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鳥取の心学者平井洗心について、昨日の記事の続きを書きます。
前回、講舎成教舎の所在について不明と書きましたが、この点、『心学無我袋』の中に明記されていました。
成教舎、岩井温泉地、天保九戊戌年、焼失ス。
今、鳥府鹿奴海道筋、再建ス。
岩井温泉とは鳥取県岩美郡岩美町にある温泉で、今でも温泉地として知られています。
そこにあった講舎は天保9年(1838)に焼失したので、その後、鳥取城下の鹿奴海道(鹿野海道)沿いに再建したとのこと。
とすれば、前の記事に挙げた奥書に見える「川端二丁目」は今の鳥取市内ということになります。
川端2丁目は今でも使われている地名で、鳥取城から南西へ1キロ弱向かった旧袋川沿いにあります。
(成教舎跡は今どうなっているのでしょうか。気になります。)
ただし、焼失は天保9年。
洗心が他界したのは天保8年。
だから、洗心の講釈自体は岩井温泉にあった最初の講舎で行われ、したがって『心学無我袋』の中身はそこでの記録ということになります。
その後、息子の洗信の時に城下に移ったわけです。
(親子でセンシン(洗心・洗信)とは…)
で、この書が洗信の自筆かというと、実はそうではありません。
洗心の講釈を洗信が聴きとってまとめたものであるには違いありませんが、その後、子孫が写しているのです。
『心学無我袋』では、まず巻頭に洗心による創立の趣意が記されています。
これが天保8年5月、洗心最晩年のときです。
この趣意書の日付が創立の日付と等しいならば、洗心自体の講釈は1年も行っていないことになります。
ついで息子の洗信が「随之弁」と題して講舎を引き継いでいます。
だから成教舎は実際は洗信が盛り立てていったものと思われます。
これに続いて平井乗心が文を載せています。
最後に嘉永元年(1848)8月、平井洗忠が歌を一首詠んでいます。
父母ニ貰ヒ請ケタル此ノ玉ヲ露ノメグミニ光ヲゾマス
というわけで、本書の書写者は洗忠ではないかと思われます。
成教舎を世襲で継いでいき、洗忠がこれを写したのでしょう。
さて、洗心は京都の代表的な心学講舎明倫館で学んだようです。
ここでは数多くの人が学んだので、地方の商家や庄屋の子などが、帰郷後、洗心と同様、地元で私塾を開いて教えを広めることも多かったろうと想像します。
洗心の講釈の内容は、講義の記録『心学無我袋』によって知られます。
構成は上下2巻で、上巻を「眼部」、下巻を「耳部」と題します。
「張出之事」「舎発之事」「御高札写之事」など事書(ことがき)によって段が設けられ、全部で28段。
前回紹介した奥田頼杖の心学道話集と違って、こちらの文体は文語文です。
鳩翁や頼杖の道話にくらべて硬い内容になってます。
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