ったものだと考えている人がいるが、それは間違い。あれは家の面子だ。「ウチにはこれだけのものがあるのだ」と示すために売立目録を出す。中には何度も出す家もある。松浦公爵家もその一つだ。

・そうした中に、本当に金に困って売るところもある。しかし、みな家の面子でやっている中で売られるから、紛れてしまってそういう家は分からない。

・大番頭と呼ばれる人は大変な財産家で、古美術品を持っていた。三井など。

・昔は平安時代というだけで、大変な高価だった。鎌倉室町は相手にされなかった。平安時代のものだからといってヘタなものもある。それなのに平安時代というだけで重宝がられた。おかしなことだ。

・戦後、旧家が大量に売り出したので、値が大きく下がった。私は昭和20年代後半から買い出した。国文学の古筆切はじりじり上がっていった。仏教系の切は昭和40年頃から急に値が上がった。誰かが動かしたようだ。

・手鑑はばらしたほうが道具屋がもうかる。古筆切10万、表具10万なら、仕立てて40万になる。だから道具屋はばらしたがる。


 続きます。

『孝経』雑感

江戸時代中期に出た『日本詩史』(岩波文庫)という本を読んでいたら、面白い詩が載っていました。
備前の松原一清の作った「牛牕(牛窓)に舟を泊す」という詩の一節です。

 漁家の児女亦字を知り、
 笑つて孝経を将つて老翁に教ふ。

漁師の娘でさえ文字を知り、『孝経』を教えを老人に説いている様子が歌われています。
この地の民に学問が浸透していたことが窺えるわけです。

『孝経』は孔子が弟子の曾子に孝を説いたものです。
「身体髪膚はこれを父母に受く、敢へて毀傷せざるは孝の始めなり。
 身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは孝の終りなり。」
これが基本理念でしょう。

そこで思い出すのは、室町時代のとある問答書の一節です。

 * * *

問ふ。学文(がくもん)にはいかなる文を読みてしかるべく候ふや。
答ふ。まづ孝経を読みて、孝行を尽くし侍るべし。
 忠臣は孝子の門より出づと見えたり。

 * * *

これは武家の初等教育を説いているようです。
武家の場合、その後、四書五経で仁義道徳を修得し、また兵法七書で軍事学を学び、さらに『東坡詩集』『山谷詩集』『三体詩』『詩学大成』などを読んで詩を、三代集(古今集・後撰集・拾遺集)『源氏物語』『伊勢物語』を読んで歌や連歌を作る便りとすることが求められます。

さて、これを読むと、『孝経』を学んで実生活において孝行を尽くしてこそ、その者は立派な忠臣になるという考えがあったことが窺われます。
『孝経』は世俗の教育の基礎ですが、仏教界でもそれに類するものはあって、『父母恩重経(ぶも・おんじゅう・きょう)』がそれに当たります。
どちらにしても孝行が大切であって、それが日本の教育の根本にあったように思います。
江戸に降ると、武家のみならず、漁師の娘でさえ、おそらく最低限の読み書き能力しかなかったのでしょうが、『孝経』は手許にあって生活の一部となっていたのかも知れません。

こういう詩の一節を読むと、戦前の修身教育のトラウマから戦後軽視されてきた道徳教育を、そろそろ見直してもいいのではないかなという気がします。

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平安時代、奥州の安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らとの戦役、前九年の役。
その将軍であったのが源義頼です。
このへんの歴史についてはまったく暗いのですが、絵巻物にも仕立てられていており、室町時代にはそれを読んだ公家の記録なども残っています。

この人について、珍しいエピソードが室町時代の文献に見られます。


義頼が奥州の安倍貞任・宗任征伐の大将として軍勢を従えて都を発ちました。
今とは違って一日で行けるわけではありません。
馬に乗り、また徒歩で街道を進んでいかなくてはなりません。
初日は美濃の番場まで至って、そこで宿泊することになりました。
その晩、義頼は屋敷の庭を眺めていました。
築山(つきやま)や遣り水が作られた美しい庭園です。
そこに7〜8歳くらいの子どもたちが沢山やってきました。
なんだろうと怪しみ見ていると、子どもたちは二手に分かれ、戦争ごっこをはじめました。
一方は築山に上って城を守り、他方は城を攻めています。
しかし、城は一向に落ちません。
そこで城攻めの大将役の子が言いました。
「この城は力攻めでは落ちない。
 さあ、戻って学問に励もう」
そうして子どもたちはふっと消えてしまいました。

その様子を見ていた頼義は思いました。
これは氏神八幡大菩薩の思し召しに違いない。
私に文武の文が足らないことをお示しになったのだ。
かくして頼義は都に戻り、猛勉強しました。

その後再び奥州に向けて進軍しました。
頼義が、とある野原を通過しようとしたところ、その上を雁の群れが列(つら)を乱して飛んで行きました。
それを見た頼義は勉学の時に読んだ本の一節を想い出します。

「敵軍、野に伏すときんば、雁、行(つら)を乱る。
 半月、水に遷るときんば、魚、釣(つりばり)かと疑ふ。」

これによって、貞任が伏兵を野原に潜ませていることを知り、兵を追っ払い、無事に通過することができました。

このエピソードはほかの文献に見えず、かなり特殊な話のようです。

声に出して読む古典

久々に我が意を得たりと思う文章に出会いました。
二松学舎大学21世紀COEプログラム中世日本漢文班編『雅学・声明資料集』第2輯(2007年)の「緒言」に次のようにありました。
ちょっと長文ですが、引用します。

 * * *

 国際化の旗印のもとに、外国語や、情報機器操作への習熟は言われるが、根幹にあるべき日本に関わる学問は、相変わらず何かおかしい。本道を外れている。このCOEプログラムに携わり、日々、日本漢文と向き合っているが、ひとたび学部の教場にかえって、文章の音読からさせてみると、古文はともかく、現代文もうまくいかない。それは日常的に垂れ流されるテレヴィジョン中の似非アナウンサーを手本にしているのだから止むを得ないといえばそれまでであるが、中学、高校の現場も音読をないがしろにしてきた結果かと推察される。このままでは、日本漢文どころの話ではないのである。本書の緒言にこうした文章が適当でないことはわかっている。しかし、日本漢文の普及、理解を諸方に求める時、この現状の打開が急務である。事新しい要求をするつもりはない。「読み、書き、話す」の徹底と、歴史教育、日本文化の普及。これを大学教育において始めなければならないのでは、まったく遅いのである。日本語の成り立ち、日本文化の成り立ち、そこのところを注意深く教授していけば、日本学は正しい道に戻れるはずである。

 * * *

一番思うのは、中学、高校で音読がないがしろにされているということ。
たとえば一例挙げると、どこの大学生でも「給ふ」を「タマウ」と言って、「タモウ」とは言わないのです。
では与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の「たまふ」を「タマウ」というかというと、これは「タモウ」と発音します。
つまりこの例だけ「タモウ」と読むものとおぼえて、他に類推を働かせることができてないんですね。
ここで「タモウ」というのだから、他の例もそう読むんじゃないかと疑わないわけです。
古文の教師は「給ふ」の文法的説明をマニュアル通り教えることはするけれども、声に出して読むことの大切さまで教えないのでしょう。
古文の教師が型通りに音読させるだけで発音を矯正できなかったから、大学でそんな基礎的なところから始めなくてはならなくなるのです。
そもそも発音の間違いなど、大学受験に必要ないのだから、生徒からすれば意欲も湧かないでしょう。
さらっと読み流して終わりにするのでは、ほとんど得るものはないと思います。
そこを工夫して、音読の大切さを伝えるのも教師が責務だろうと思いますけどね。
教師が能や狂言、歌舞伎、浄瑠璃といった古典芸能にちょっとでも関心をもって、その教養を授業に生かせば、少しはいい効果が出るんでしょうけれど。

あと、教師が仮名遣いと音声との関係について一見識をもっていないから、字音式仮名遣いの発想を無批判に古文に反映させてしまっているのも原因の一つだろうと思います。
歴史的仮名遣いで読み書きができない教師が多すぎます。
英文を書けない英語教師みたいなもので、古文を教える身として恥ずかしくないのかと思います。
でもそれで国語教師になれてしまう不思議さ。
教育への情熱だけで科目の専門知識や技術が十分問われてこなかった結果、大学教育において、原稿用紙の使い方とか品詞の説明とかに時間を割かなくてはならなくなるのです。
ますます古典文学離れが進むわけです。

ところで僕の高校時代の記憶でも、たしか古文の教師は「タマウ」と読んだと思います。
けっこう年輩でしたけど。
江戸時代は音読=素読が学習の基本でした。
明治時代の文人には『太平記』などいい文章の作品を音読して楽しむ人もいたといいます。
だから、読み書きをないがしろにしてきたのは、いわゆるゆとり世代あたりからではなく、もっと根が深く、たぶん、戦後教育か、もしくは受験戦争なんていうイヤな言葉がもてはやされるようになってからではないかと想像します。

なんか書きながら気が滅入ってきたのでやめますwww
最近、DVDで能を観ながら一緒に声に出して謡うことが面白いと思うようになりました。
能楽堂で観ると寝てしまうけど、自分で謡う分には楽しいものです。


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