穴あき日記〜奈良漬のブログ

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室町戦国期の文人貴族

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戦国初期の菅原氏の重鎮五条為学(ためざね)は、文明5年(1473)、応仁・文明の大乱で荒廃した都で生まれました。
父為親を早くになくした為学は、車の両輪のごとく支えあってきた高辻家の庇護を受けながら成長したようです。
長じて兄弟のごとき高辻章長とともに15世紀初頭の菅原氏にとってなくてはならない存在になりました。

僕は個人的にこの人には関心があるのですが、著作は『拾芥記』という日記しか残っていないようです。
そのほかに短冊など散見されます。
本当は為学の人となりが知れるような著作が出てくるのが一番望ましいのですが、探したら出てくるという類の物でもありませんから、短冊やらなにやら自筆っぽいものもチェックしています。
で、短冊は一枚持っているのですが、それに加えて古筆切を2枚入手しました。
しかしこれはあくまで「伝為学筆」であって、真筆がどうか検討を要するものです。
なので喜ぶのはまだ早いのですが、まあ「伝」でもそれらしいものが手に入ったのはうれしいものです。

1、『新古今和歌集』春歌上の第84番歌「ふして思ひ」から第95番歌「ちり知らず」まで
2、同集春歌下の第107番歌「山桜」から第119番歌「春雨の」まで

一部画像を載せておきます。
これは「春歌下」112〜116です(原文に濁点はありません)。
   千五百番
112 かぜかよふねざめの袖の花のかにかほる桜の春の夜の夢 俊成卿
113 此ほどはしるもしらぬも玉ぼこの行かよふ袖は花の香ぞする 家隆卿
114 又やみんかた野のみのゝ桜がり花のゆきちる春のあけぼの 同(俊成卿)
115 ちりちらずおぼつかなきは春霞たなびく山の桜なりけり 祝部成仲
116 山里の春のゆふべを来てみれば入あひの鐘に花ぞちりける 能因

112番歌の右肩に「千五百番」とあるのは、『千五百番歌合』所収歌という意味です。
113番歌は本文に脱落していたか、本文書写段階で書き落したか、ともかく加筆した歌です。
なので、朱筆で書かれています。
114番歌の作者が「同」とあるのは112番歌の「俊成卿」と同じということです。
116番歌「ゆふべ」の右に「くれイ」とあります。
これは別の本(イ本)では「ゆふくれ(夕暮れ)」となっているということです。

春先にふさわしいものを手に入れました。

室町時代の武家の教育

室町時代の武家の教育について、参考になる記述がお伽草子の『筆結物語』にあります。
どの程度一般化できるのかわからないのですが、理由が簡潔に述べられていて面白いと思いました。

【読書】
1)孝経…忠臣は孝門から出るので
2)四書五経…孝経の後に読んで、仁義道徳を学ぶ
3)武七書…兵法を学ぶ
4)東坡・山谷詩・三体詩・詩学大成…詩・聯句の座での詩作のため
5)三代集・源氏物語・伊勢物語…歌・連歌の便りに

1)2)は修身道徳、3)は専門、4)5)は教養といったところでしょうか。

しかし、読書=学文(学問)だけではだめで、しっかり体を使うことも必要だといいます。
いわば【体育】ですね。
 飛越・早技・力技・荒馬・強弓・山を走る・水練
これが具体的な内容です。
面白いのは、山を走って鍛錬するのに鷹を使うこと、それから水練(水泳)をするのに鵜を使うことです。
ちょっと他の文献には寡聞にしてしりません。

近代教育と違って、算術がないのが特色でしょうか。
ある意味うらやましいカリキュラムです。

中原康富(3)男色3

嘉吉2年(1442)5月27日、中原康富は比叡山延暦寺に向かいました。
勅使として当山で翌4日まで行われる仏事に参加する中御門明豊に同道する約束をしていたからです。
彼らは東塔南谷の西尊院を起居に用いることになりました。

6月1日、その西尊院で僧侶を招いて連歌の会、つづいて歌会も開かれました。
そこで明豊はある法師について歌を詠んでいます。

  逢坂になほこそ迷へ 越えてさへ 恋路は山の果てしなければ

ついで玉蔵坊(ぎょくぞうぼう)に住む稚児を歌に詠みました。

  たちよりて返りし君が面影は 玉蔵(たまくら)にのみ恋しかりけり

これに対して康富も返歌を二首作りました。

  人の名の玉をみがきて 言の葉の花の光も君やそへけん
  玉蔵に面影かはす人よ さは 今日の今宵のそひねともがな

「玉蔵」は「たまくら」ともよむことから、彼らは「手枕」を掛けて詠んでいます。
明豊と康富との贈答歌のかたちをとっていますが、「君」は玉蔵坊の童子を指しています。

独り寝の手枕にその稚児を思い、また今宵添い寝をしたいものだと詠んでいるわけです。

つまり二人とも、実際に稚児を相手にしたわけでなく、いわば賞翫の対象として歌を作ってその美しさをめでているのだと思われます。

中原康富(2)男色2

応永27年(1420)11月16日。
中原康富は宝蔵坊へ、ついで西山の神蔵寺金泉坊へ公務のために赴きました。
その夜、金泉坊に宿泊した康富は寺の歓待を受け、連歌二百韻を張行し、そうして翌朝寺を出たのでした。
再び宝蔵坊に戻った康富は、そのままそこに泊ることになりました。
その間のことを康富は日記に「其の間の事、記すあたはず」と記すだけで、具体的な事柄を書き留めていません。
一体、どのようなことがあったのでしょうか。

康富はその日も続いてこの坊にとどまっています。
この日の日記には職務についての記事はなく、ただ次のように記しているだけです。
  予、夜、宝蔵坊に宿る。
  朋童玉寿丸、終夜参会す。
  予、十首を詠み、明朝これに戯す。
康富はこの夜、この坊の稚児玉寿丸と夜を共に過ごしました。
そして明けて玉寿に歌を10首贈ったというのです。

夜を共にした朝に贈る歌は、男女の間柄であれば、後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しむ歌ですね。
康富が玉寿に遣わした歌とはどのようなものであったのでしょうか。
その手掛かりは、その日の別の歌の贈答からうかがわれます。

   忘めや 月すみのぼる山の井の深きなさけのありし夜半(よは)をば  康富
「忘れることがあろうか。月の澄み昇る山の井のように深い君の情をもらった昨夜のことを。忘れることなどないよ」
康富はそのような歌を玉寿に与えたました。
それに対して玉寿は次のような歌を返しました。

   忘れずよ 君のなさけも山の井の深きおしへの道をならへば  玉寿
「忘れません。あなたの情けも、山の井のように深いあなたのお教えを習いましたので」

玉寿とともにすごした夜を「なさけのありし夜半」と表現しています。
ここにいう「なさけ」が男女間にいう「なさけ」と同じであることは十分考えられることでしょう。

中原康富(1)男色

15世紀中期の儒家の逸材として5本の指に入るであろう人物に中原康富がいます。
前から気になっていた記事が『康富記』応永24年(1417)9月2日の条に見えます。

 雨中、徒然(とぜん)たるの間、予一首これを詠ず。
   寄月恋
  はかなくも来ぬ人待たる 夕暮は涙を友の月とこそ見れ  康富

雨が降ってつれづれに過ごしていたので、「月に寄する恋」と題した歌を詠みました。

 西洞院(にしのとういん)春菊方に書き送るの間、かの児(ちご)の返事に云く、
   寄心恋
  恋にふるおもひはたれかまさるらん 人の心を知らぬばかりに  春菊丸

京都の西洞院に住む春菊丸という子どもにその恋歌を贈ったのでした。
雨の夕暮れに来ない人を待ちわびる風情の歌です。
そうしたら、春菊から今度は「心に寄する恋」と題する歌が返ってきました。

このやり取りを読むと、どうもただならぬ関係なのではないかという気がします。
そういうふうに捉えていいものかどうか??

春菊の父は絵師で翌年50歳で他界します。その晩、康富は春菊のもとに行って慰めてあげます。
不憫に思いますが仕方ありません。春菊は翌日出家することになります。
葬式は五条坊門猪熊にある円福寺で行われました。
ここは中原家の菩提寺です。
康富と春菊とはこの寺の付き合いが縁でできたものかもしれません。

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