穴あき日記〜奈良漬のブログ

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和本・古本

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法政大学には能楽研究所という付属研究所があります。
日本で有数の能楽資料の専門機関です。
昨日、一昨日と本学で中世文学会が開催されました。
それに併せて本研究所で展覧会が催されたのでした。

展示数は約70点。
室町時代の古写本から近世の能楽資料まで、また謡本から書状、能絵巻、口伝書、舞台や道具の図など多種多様でした。

いくつか個人的に面白いと思った資料がありました。

・天文8年(1539)書写の伝山崎宗鑑筆謡本
宗鑑は初期俳諧師です。

・鳥養道セツ(とりかい・どうせつ)手沢謡本
謡本としては名高い車屋本を出版したことで知られる江戸初期の人。
能書家でもあります。

・万治2年(1659)山本長兵衛刊、観世流謡本
「謡本」とあるから、本文だけかと思いきや、細かに注釈が施されています。
『謡抄』やオリジナルの注釈のようです。
書名をみただけだと注釈書とは気付かないもので、こんなものもあるのかと思い知らされました。

・謡抄(古活字本)
古活字本『謡抄』の原本、初めて見ました!

・寛永18年(1641)、林道春奥書、観世信光画像賛
当時一流の学者林道春の自筆の賛です。
訓読が付いており、非常に読みやすいもの。

・『能之秘書』(慶長頃)
折本装の小さな本。
鳥の子紙を使って両面書。
毎半葉7行書。
行の左端に角穴あり。

あまり時間がなかったので、ざっと見て終わりでしたが、すごい展示でした。


ちなみに関係ないですけど、学会ではお伽草子『浦島太郎』の研究発表の司会をやりました。
緊張しましたorz

イメージ 1

明治時代の長野町(現長野市)にあった貸本屋について、前回の記事に引き続き取り上げます。

改装表紙と本文の間に何枚か紙が綴じ込まれています。
そのうち、表紙見返し部分にはこの店の「書籍縦覧所」への入所方法がつぶさに書かれています(明治22年1月記)。

・開閉時間は午前8時〜午後5時
・入場券が必要。
・腰弁当持込み可。
・入場券3銭(女性と子どもは1銭5厘)
・観覧中に破損した本は弁償してもらう
・借りたい人は「貸本規則」によって手続きする

外枠の白抜きの文はこんな感じです。
ただし下部は半分裁断されて判読困難なので、今仮に、おそらくこうだろうという文を示します。

(上)今般公衆ノ御便利ヲ計リ
(右)仮リニ書籍ノ観覧所ヲ自宅内ニ設置シ
(左)常ニ東京長野両所新聞並ニ雑誌数種ヲ備置キ
(下)上顕ノ手続ニテ諸君ノ縦覧ニ供ス

つまり図書を閲覧する所を自宅に設けて、東京及び長野の新聞と雑誌数種を置いて、上記の手続きで見られるようにしましたといっているわけですね。
そして、貸本だけでなく、入場料をとって読書できるようなシステムをとっていたことがわかります。
公共図書館が出来るまではこうした私立図書館ともいうべき性格を兼ねる貸本屋、あるいは本屋が随所にあったのではないかと想像されます。

この会真堂という貸本兼薬局は現在どうなっているんでしょう。
まだ残っているのでしょうか。
気になるところです。

明治期長野県の貸本業

イメージ 1

貸本業というのは江戸時代からありました。
明治時代になってもなお需要がありました。
近代における貸本業の実態について調べたことがないので、どれほどの意義があるのは不明ですが、ここに紹介する本も貸本だったものです。

『猿曳』という題の小説。
ただし外題(げだい)には「猿引   全」と墨書されています。
これは柳塢亭寅彦(りゅうおてい・とらひこ)という明治期の作家の小説です。
寅彦は戯作者柳亭種彦の孫弟子で、三世種彦を名乗った人物です。
『猿曳』は明治22年(1889)に刊行されたものです。
時しも言文一致運動の時代。
寅彦も口語文で文章を書いています。

さて、画像に挙げたように、僕の手もとにある本は随分小汚い表紙です。
最初は反故紙を使って表紙を補ったのだろうなどといい加減なことを思っていました。
が、よくよくみると、そうではなく、表紙に貼り紙がしてあるのでした。
その上で柿渋で全体を塗り、丈夫に仕立てているのです。

この貼り紙には次のように書かれています。

(上部白抜きの横書き部分)
 各国有名売薬大取次

(中央縦書き部分)
 信濃国長野町
 蔵書/貸本 非売品
 はれものきりきづによし
 真治膏発売元 会真堂
 幣堂ノ印章アル書籍ニシテ若シ借主
 不分明ノモノ御見当リニ相成候ハバ
 一寸御報知被成下度相当ノ御礼可仕候

(下部白抜きの横書き部分)
 請・妊孕錠・合

現在の長野市に会真堂という店がありました。
この貼り紙では薬の宣伝もしています。
つまりこの店では貸本と薬商とを兼ねていたことが分かります。
「幣堂の印章のある本で、もし借り主が分からぬものを見つけたら、ご一報ください」
という趣旨のことが書かれているのが、面白いですね。

甲冑の書2

甲冑の書はもう一冊手もとにあって、こちらは冊子本(楮紙・半紙判)です。
タイトルは『甲冑説作人景図』とありますが、ちょっと意味がわかりません。
『国書総目録』には同名の書名は記載されていないので、調べがいがあります。
さしあたり、手がかりは5つの文。

1、「三種七種九種ノ説、小笠原家ノ伝書ニ記ス」
2、「右者、近松茂矩集諸記撰之」
3、「右、佐々木盛綱ガ家ノ紀ナルヨシ、嫡伝、加治縫殿助ノ秘書ヲ写ス也」
4、「神伝鎧縅緙巻   加治縫殿助伝」
5、「右、此巻者、佐々木盛綱ヨリ伝来ノヨシ、武陽軍師加治縫殿助伝書ナリ」

まず1の小笠原の伝書というのは具体的には不明。
ただ小笠原家は中世以来の武家故実の名家として知られる人です。
今注釈作業をしているお伽草子にも小笠原家の故実がいろいろ出てきます。

2の近松茂矩は尾張藩士で、兵学者でした。
著作がたいへん多く、確認できるだけでも60点以上あります。
甲冑のみを扱った本としては、
 『甲冑古伝』(享保4年)
 『甲冑難問(享保10年)
 『甲冑古伝附録得意書』(享保14年)
 『甲冑十二段書』
 『甲冑深秘古伝口義』
 『甲冑秘記』
などがあります。

3、4の佐々木盛綱は、院政期末〜鎌倉初期、源平合戦の時代の武将です。
頼朝に仕え、富士川や藤戸の合戦で活躍しました。
盛綱は加治盛綱とも呼ばれます。
その嫡流が加治縫殿助なる人物ということですが、名がわかりません。
5に武陽軍師とありますので、江戸在住の軍師ということなのでしょう。
この人の著作には『陽車懸之巻(ようしゃがかりのまき)』という巻物が伝わっています。
宝暦7年(1757)に弟子に伝授したという記録です。

このようにみてくると、本書は近松茂矩と加治縫殿助の二人の流派を取り込んだもののようです。
成立は18世紀後半ではないかと思われます。
今のところ、これ以上のところはわかりません。


内容的には故事説話が随所に引用されており、文学資料としての価値も見逃せません。

甲冑の伝書

イメージ 1

『甲冑之書』という巻物が手もとにあります。

どの流派で誰が写したものか、まったく不明です。
甲冑関係の伝書はおびただしく伝世しているので、こうなると、僕のような素人には手に負えません。

内容は以下の通り。

 藤威之事
 日威之事
 捃縄目之事
 濃桜威之事
 卯之花威之事
 端之匂妻之匂之事
 匂肩之事
 支那皮威之事
 樢威之事
 冰魚威之事
 紫裳濃之事
 紅下紺之事
 萌黄匂之事

種々の甲冑の説明がなされています。

画像に挙げたのは巻頭部分です。
藤威(ふじおどし)の特徴と由来が書かれています。
それによると、古代、大友皇子が美濃国不破の関に行幸された時、この色の甲冑を召されたからだといいます。

大友皇子は天智天皇の皇子で、壬申の乱で敗れてた人です(672年没)。
武具の伝承に時々関わってくる人のようです。
「捃縄目之事」にもこんな伝説が記されています。

 人皇四十代の帝、天武天皇、御位を后に譲り給ひ、
 御出家有りて、吉野山に籠り給ふ。
 大友の太政大臣、彼の 天皇を攻めらるるに依る。
 其の時、天皇、伊勢太神宮、御参詣有り。
 其れより美濃国南宮勝大領、御頼み有り。
 美濃・尾張両国の勢を以て、山中黒血が橋を限り、神軍有り。
 伊吹之宮、大友大臣、討ち捕り給ふ。
 其の時、山より、血、流出せしより、彼の橋を黒血が橋と云ふ也。
 本は伊吹一宮成れども、此の時、二宮に成り給ふ。
 南宮・二宮・一宮に定まり給ふ。
 其の後、 天武天皇、御着背捃縄目と云ふ御鎧也。

何か所か「天皇」の前に一字分空白がありますが、これは欠字といって、敬意を表しているのです。


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