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室町戦国期の文人貴族

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東坊城家系図雑感

東坊城(ひがしぼうじょう)家は菅原氏の一流で、室町時代以降、文章道の家として朝廷に仕えました。
当家の最も重要な人物として、前回、前々回に秀長を取り上げました。
 
東坊城家は誰が祖であったかということについて、一般的には菅原茂長(1343没、秀長祖父)とされます。
イメージ 1
茂長は五条長経の次男です。
それが新たに家を立てたわけで、いわば五条家の庶流ということになります。
しかし「東」とことさらに明記する点に不審があります。
「西」が立つことで「東」を相対して示す必要が生じるわけです。
「西坊城」が存在しない段階から「東」を明記するのは、後人が「坊城」を「東坊城」に改めたものではないかと思うのです。
その西坊城家は茂長の孫言長(ときなが)が立てました。
従来「坊城」で済んだものの、言長が分家したことで秀長の家と言長の家とを区別して称える必要が生じました。
そこで「東坊城」「西坊城」という家名ができたのではないかと思うのです。
 
 (五条)長経―(坊城)茂長―長綱―(東坊城)秀長
                      ―(西坊城)言長
 
東と西と、どちらが優位かといえば、いうまでもなく嫡流は東坊城家です。
だから室町期の当家は署名するとき、次のように記録されることがありました。
  坊城中納言菅原益長卿(『康富記』)
  菅坊城少納言長清(『大乗院寺社雑事記』)
  坊城中納言(『言継卿記』) ※東坊城盛長
つまり、東坊城家の人々は坊城家と称されてもいたのです。
東坊城=坊城で問題なしということで後世併用されてきたのであれば、分家した時点での当主を祖とするのではなく、坊城家を立てた人物を祖とすることで問題ないということでしょう。
東坊城という家名はあくまで庶流西坊城家に対する必要性がある場合の呼称であり、その後も慣用的に坊城家という呼称が使われてきたと考えられます。
そう考えるならば、茂長を東坊城家の祖とする記録は正しいでしょう。
 
そうはいってもやはり、厳密には秀長が東坊城家の祖といったほうがいいと思いますが…。
 
画像は江戸前期五条家から分家した清岡長時が元禄9年に写した菅原家系図です(奈良漬所蔵)。
茂長を東坊城家の祖とします(右中央)。
室町初期の公家東坊城秀長(ひがしぼうじょう・ひでなが)の日記を『迎陽記(こうようき)』といいます。
今日、南北朝〜室町初期の歴史資料として重要なものです。
 
公家の日記というのは、近代人とは違って、他人に見せられないような個人的な事柄はあまり書かれません。
後世の記録、直接的には息子や孫が朝廷の職務を滞りなく遂行できるように作法などをしっかり記述しておくことが多いのです。
ここに記述されたことに違わないように行えば先例通りにスムーズに仕事を果たせるわけです。
ともかく、先例を重んじる社会ですから、それに反するような所作をアドリブでやったりすると、その行事に参加した他の公家衆から批判されかねません。
実際、日記の中で、あの人の所作は間違ってる、あの者の作法は正しくない、言語道断だといった文言はしばしば見受けられるものです。
作法というのはそれぞれの家で違うように伝えることも多く、どれが先例として正しいかもはや不明のものもあるほどです。
 
それはともかく、記録書として重んじられた日記としては、古くは『中右記』『小右記』『台記』などありますが、室町貴族にとって、ごく近しい時代の『迎陽記』もまた重宝がられました。
そういうわけで後人でこれを書き写す人が多くあり、また必要な部分だけ抜書する人もいました。
 
江戸時代になりますと、日本の通史を編もうという人物が出てきます。
その一人に儒学者林鵞峰がいます。
『本朝通鑑』という大著を編纂しました。
鵞峰は本書について、次のように述べています(『国史館日録』・原漢文)。
  五条家に向陽記あり。
  彼の祖秀長の日記也。
  是、義満之時に当たる。
  此の二書出づれば則ち編輯に便有り。
五条家とは菅原家の一流です。
東坊城家は秀長の父の代に五条家から派生した家です。
その五条家に秀長の日記『向陽記(迎陽記)』があって、時代でいうと、足利将軍義満の時に当たります。
この二書というのは『迎陽記』と洞院公賢の日記『園太暦(えんたいりゃく)』を指します。
鵞峰はこの二つの日記があれば、室町初期の歴史が記せると判断しているのです。
 
『迎陽記』を公事の記録としてではなく、歴史書として捉えるようになるのは、あるいは鵞峰の頃からなのかも知れません。
今日、本書は『大日本史料』に抜粋された記事で読まれることが多いと思います。
しかしまだ全体は翻刻、公刊されておりません。
『園太暦』が戦前にすでに活字出版されているのとは対照的です。
そろそろ出てもいいのではないかと思われます。

東坊城秀長のこと

足利義満の時代、ようやく都の治安も安定してきたころ、菅原家の末裔に東坊城秀長(ひがしぼうじょう・ひでなが)という公家がいました。
暦応元年(1338)に生まれ、その後順調に昇進し、また要職にも就き、康暦二年(一三八〇)二月二十日、43歳のときに後円融天皇の侍読(じとう)になりました。
侍読とは今でいうと、天皇にご進講する役のことです。
なお、次に即位した後小松天皇のご進講もまた長く勤めました。
その後も順調に出世しましたが、これは足利将軍家との関係がよかったことにもよるかと思います。
 
将軍家との繋がりといえば、足利義満の師範役として『孟子』の講読をしています。
康暦2年(1380)には『孟子』を書写して義満に献呈してもいます。
これは白文ではなく、おそらく菅原家で伝えた訓読のほどこされたものではなかったかと想像されます。
義満の書記役のようなこともしていたようで、義満が朝廷で大将に任じられたときに、その任官記録を草しているし、また連歌の会では執筆(しゅひつ)を担当しています。
その後の義持・義嗣・義教にも師範役をしており(ただし義持は清原良賢を重んじたかも)、将軍家との関係は生涯失敗することもなく、良好だったと思われます。
 
こうした朝廷・幕府にも重んじられる人物であり、また学問や故実に通じた長老格であったことは室町時代における菅原家の立場を形成するに重要な意義があったと思われます。
これについてはまた整理しておきたいと思います。
 
秀長は応永18年(1411)に他界。
子孫は栄え、明治を迎えました。

先日、室町時代の文人貴族や歌人の伝記記事を辞典用に執筆することになりました。
恐ろしくむつかしい(資料的に)人物についても書くことになってしまいましたが、その一方で、前々から伝記を調べていきたいと思っていた人物もいます。
たとえばこんな人々。

・東坊城秀長(ひがしぼうじょう・ひでなが)
東坊城家は菅原家の一つ。
この人は室町初期の学者で、朝廷の文書作成のほか、足利将軍義満に『孟子』などの漢籍を教えたりもしていました。
室町期の菅原家の礎を築いた人物といって過言ではないでしょう。

・東坊城和長(ひがしぼうじょう・かずなが)
秀長の子孫です。
応仁文明の大乱を経て都は混乱。
公家衆の多くが都を離れる中、朝廷にとどまり、衰微する朝廷の儀礼や故実の復興に努めました。
戦国期の菅原家を支え、散乱した文書を編纂して文章道の維持に貢献した優れた人物でした。
詳しくは拙稿「東坊城和長の文筆活動」(『国語と国文学』82−6)参照。

・五条為学(ごじょう・ためざね)
菅原家の一流です。
和長の弟分といった感じでしょうか。
和長没後の菅原家を支えた人物です。
とはいえ、学問的功績はあまり残っていません。
『拾芥記』という短い日記が現存するのみ。
ですが、戦国時代の菅原家はこの人抜きに語れません。
その後の展開を見ると、五条家が大きいものとなっているようです。

・中原康富(なかはら・やすとみ)
15世紀中葉の文人です。
今風にいえば、書記官僚といったところでしょうか。
身分的にはあまり高くないのですが、その分、武家や町衆との交流も盛んで、彼の日記(『康富記』)は重要な史料となっています。
それをみると、歌や連歌の場を通して他の身分の人々と交流する様がよくわかります。
また文書作成の過程がよくわかる記録ともなっています。
筆まめで学問を好む人でした。
上記菅原家に対して明経道の清原家のもとにありましたから、清原家について知る上でも貴重な存在。


まだまだ担当分はけっこうあるんですが、とりあえず興味ある人物を何人か挙げるなら、上記の人々ですかね。
しかし問題が、彼らの伝記を書くのが和歌文学の辞典だということ。
みなさん、文章や学問の家の人々ですので、和歌はあんまし力入れてないんですね。
和歌文学史の観点から彼らを扱うのはちょっと大変かもです。


ともあれ、ときどき関連記事をここにも挙げていくつもりです。

前回の記事で取り上げた五条為学(ためざね)について補足します。

父為親が他界したのは為学が数え年で9歳、文明13年(1481)5月9日でした。
為親はそのとき少納言。
享年36歳でした。
それに先立つ4月23日、為学は内裏に初出仕しています。
おそらく病床にある父の代理であったのでしょう。

元服は長享元年(1487)11月21日、15歳のときでした。
為学元服の記事は内裏女房による記録『御湯殿の上の日記』のほか、甘露寺親長、近衛政家らの日記にも見え、他家にとって多少なりとも注目するところであったようです。
その二年後、禁裏での月次(つきなみ)御連歌の執筆(しゅひつ=記録係)をした為学について、親長は次のように評しています。

 菅原為学執筆、年少之者、神妙々々。

為学は年少ながら執筆の役をよく勤め、神妙であるというのです。
執筆の役は複雑な連歌のルールを把握し、且つ文字遣いの正誤をその場で判断しなくてはならないから、それ相応の教養を積んでいないとむつかしい役です。
17歳でこれをしっかり勤めている様子をみて、故実に通じた親長は感心したのでしょう。

実は為学はまだ元服する前の13歳のとき、すでに禁裏での月次の和漢聯句(わかんれんぐ)の御会で執筆を勤めたことがありました。
和漢聯句とは和歌と漢詩の短句を連ねていく文芸で、漢詩作りの能力も必要とされるものです。
このときの様子を、まだ若き天才三条西実隆(さんじょうにし・さねたか)は「感嘆に堪えうる者なり」と驚いています。

このように、為学は若くして菅原家の次世代を担う人材として、あるいは文章道の担い手として将来を嘱望されていたと思われます。

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