穴あき日記〜奈良漬のブログ

『熊楠と猫』発売中!/ツイッターID:@NarazakeMiwa

近世文化人

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

神仏を闇雲に信じることなく、とりわけ庶民の熱狂的な行動を冷ややかにみることは、江戸時代の知識人に一般に認められるところです。
江戸前期の作者不詳の仮名草子『大仏物語』にもやはりそうした視点で記したエピソードが載っています。
 
「このごろ世間を見れば、ある所に不思議なる清水が涌き出で、
 人の病は申すにおよばず、かたわなる者までもこの水さへ飲めば、
 たちまち平癒するといひふらす故に、
 近国遠国の者どもが奇特のおもひをなし、
 歴々と生年寄りたる衆が、犬ひきのごとくに竹の筒を持たせ、ひきもちぎらず通り、
 過分の路銭を費やしけり。」
 
ある所に万病に効く霊水が湧き出たというので、全国から病人や年輩の人々が水筒代わりの竹筒を持って惹きも切らずにやってきます。
旅費も馬鹿にならないだろうに。
 
「その後、宿所に帰りたる者どもをみれば、あるいは道中にて風邪をひき、咳気をする者はあれども、
 一人も病の治りたるものをみず候ふ。」
 
ところが宿に帰った彼らを見れば、一人として治った者などいませんでした。
 
「又いつぞや、清水坂にてある比丘尼がまじなひをもつて四百四病をたちまち治すると申せし故に、
 洛中の者ども、『これこそ不思議なれ』とて、毎日つめかけ、
 大事の金銀をいたづらにかの比丘尼に取らするとみえて候ふほどに、
 ただ人ほど、たらしよき物はなきとみえて候ふ。」
 
またいつだったか、清水寺の清水坂で、ある尼がまじないで万病をあっという間に治すという噂がたちました。
そこで京中の人々がこぞってつめかけ、その尼につぎ込みました。
人間ほどだましやすいものはありませんな。
 
『大仏物語』が出版されたのは寛永21年(1644)。
このころの都市の信仰のありかたが垣間見えます。
人々は病気平癒の噂を信じて遠いところからもやってくるし、出費も厭いません。
冷静に見たら疑わしい霊水の話やいかがわしい宗教者であっても、病が治るという話にすがりたい気持ちがあるのでしょう。
今日、新興宗教にすがる信者たちを見る我々の視点に似ている気がします。
 
これらは江戸の庶民の間におびただしく生まれる流行り神たちの前段階と見ることもできるかも知れません。

鶴亀の陣形

イメージ 1

イメージ 2

合戦に臨むときの兵馬の配置、つまり陣形にはいくつかあります。
古典的には孫子や諸葛孔明の八陣が広く知られています。
魚麟・鶴翼・雁行・彎月・鉾矢・衡軛・長蛇・方円などが代表的なもの。
とりわけ魚麟と鶴翼は対として日本でも中世以来の文献にたびたび出てくる著名なものです。

魚麟はその名の通り、魚の鱗の形。
『源平盛衰記』には木曾義仲が粟津合戦において用いたことが記されています。
「魚の鱗をならべたるがごとし。
 さきは細く、中、ふくらかにこそ立ちたりけれ」

       凸
    凸 凸 凸
   凸 凸 凸 凸
       凸

   こんな感じ。

一方、鶴翼は鶴の翼を広げたような陣形です。

   凸       凸
    凸     凸
      凸 凸
       凸

   こんな感じ。

魚麟は少数で突撃するのに適し、鶴翼は多数で敵を囲い込んで攻撃するのに適しています。
この陣形は日本の合戦の歴史の中で随所に見られたようです。
軍事史の専門ではないので、よくわかりませんが、こういうの調べてみるのも意外と面白いですね。

さて、僕の手もとに『鶴亀変化之業(きかく・へんげのわざ)』という写本があります。
窪田清音(くぼた・すがね/1791-1866)という幕末の兵学者の著述になります。
清音は数多くの著書を残しました。
『海戦布策』『海防或論』『教戦略記』『軍用一騎伝別伝』『剣法奥儀戦場秘授別伝』『剣法初学記』『刀味記』『野島流水軍古法抜書』『武教全書正解』『武術肝要集』『練兵弓砲規則』などなど枚挙にいとまがありません。

『国書総目録』によると、『鶴亀変化之業』は嘉永5年(1852)の写本が東京国立博物館に所蔵されています。
しかし著者名が記載されていません。
僕の本はそれに先んじること7年の弘化2年(1845)に清音が作ったものを文久4年(1864)に転写されたものです。

これを読むと、〈鶴亀〉という陣形は清音のオリジナルのようです。
ネーミングは〈魚麟〉〈鶴翼〉〈雁行〉のように動物を意識させるものなので、それらに示唆を得たものなのでしょう。
詳細は省きますが、図示されている陣形を画像に挙げておきます。

この陣形が実際に採用されたことはあったでしょうか。
幕末は各地で内戦があったわけですが、はたしてどうだったか、知りたいものです。

江戸前期の医家中山三柳(さんりゅう)が幼年時代を過ごした土地は奈良でした。
正確な記録はないのですが、『醍醐随筆』の記事からうかがえます。

優れた文人であった西洞院時慶(にしのとういん・ときよし)の5男忠康は慶長17年(1612)に誕生しました。
幼少期は乙丸(おとまろ)といって、奈良の興福寺一乗院にいました。
そのころ、三柳少年は一乗院に通って乙丸と遊んだりしていました。
その後、乙丸は都に戻り、後水尾院に仕えることになりました。
それがいつ頃かははっきりしませんが、『公卿補任』によると、寛永7年(1630)19歳で元服し、従五位下に昇っています。
その忠康が没したのは寛文9年(1669)8月27日でした(『公卿補任』)。
享年58歳。
『醍醐随筆』にも忠康の人となりや死期が近づき病床でやつれた様が描かれています。
三柳は医師として診察もかねて見舞に来たのでしょう。

それから35日後に他界しました。
ということで、三柳との最後の面会は寛文9年7月23日のことだったようです。
没後に三柳は次の歌を詠んでいます。

 四十(よそじ)あまり なれぬる秋の いかにして
 今年ばかりや 夢となるらん

忠康は58年で他界したから、40あまりの交友となると、18歳以前からのものだということです。
この点、奈良での幼年時代の思い出と矛盾しません。

もうひとつの記事は、かの戦国時代最大の幻術師果心居士(かしん・こじ)についてのものです。
三柳は次のような思い出を記しています。

「この居士が術は、奈良辺の老人、目の当たり見たりといふもの、山人(=三柳)が童稚のころ語りぬる。
 元興寺の塔へ、いづくよりか登りけん。
 九輪の頂上に立ち居て、衣服脱ぎてふるひ、またうち着て帯しめて、頂上に腰かけて、世上を眺望して下りたるとぞ」

つまり三柳が幼少時代、奈良のあたりには果心居士を実際に見たという老人がいたそうです。
元興寺の塔のてっぺんに登って服を脱いだり着たりして、世上を眺望しておりたのだそうです。

果心居士についてはさまざまな人が言及していますので、今日でも知名度は高いと思います。
僕の好きな『太閤立志伝』というゲームにも出てきますw
吉川英治『神州天馬侠』では武田家復興の裏で活躍する仙人のような人物として描かれています。
この作品でもやはり塔のてっぺんに座す果心居士が描かれています。
たぶん、『醍醐随筆』のこのエピソードが元ネタなんでしょう。

果心居士については実在が疑われていますが、『醍醐随筆』の記事を読むかぎり、実在したのではないかと想像します。
ただ、時とともに尾ひれがついて超人的な人物になっていっただけではないかと思っています。

この果心居士はもともと興福寺の僧でした。
忠康もまた興福寺一乗院に住んでいました。
三柳も興福寺となにか繋がりがあったのでしょうか…。
ともあれ、この忠康卿との交友と、果心居士の話を聞いたという記事から、三柳が奈良で幼少期を過ごしたことは確認されます。

イメージ 1

中山三柳(さんりゅう)という人について、というより、その著書『醍醐随筆』に関わることを、本ブログでたびたび書いています。

耶馬渓〜中津城
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/10294170.html
中山三柳・醍醐の里・明智藪
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/16089774.html
中山三柳と向井去来の父と庸軒流の人々
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/16136382.html
明智光秀を討った農民の子孫と白狼
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/16176498.html
大蛇の話
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/16297460.html
大蛇の話(承前)
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/16340665.html
江戸時代の天狗の一面
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/16429366.html

この人の伝記はよく分かりません。
簡単に略歴をまとめておきます。

中山三柳の名は忠義。
長沢道寿(どうじゅ)に医学を、三宅道乙(どうおつ)に朱子学を学びました。
その後、美濃国大垣藩主の戸田氏鉄(うじかね)に仕えました。
この間、病を得、官を辞することにしたものの、許されず、医業を廃することを誓ってようやく大垣を去って京に戻りました。
(ただし、このエピソードは後世の書に書かれているだけで、事実かどうか不明です)
すでに三柳の医術の名声は高く、治療を乞う者が後を絶ちません。
そこで三柳は門弟らに医業をさせ、その指導にあたりました。
そしてのちに醍醐山の麓に庵を結ぶことになります。
約3年間、ここに滞在し、再び帰洛してからまとめた随筆が、すなわち『醍醐随筆』です。
貞享元年(1684)6月20日に他界。
墓は京都黒谷の金戒光明寺にあります。
※墓の写真についてはHPをご参照ください↓
http://narazuke.ichiya-boshi.net/inubou.html

大垣藩滞在のあとさきは未確認ですが、慶安元年(1648)を前後して、藤堂家にも仕えていました(『宗国史』)。
このとき『飛鳥川』という本を著しています。
このへんのことは、藩の記録などを調べれば、もっと具体的なことがわかるかも知れません。

とりあえずメモ程度に書きとどめておきます。

※画像は『秀雅百人一首』より。

イメージ 1

中山三柳(なかやま・さんりゅう)という文人は京都で医業を生業としておりました。
京都の前には大垣や伊賀などを転々としており、その生涯を年表にして表すのはむつかしいでしょう。

一般にはマイナーな人物ですが、妖怪など好きな人からすれば、犬神の記事が載る『醍醐随筆』の著者ということで、「あ、あれか」と思い当たるかもしれません。
俳句好きな人なら、芭蕉の弟子向井去来の父と交流があった人物。
お茶好きな人なら、藤村庸軒の友人。
まあ、17世紀中葉の京都在住の文化人と交流のあった人なので、他にも調べれば交友関係が判明するかも知れません。

・向井玄升(げんしょう/元升とも)は去来の父で、慶長14年(1609)生まれ。
延宝5年(1677)他界。
もともと肥前長崎の医者でした。
万治元年(1658)に上京して宮中などで医療を行いました。
本草学に歴史の上でも功績があり、後世の書には
「本草を講究して物産採薬を事とすることは、向井玄升より始まるといふ」
という評価も受けています(『閑散余録』)。
去来は玄升の次男です。
長男の元端は公家の一条家に仕えました。
三男は長崎の書物改役で、去来同様、芭蕉の弟子で、魯町と号しました。
『養生訓』で知られる貝原益軒はこの玄升の弟子です。

・藤村庸軒(ふじむら・ようけん)は京都の茶人で、庸軒流の祖です。
この人との交流は『醍醐随筆』の中にいろいろと見出せます。
この人の嫡子は藤村正員。
三柳には世継ぎがいなかったようです。
延宝7年(1679)、正員の次男が三柳の養子になりました。
延柳と号しました。
その墓は黒谷の金戒光明寺、義父三柳の墓のそばにあります(画像参照)。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
奈良漬
奈良漬
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
友だち(2)
  • トーヤ
  • 太陽求めポチが行く
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事