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私は昔から乱読癖があって、無闇矢鱈とジャンルを問わず読んできました。
音楽もやはりそうです。 色々渉猟していくうちに、心の片隅に居場所をみつけてとどまるものが出てきます。 そうして、長い年月を経てなおとどまり、ふとしたきっかけで前面に浮かび出てくる、そういう音楽があります。 ホロヴィッツによるスカルラッティのソナタ集、グールドによるバッハのゴールドベルク変奏曲、ニノン・ヴァランによるフォーレの歌曲集がそれです。 たぶん、今後数十年経っても、かけがえのない作品として生き続けることでしょう。 ではこれまで読んできたものに、同様に死ぬまで変わらぬ価値を持ち続けるものはあるだろうかと自問してみます。
これまでは、音楽のように即答することはできませんでした。 もちろん、好きな本は何冊もあるわけですが、年月を経るうちに色褪せて関心を失うものが多く、いまいちはっきりとしませんでした。 しかしようやく墓場まで持っていくに惜しくない本が出てきました。
『伊東静雄全集』(増補改訂版、昭和41年、人文書院)です。 伊東静雄の作品については昔から岩波文庫の『伊東静雄詩集』を座右に置いて、時々開いて読んでいました。
昔から好きな詩人であったことに違いなのですが、近代詩は専門外だから、文庫本で読むくらいでいいだろうと、その程度に思っていたのですね。 でも先日ふと未読の積読本だった本全集を読みたくなったのです。 するとこれが実に面白いもので、540頁もある本ですが、二日間で一気に読んでしまいました。 いろいろと遅れている仕事があって不義理ではあり、申し訳ないと思いつつ、あまりの面白さに読み通したのです。 全集は詩だけでなく、散文(エッセイの類)、日記、書簡も収録されています。
伊東の詩は格調高く、抒情性にあふれた美しい作風です。 とりわけ昭和22年に刊行された第4詩集『反響』は素晴らしく、その中にある「夕映」(昭和21年発表)は事あるごとに想い起されるものです。 わが窓にとどく夕映は
村の十字路とそのほとりの 小さい石の祠の上に一際かがやく ゆっくりとした調子で始まるその詩は
ねがはくはこのわが行ひも
あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ 仮令それが痛みからのものであつても また悔いと実りのない憧れからの たつたひとりのものであつたにしても と、静かな情熱に満ちた調子で終わります。
こうした伊東の詩は一番相性がいいのだろうと、つくづく思ったのでした。
日記は日記で、詩とは異なり、戦前から戦後にかけての市井の様子がよく伝わる記述になっています。
細やかな記述をしているのは、どうも小説の材料とする企てがあったからのようです。 「世相の変遷を記しておくのが目的であります。これを草稿にして小説にしたいものだといふ野心もあるのです」 と書かれた書簡が残っています(昭和19年、書簡番号262)。 書簡はこれまた詩とも日記とも違う面白さがあります。
青年期から壮年期にかけての、すこし毒舌も含んだ書簡は、才気走った気持のいい文章です。 一方、戦後は闘病生活の苦しみが伝わると同時に、若い詩人を育てようという気配りも感じられ、胸に迫るものがあります。 作品、実生活、手紙を通しての人々との交流。
これまでは作品ばかり読んできましたが、人間伊東静雄もまた魅力的に思われてきて、ますます好きになりました。
この秋のちょっとした発見でした。
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近代文化人
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お久しぶりです。
先日、昭和2年(1927)11月22日に書かれた南方熊楠の手紙を読みました。
雑賀貞次郎という弟子筋にあたる郷土史家に宛てたものです。
これは郵送されたものではなく、知り合いの子どもを使いにして持って行かせたものでした。
11月も下旬となり、寒い時期。
しかも夜8時。
子どもからすれば眠い頃合いです。
家の中でぬくぬく暖まって寝て居りました。
そこに熊楠がやってきて、手紙を持って行ってくれと頼みました。
冬の晩に起こされて使いに出ろとの仰せ。
天下の南方先生の命といえども、グズって使いに出る気がしません。
そこで熊楠は懐柔策をとりました。
「雑賀宅に行けば、『牟婁口碑集』(雑賀著)と、饅頭なりアンパンなり振る舞ってもらえるから行ってくれ」
これでようやっと、使いに出てくれました。
さて、上に熊楠の台詞を挙げましたが、これは手紙の文面の趣意をとったまでのもので、まったく厳密なものではありません。
原文にはこうあります。
牟婁口碑集一冊トマンチウナリアンパンナリ十銭ガノト振舞ヒ下サルコト受合ヒト申シ立テ漸ク貴方ヘ行テモライ候間、間違ヒナク右二品御フルマヒヤリ被下度候
(『牟婁口碑集』1冊と、饅頭なりアンパンなり10銭のものと、振舞い下さること受け合いと、申し立て、ようやくあなたの所へ行ってもらいましたので、間違いなく右2品、御振舞いくだされたい)
文中に「十銭ガノ」という表現が出てきます。
ちょっと珍しいでしょう。
〜ガノという言い方は今でも使う地方があるのでしょうか。
『日本国語大辞典』ではこれを名詞として扱い、コトやモノの意をあらわす形式名詞と説明しています。
初見の例は古く、平安歌人曾禰好忠の歌集『曾丹集』に
人妻と我がのと二つ思ふには馴れこし袖はあはれまされり
と見えます。
口語資料としては歌舞伎『加州桜谷血達磨(かしゅうさくらがやつちだるま)』に「私がのぢや」とみえるようです。
これは昭和12年(1937)刊行の湯沢幸吉郎『国語史―〔近世篇〕―』(刀江書院)に挙げられている例です。
「私+が」の連語の連体修飾語に付いて、これに体言の資格を与えるものということです。
湯沢氏によると、このような言い方は江戸後期には「全然せぬではないが、「私のだ」のやうにいふのが普通のやうである」とのこと。
ちなみに湯沢氏は戦後に『江戸言葉の研究』(昭和29年、明治書院)という大著を著しました。基本的に上記『国語史』の構成を汲んで、数多くの用例を引きながら詳述した名著です。
しかし、なぜか上の「私がの」の事例をはじめ、〜ガノについての解説を省略しています。
なぜでしょう…
ともあれ、熊楠が書簡に記した「十銭がの」というのは古くから文献に稀に見られるものではあったわけです。
「十銭のもの」と言い換えることができるし、当時もそれが一般的だったと思われますが、熊楠の言葉づかいからすると、「十銭がの」のほうが普通だったということでしょうか。
これはあるいは和歌山方言としては一般的だったかも知れませんが、詳しいことは調べていません。
さて、今日はこれから名古屋に行ってきます。
ではでは。
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少し心にゆとりが出来たので、ブログを再開します。
昨日、松本三喜夫『野の手帖―柳田国男と小さき者のまなざし』(青弓社、1996年刊)を読み終えました。
戦前〜戦後の在野の民俗学徒の動向を、本人や周囲からの聞き取りを含めた調査によって把握しようとしたものです。
甲斐の土橋里木(りき)、宇和島の山口定助、越後の青木重孝、島根の牛尾三千夫を中心にその周囲の人々にも目を向けて、当時の様子がよく見えてきました。
そして、1編1編読むたびに、打算抜きで純粋に学問に打ち込む無名の人々の面影に心が震えました。
僕は名のある偉い学者よりも、こういう人々にこそ惹かれます。
昨年暮れに読んだ『中世の豪族と村落 下総国相馬郡を中心として』(1988年)という本を自費出版した薮崎香氏もまた心惹かれた方でした。
面識はありませんが、文章のふしぶしから丹念に土地を歩き、調べ、考えを出している様子が読みとれます。
さて、以下に本書に出てくる主要な人名を索引化しましたので、載せておきます。
よく知られた人も出てきますが、ほとんど忘れられた人も多いです。
この中に挙がった人物の中で、外山暦郎については以前少し調べたことがあります。
本書を読んで、また調べを再開したくなりました。
外山についてはいずれ本ブログでも紹介しようかと思います。
青木重孝 22,173-220
石畝弘之 417
石塚尊俊 28,247-248,254,356
今井善一郎 23
今泉忠義 296
今村勝彦 22
岩倉市郎 19
岩崎敏夫 29
井花伊左衛門 21
牛尾三千夫 232-240,256,260-261,273-274,277,286-287,290-307,309,311-313,324-328,330-332,353-359,372-373
内田邦彦 20
内田武志 20
及川儀右衛門 17
大藤時彦 280,389
大西伍一 9
大庭良美 230,275-276,307-318,346-382
大間知篤三 23,106-107,114-117,119,127-131,159-172,250,257-258
岡村千秋 47,83,87,181
沖本常吉 276,307,312,365-367
折口信夫 287-290,296
菅菊太郎 98
国村三郎 110
倉田一郎 23,195-196,200-201,205-206
栗山一夫 331-332
小林存 173,179,181-182,185,187-188,196,210,283
小林伝十 336-338
小林正熊 100-101,390
今野圓輔 384-385,414
雑賀貞次郎 16
斎藤槻堂 30
佐喜真興英 16
桜田勝徳 18,136-142,165
佐々木喜善 67-69,81-83
笹村草家人 19
笹谷良造 28
沢田四郎作 17
敷根利治 17
茂野幽考 19
渋沢敬三 134-137,271,275,314-315,358-359
鈴木棠三 188,280,282,296
杉山正世 109
清野久雄 22
瀬川清子 22
相馬御風 175-179
田中梅治 273-275,314,330-334
田中瑩一 326-327,329
丹野正 417
千代延尚寿 258-260,334-336,356,358
土橋里木 20,33-91,388
坪井忠彦 22
寺石正路 20
土井卓治 417
戸川安章 20
外山暦郎 20
中山徳太郎 189-190,196-198
中市謙三 21
中平解 106,159-172
楢木範行 16
西角井正慶 297
箱山貴太郎 19,28,70
橋浦泰雄 396,399,415-416
長谷川正 185
早川孝太郎 20,297
林英夫 145-146
比嘉春潮 26,143-144
兵頭賢一 95,108-109,134-135,147-149
藤田徳太郎 353
藤原与一 100,102
三上永人 283-290
三沢義信 143-144
堀井度 254-255
町田佳聲 310,368
南方熊楠 67,71-73,78,88,312-313
宮本勢助 17
宮本常一 21,255-262,270-276,278,298-300,315-317,324-325,333,340,358-360,362-365
目良亀久 19
最上孝敬 22,107,123,125,131-133,163
本山桂川 18
森脇太一 273,275,318-330
山口麻太郎 21
山口常助 93-172
山崎甚一郎 175,180,181,191,213
山下久男 21
山下文武 27
山田隆夫 22
山田次三 250-253,266
山根俊久 239,252-253
吉村源太郎 131-132
和歌森太郎 171,175,280
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新村出(しんむら・いずる/1876-1967)は国語国文畑の人間なら知らぬ人はいないくらいの大学者です。
詳細はウィキをご覧ください。
国文学方面から知った奈良漬は、キリシタン文学に通暁した人だというのが第一印象でした。
上のウィキでは脱漏しておりますが、編著の一つに海表叢書(全6巻+別巻)があります。
これには『鬼利至端破却論伝』(浅井了意)、『吉利支丹退治物語』、『海上物語』(恵中)、『めざまし草』といった仮名草子から『火浣布略説』(平賀源内)、『救荒二物考』(高野長英)といった江戸後期の考証随筆まで多岐にわたって収録するだけでなく、しっかり解説もしております。
随筆の数も多数で、博覧強記ぶりが存分に発揮された文集となっております。
その中に『花鳥草紙』(昭和10年、中央講談社刊)があります。
これは昭和5〜10年の間に書いたものを集めたもので、題の通り、花や鳥にまつわることを、日本の古代文献から民俗語彙、さらには中国や欧州の古典や現代語、旅先での見聞などなど、あらゆる情報を総動員して書き綴っています。
恐るべし。
さて、その中でごく些細なことについて付言しておきます。
それは「W君」という人についてです。
W君は柳田國男との会話の中に出てくる人物です。
新村は京都大学教授なので、京都在住ですが、毎月、東京に出てきておりました。
●昭和8年(1933)7月、田園調布の親戚宅に宿泊。
・三越デパート(日本橋本店?)での洋画家林武の個展を鑑賞。
※林武の父甕臣(みかおみ)は国語学者なので、その関係があるか。
・帰路、書店で新刊の『野鳥の生活』(竹野家立著、大畑書店刊)を購入。
・ついで東京堂(神田神保町)に立ち寄って雑誌を物色。
・柳田國男の「六月の鳥」が掲載されている雑誌を手にする。
・電話で7月13日午前に訪問する約束を取る。
●13日午前10時前に砧町の柳田邸を訪問。
・話題1…邸前の木になる赤い実をついばむ小鳥のこと
・話題2…雀の言語の研究について
・話題3…調布で耳にする美声の鳥の正体について
・話題4…『退読書歴』(柳田國男著、昭和8年、書物展望社刊)のこと
・話題5…『桃太郎の誕生』(柳田國男著、昭和8年、三省堂刊)のこと
・話題6…W君の方言学会でのスピーチのこと
・話題7…アナトール・フランス本邦紹介の経緯
・話題8…上田柳村(上田敏)がアナトール・フランスに会ったこと(『上田敏全集』第10巻に関連書簡あり)
・話題9…アナトール・フランス『白き石の上』紹介の経緯
・柳田邸を出て東洋文庫に向かう。
さて、話題6にいう「W君」とは誰でしょうか。
和辻哲郎とみて間違いないでしょう。
新村は「京都の同僚」といっておりますが、和辻はこの年、京都大学に在職中でした。
また「柳田君から或る機にアナトール・フランスの『白き石の上』を読むことを勧められて、それがW君が国粋主義に転向するの機縁となった」とも書いています。
このことは『柳田國男対談集』(筑摩選書)で和辻自身が述べていることでもあります。
それにしても高等な談議に終始しておりますな。
関心します。
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『折口信夫研究』というタイトルの雑誌。
思えば、ありそうでないものでした。
今日は『毎日新聞』が休みだったので、昨日の号を読んでいたら、「『折口信夫研究』創刊」というコラムが載っていました。
いや〜、こういう雑誌が出たんですね。
名著『折口信夫の晩年』(中公文庫)を著した折口晩年の弟子岡野弘彦先生を代表とする会、折口信夫会の機関誌です。
32ページのささやかな雑誌ですが、全国紙で紹介されるとは何ともうらやましいwww
(サブカル評論誌『SUB & MINOR』もよろしくです (^^)v)
まだ本誌を読んでおりませんが、それには折口信夫=釈迢空所蔵の石川啄木『一握の砂』が紹介されているようです。
以下、引用します。
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創刊号には、石川啄木の歌集『一握の砂』に、歌の評価や印象を迢空・折口自身が書き込みを入れたものも資料として収録された。例えば<高山のいただきに登り/なにがなしに帽子をふりて/下り来しかな>には「新藝術のむかふべき方の暗示を見る」などと書かれている。若き迢空・折口がいち早く啄木の新しい芸術性に注目していたことを示す貴重な資料、と歌人成瀬有氏はいう。ここにも自由で多面的な視線が見える。
(文・酒井佐忠氏)
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ぜひ読みたい1冊です。
***メディアコンテンツ研究会―活動報告***
第12回文学フリマに参加しました
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