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24
常陸の国に貴き僧一人おはしける。
其の名をほうさいぼうとぞ申しける。
我がすむ寺、破損しければ、弟子あまた引きつれ、
太鼓・鉦の拍子をそろへ、躍り念仏をくはだて、
一紙半銭の勧進を得て、堂塔伽藍を建立し給ふとかや。
狂人にはあらず。
*「ほうさいぼう」はおそらく泡斎坊のことでしょう。
泡斎坊は、江戸初期、踊り念仏の一種を流行らせた僧のこと。
その踊りを泡斎念仏とも葛西念仏とも呼びます。
一紙半銭の勧進とは寺塔の建立や修造などのためにわずかな物や金銭を喜捨してもらうことです。
勧進活動自体は、たとえば東大寺の重源上人のように、昔からおこなわれてきたことであり、貴い行いといえます。
泡斎坊はこれに踊りを取り込んだわけです。
で、その踊りというのが狂ったように見えます。
そこで転じて狂人の代名詞のようにも使われるようになりました。
だから「狂人にはあらず」というコメントを加えたのでしょう。
泡斎という人物は忘れ去られ、狂人とか阿呆とかを意味する「ほうさい」だけが普通名詞として残っていたんでしょうね。
25
木魚の事。
魚、昼夜、常醒。
刻木象形撃之。
所以警昏惰也。
*禅籍の『百丈清規』「法器章」に見える文章です。
26
三味線はもと蛮楽の器にて、琉球にて専ら玩び、
海蛇の皮もて張りたれば、世俗、ジヤビセンといへり。
実は海蛇皮にはあらで、ゑらぶ鰻の皮なり。
ゑらふ嶋にすむ故に名付く。
常に岩窟に住み、冬は総身へ落葉をまとひて、窟の中にかくれ臥しぬ。
イトマンといふ嶋人、楠の独木船に乗り、窟にのぼり、かの鰻をとらえて、
その大きなるものは三尺ほどづゝに切りて、舟に積みかへるといふ。
文禄年間、石村検校弟の平兵衛と同じく琉球にわたり、
兄は其の曲を習ひ、弟は其の製作をならひ得て帰り、
始めて三味線をうちたり、其の後、柳川検校、はじめて三味線の長さを弐尺壱分と定む。
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