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『神令』に曰く、「天孫、天に継ぎ、極を立ち、万民を教ゆる所の者、凡そ七年。 曰く淳朴、曰く誠心、曰く愛憐、曰く尊敬、曰く清浄、曰く勤、曰く勇」
と。
『神令』は神道書の一つです。
原本は未見ですので、正確に本文を引用しているかどうか未詳。
56
藤原高房、天長四年、美濃守に拝す。 安八郡に溝渠なしあり。
堤壊れて水を蓄ふる事能はず。
土人の伝に云く、
「溝渠に神あり。
水をとどむるを欲さず。
是に逆ふものは死す。
故に国司歴代廢て修めず。」
高房曰く、
「苟も民に利あらば、死すといへどもうらみず。」 遂に堤を築く。
灌漑流通し、民、今に至り、其の賑ひを受く。
又、席田郡に妖巫あり。
古来長吏皆恐怖して其の郡に入らず。
高房単騎にして郡に入り、其の徒を追捕し、一時に酷罰す。 藤原高房(795-852)が天長4年(827)に美濃に趣き、安八郡(今の岐阜県大垣市付近)と席田郡(今の岐阜県本巣市付近)で行った優れた実績を記しています。
これは『文徳実録』に載っている記事です。
57
肥の前州佐賀の城下に一瞽者あり。 善くうたふ。
後、少く明を得たり。 改業を欲す。
父師制すれども聴かず。
父師、是を逐ふ。
窮をしのび、つとめて経書を読む。
儒学大にすすむ。
氏は実松、名は元林。
佐賀城下に盲目の人がいました。
「善くうたふ」というから、琵琶法師のように歌謡を生業とする芸能者でした。
検校(けんぎょう)だったようです。
ある時、視力が少し回復したので、芸を捨て学問の道に進む決心をしました。
父や芸の師匠はそれを制しましたが、決意が固く、結局家を追われます。
その後、困窮の中、苦学し、ついには儒学で一家を成すに至りました。
その名を実松元林と言います。
儒学者として大成してからは佐賀藩に迎えられたようで、自邸にあった講堂は、後に佐賀城内に移築されました。
(参考)佐賀藩主鍋島宗茂自筆の額「天縦殿扁額(てんしょうでんへんがく)」
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女子大生の読書傾向(ライトノベル)
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【翻刻】江戸時代後期の無題随筆
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唐の段成式が『酉陽雑俎』に曰く、 「厠上に杜鵑を聞事、不祥なり。
まさに大声もて応ずべし。」
*『酉陽雑俎(ゆうよう・ざっそ)』は日本でもよく読まれた漢籍です。
和刻本も出ました。
現代なら、平凡社東洋文庫で読めます。
が。
小生は不所持のため、この記事の存否を確認できませぬ…。
ホトトギスが厠(かわや)つまり便所の上で鳴くのは不吉だという迷信ですね。
これに対しては大声を出すことで災いをまぬかれることができるようです。
しかし大声でなんて応じればよいのでしょう。
52
諸州の士、老臣の己れをすすむるものを呼びて依親とす。 依親、もし君に背く事あれば、多くは依親に党す。
*依親は大漢和辞典に載っていないので漢語ではなく、「よりおや」と読むべきなのでしょう。
戦国期の武家社会で使われた言葉で、「寄親」とも表記されます。
本来、親族関係にない他人同士が親子の契りを結ぶことで結束を強めることをしました。
主君に対しては忠、親に対しては孝。
戦国大名は忠孝の精神に基づいて結束力を得たのかも知れません。
では忠と孝、どちらを重んじるべきかという話が出てきます。
この記事の場合は、親が主君に背いた場合、多く、その子は謀反を起こした親の側に与するものだと述べています。
江戸初期の、まだ戦国期の精神の息づいていた頃、『犬枕』という『枕の草子』風の作品が生まれました。
その中の「頼もしき物」の段に、「より親の威勢の増したる」という一文が見えます。
威勢の増したより親は頼もしいというわけですが、それはより子にとって頼もしいものの、主君から見れば脅威にもなったものと思われます。
53
漢景帝、太子たりし時、上の左右の臣を召して飲ましむ。 衛綰、独り、疾と称して行かず。
即位に及びて、綰を待して加禄あり。
*前漢の景帝が即位前に家臣を招いて酒宴を開いたところ、衛綰(えいわん)だけ、病気だといって欠席しました。
即位後、景帝は衛綰を取り立てたということ。
媚び諂うことのない家臣がいるかどうか試したのでしょう。
その後、綰は帝の信任を得て、側近として仕えることになりました。
原拠は『漢書』。
54
凶歳、人多く其の児を棄つ。 洛四条のうすき空木屋氏、数人を養ひ、みな成人す。
*飢饉の年はたくさんの捨て子が出たそうです。
京都四条に店を構える空木屋(うつぎや)亭主はそのうちの何人かを育てて、ちゃんと大人にしたとのこと。
美談ですね。
文中の「うすき」はよく分かりませんが、「臼杵」でしょうか。
さだかではありません。
ちなみに、前回紹介の第50話、北条高時が宴会ごとに酒九献肴九種を出すことを聞いた楠正成が近く滅びるだろうと予言したというエピソードについて付言します。
『太平記』をひっくり返してみたところ、そのようなエピソードは載っていませんでした。
ただ、内田魯庵もこれを取り上げています。
明治34年(1901)の『犬物語』がそれで、次のような一節が見られます(青空文庫より)。
「楠殿が高時の酒九献肴九種を用ゆるを聞いて驕奢の甚だしいのを慨嘆したといふは、失敬ながら田舎侍の野暮な過言だネ。天下の執権ともある者が酒九献肴九種ぐらゐ気張つたツて驕奢の沙汰でもあるまいと、俺は思ふナ。」
たぶん、江戸時代の戦記物か、随筆のたぐいを漁れば見つかりそうですけど、まだ出所が確認できないでいます。
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無題随筆の翻刻です。
48
佐々木盛綱、漁者を藤戸に殺す。 何ぞ其の残忍なるや。
其れ、事の泄るるを恐るれば、是を一処にとらへ、去る事を得さらしめて可なり。
文意が通じにくいですね。
寿永3年(1184)、藤戸合戦のときのエピソードです。
盛綱は宇治川の先陣で有名な高綱の兄。
この合戦は一の谷で敗れた平家は今日の岡山の島に逃げました。
そこで行われた源平の合戦です。
盛綱は当地の漁民に島へ馬で渡る方法を教えてもらいました。
しかしその方法を他人に知られてはまずいと思って、漁民の首を掻き切ったのでした。
この一条は問答形式になってるようですね。
(問)盛綱はどうして残忍なことをしたのでしょうか。
(答)事が漏れることを恐れるならば、それを殺すのもよい。
こんな趣旨だと思いますが、「去る事を得さらしめて可なり」では反対の意味になるようですが…。
49
子瞻曰く、 其の日に三白を享け、是を命じて甚だ美なり。
一摂の塩、一碟の生蘿葡、一椀の飯。 蘇軾の詩文からの抜粋みたいです。
50
北条高時、宴会ごとに酒九献なる時は則ち肴も九種あり。 楠正成、是を聞きて曰く、
漸く久しかるべからず。
鎌倉の執権北条氏最後の高時の命運が遅からず尽きるだろうことを予言した正成のエピソード。
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ひさびさに無題随筆を更新します。
45
武田信玄、その父を逐つてののち、『論語』を読む事を廃す。
46
台徳君、恭謹尤もいたれり。
知命の頃、藤堂高虎曰く、
「何ぞ少しく逸遊せざるや」
曰く、
「我、台室にあり。民つぶさにそれを瞻る」
と云ふ。
終身逸すべからず。
47
板倉周防守重宗、京都諸司の時、その弟内膳正重昌、嶋原の役に死す。
家臣を召して曰く、
「汝等慶すべき事あり」
因つて人をして訃書を読ましむ。
臣みな涙を垂る。
重宗曰く、
「我が家在しより、いまだ忠死するものあらず。
今、重昌、かくの如く慶さるべけんや」
言ひおはりて、涙下る事、雨のごとし。
メモ
45
信玄が父信虎を追放したのは天文10年(1541)のこと。
46
台徳君とは徳川2代目の将軍秀忠。
47
原文「諸司」は正しくは「所司」
板倉重宗が京都所司代のとき(1620-1656)の出来事。
弟重昌は寛永15年(1638)に島原の役で戦死。
二人の父は寛永文化の重要人物勝重。
弟の死を名誉あるものとたたえながら、その悲しみを堪え切れない心情を吐露する様子はドラマになりますね。
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無題随筆の翻刻です(第44話)。
天目山での武田家滅亡に際し、家臣の跡部勝資(かつすけ)と土屋昌恒(まさつね)がとった行動を描いています。
※□は虫損。
* * *
勝頼、天目山に落ち行き、跡部尾張守、此処に落合て、馳せ抜いて遁れんとす。
土屋惣蔵昌恒、
「いかに跡部。
御最期を見て、すて参らせて、いづく□かは逃げのびん不覚さよ。」
といふままに、よつ引いて放つ矢に、跡部、ただ中を射ぬかれて、馬より落ちて死してけり。
惣蔵、勝頼に向ひ、
「御敵、すでに近付きぬ。
昌恒、防ぎ矢仕らん。
御心静かに御自害あるべし」
と、近付く敵をさんざんに射る。
矢種射つくして打物のさやをはづし、切つて出でんとする所を、敵六人が鎗につらぬかれ、地に倒る。
四郎、左の手にて鎗一々にかなぐりすて、六人を切つて、我が身、またかたき三人の鎗につらぬかれ、父子同じく討たれ給ひけり。
* * *
武田勝頼が甲斐の天目山で自害したのは天正10年(1582)3月11日のことでした。
上のエピソードによると、逃れる勝頼一行に跡部尾張守勝資がばったり遇ったといいます。
勝資は主君勝頼を見捨てて逃げようとしたのです。
その不忠の行動に対して、土屋昌恒は天にかわって矢を放ち、成敗したとのこと。
昌恒はその後勝頼に自害を勧め、その間、自分は追手の織田軍をさんざんに蹴散らしました。
武田勝頼に最後まで忠義を尽した武将の姿です。
勝資が昌恒に射殺されたという説は聞いたことがありません。
出所はどこでしょうか・・・。
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