穴あき日記〜奈良漬のブログ

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男鹿半島は秋田県にあります。
そこに住む人が昭和10年に出版した本に『男鹿寒風山麓農民手記』(吉田三郎著)というのがあります。
しばらくこのブログでは福島県田村郡の山村を取り上げてきましたが、明治後半〜大正期に生まれた方々からの聞き書きに基づくものなので、場所は違いますが、時期的にほぼ重なり、東北の山村という環境も近く、なにかと示唆に富む本です。

さて、前回の記事でその田村郡の山村に来る風変りな人々などをちょっと紹介しました。
話題にのぼった人は大体昭和初期のころにやってきたのでした。
上記の本にもそうした人々が紹介されています。
昭和10年当時、男鹿半島にやってきた人々ですが、門付けの芸能者も混ざっていて非常に興味深い記述となっています。

1)盲目で子どもにひかれ歌を歌いながら来る
※近世ならばボサマ(座頭)になったような人ではないでしょうか。
制度的に、また時代的に、目の見えない男が座頭になるということはなくなったものの、社会通念的にそういう意識があったのかも知れません。
それで琵琶や三味線は手にしないものの、歌を歌って門付けをするような身になったのかなあと妄想をめぐらせています。
もっとも、単に身体に障害のある人が生計を立てる術として、こういう門付けくらいしか無かったとも考えられます。

2)「どこそこで労働中、手足を折って労働もできず、回ってきたからなんとか米をあげてくれ」と言って来る
※元禄時代の『人倫訓蒙図彙(じんりん・きんもう・ずい)』には、船が難破したために無一文になった、故郷に戻るための金をくれとやってくる人が描かれています。
今でも○○駅まで帰りたいから電車賃をくれと近づいてくる人がいます。
(僕は2、3度経験がありますが、たかりやすいと見られているのだろうか・・・)
発想としてはこれに近いですね。
ただ、手足を折ったと説明する以上、本当に折ったのかどうかはともかく、包帯を巻いたりして外見上ケガの証拠となるものを示したいたと思われます。

3)子に捨てられて食うことができないといって来る老人

4)鈴を鳴らして坊主の真似をして来る
※贋巡礼みたいなものですね。
これなどは中世まで遡ります。

5)病気で労働もできないからといって来る
※2)と同種ですね。
ただ外見上、包帯を巻いたりする必要がない点、説得力に欠けますね。

6)「夫に死に別れ、多数の子どもを育て得ないから米をくれ」と言って来る
※これは女性ですね。
これも見かけだけでは真偽の判断がしかねるタイプ。

7)浪花節をやりつつ、米をもらう若い男のヒヤミコキ
※ヒヤミコキは土地の言葉で、労働を拒否して堕落した人間のこと。
浪花節を語るくらいですから、放蕩の末に勘当された男でしょうか。
江戸時代の商家の息子などにいそうなタイプですね。

8)地蔵様を立てる奉願に来たとウソをいって来る
※売僧(まいす)の一種ですね。
贋勧進は中世まで遡ります。

9)猿廻し

10)獅子の面をかぶり、「面の大きい口の中に頭を入れれば頭痛が治る」といってくる
※前回の記事に挙げた神楽扶持と同種のものかと思われます。

11)米俵のように小さく藁を作り、中に籾穀を入れ、それに一文銭、二文銭、またトウ百銭等をつけザクザクさせて、家の中に入って、座敷の真中にその銭をつけた米俵をぽんと投げつけて引っ張り、又投げつけては引っ張りながら「福々俵が舞い込んだ、福々俵が舞い込んだ」といってまわる
※これは福俵ですね。
江戸時代には会津のほうにもいました。
文化4年(1807)の『下郷四箇組風俗帳』という文書に正月にやってくる福俵という者を紹介しています。
唱えごとは次の通り。
「一(ひと)ころばしが一万俵、
 二(ふた)ころばしが二万俵、
 万の俵の祝い」
男鹿に来るのとは違いますが、これと同類とみていいでしょうね。

12)法螺貝を吹いてくる
※「デロレンケコ吹き○○」と言います。
つまりデロレン祭文(さいもん)です。
この祭文は山伏祭文の一種で、他の地域にも優れて発達したものが伝わっています。
僕も一度CDか何かで聴いたことがあります。
ただし、男鹿に来たのは正統なものではなく、おそらく真似をしたものではないかと想像します。

13)藁で作った笠に色々赤い布切れで飾りをつけ、顔は見えないように赤い布切れで隠し、三人連れで同じことを言って来る。たとえば一人が「ヒケジョロ」というと、また一人がそれを真似して「ヒケジョロ」といい、なんども最初の人の言ったことを二番目の人がいう。文句はなんでも福の神に関したことらしい。近頃は来ない。
※「ヒケジョロ○○」といい、二人とも盲目らしいとのこと。
三人連れというから、晴眼の人が先導役で、芸をするのは二人の盲人ということでしょう。
これはちょっと例をみない不思議な門付けです。
笠は風流笠を意識したようなものですが、どうでしょう。
門付けの芸能者で覆面をするのは中近世にもおりましたが、その系譜にあるのかも知れません。


ざっと見てきましたが、戦前の門付けには非常に古い流れを汲むものもあり、考えてみるだけで面白いものです。

『写真でみる日本生活図引』(弘文堂)という叢書があります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%A9%E3%81%86-%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%A7%E3%81%BF%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%9F%E6%B4%BB%E5%9B%B3%E5%BC%95-%E9%A0%88%E8%97%A4-%E5%8A%9F/dp/4335500459/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1281537887&sr=1-1

昔の日本人の暮らしを鮮明な写真と詳細な注釈とともに紹介した本で、「つどう」「すまう」「とる・はこぶ」などのテーマごとに一冊一冊作られています。
すこぶる面白いもので、たとえば路地裏で遊ぶ子供たちの服装に細かなコメントをつけるのはわかりますが、鼻を垂らした子どもの鼻水のところに線を引っ張り「鼻水」と記しています。
で、かつては鼻を垂らした子どもが沢山いたんだというようなことが書かれています。
この本、実家に置いてきて、今手もとにないので、正確な記述がどんなだったか失念しましたが、その注釈の徹底ぶりには感心させられます。

この叢書に「あきなう」と題する一冊もあります。
ここにはさまざまな行商人も紹介されています。
文献記録には見かけても、写真で見る機会の中々ないものが多く、非常に有益です。
とくに箕作り(みづくり)など特殊な人の写真が載っているのには驚かされます。

さて、前回の記事の続きなのですが、福島県田村郡の山村で聴いた来訪者をいくつか紹介してみたいと思います。
どの地方にも来た人たちですけどね。

【飴売り】
江戸時代からの行商の定番ですね。
福島の山村には3日から10日おきにラッパを吹いて来ました。
飴は米で買います。
大正のことの話です。

【コウモリ直し】
コウモリ傘を直して回る職人です。
戦後2〜3年の間に何度か来ました。
お金をやれば喜んで帰っていってくれたそうです。
郡山から来たらしいのですが、はっきりとは分かりません。

【押売り】
今でも押売りはいるのでしょうか。
押売りお断りの札はよく見かけますけどね。
ゴム紐を売る人、「家内安全」などのお札を売る人、木彫りの大黒様を売る人、マッチを売る人などがやってきました。
終戦直後はゴム紐や鉄くずなどを売りに来たと話してくれたお婆さんがいました。
でも、鉄くずは売るのではなくて、集めて回ってたんじゃないですかね?
ちょっとそのへんのこと、わからないですけど。
そういえば、『おそ松君』でイヤミが「おフランス製のゴム紐」を売っていましたが、昭和30〜40年代にはまだまだいたんでしょうね。

採訪ノートを整理していないので、この程度しかメモが出てきませんでしたが、読み返せば、まだまだ出てくると思います。

それから、行商でもなんでもありませんが、物をもらって歩く人はけっこう来たようです。
この地域ではホイドと言います。
戦後は昭和30年ころまでやってきたそうです。
年に2〜3度、ボロを着てやってきて、玄関でモゴモゴ言うんですけど、よく分からなかったそうです。
こわいので、ともかくお金を100円やりました。
するとすぐに出て行きました。
こういう人は村の神社などに泊ったといいます。
来る人は大抵決まっていました。
恐いという人もいますが、穏やかな人柄で悪い感じのしない人だという人もいました。
山深い農村にまで来る人はそうそういないということでしょう。
人家も少ないのだから、得るものも少ないのではないかと思いますが、戦災を蒙らなかった分、存外、都市部をまわるよりも割がよかったのかとも思われます。
だから決まった人がそこを一種のカスミのように思って時々訪れていたのかも知れません。


僕は埼玉の片田舎で育ったので、少年期にこういう人を見ることはほとんどありませんでした。
それほど珍しく思ったのですが、東京に出るようになって上野公園などには沢山いて唖然としたものです。
それが年々増えていく模様。
一体、これからどうなってしまうのかと不安になります。

三春の滝桜と神明宮

イメージ 1

イメージ 2

福島県田村郡三春町の滝桜は全国的にも著名な桜です。
埼玉県在住の僕にとっては実はこの絢爛ぶりが有名な花をまだ見たことがありません。
10年以上前ですが、三春町は何度も足を運んだ土地です。
昔話や伝説をひたすら聴いてまわったので、こういう名所というものをみる機会がなかったんですね。

ある夏、この桜の木のある集落を回ることになったので、ついでに撮影しておいたものです。
真夏に見ると随所で目にする花真っ盛りの滝桜とは全然イメージが違って、鬱蒼とした古木で、それはそれで壮観です。

実際に近づいくまで気付かなかったのですが、木のもとに小祠が祀られているんですね。
滝桜神明宮といいます。
三春の中心にある三春神明宮から勧請したもののようです。
この桜は江戸時代から藩主に重んじられたものなので、藩の庇護する神明宮を木のもとに勧請することで、木自体を傷つけたり、いたずらしたりする不届きなことをしないように牽制したのかも知れません。

先日古い写真が出てきたことでオシンメイ様を記事にしましたが、こちらも取り上げることにしましたw
http://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/16263945.html

イメージ 1

京都の南東、山科川を境に醍醐寺に対する小栗栖(おぐるす)の里は、前々回の記事にも書いたように、明智光秀が竹槍で刺された場所として知られています。
『醍醐随筆』には刺した人やその子孫のことが取り上げられています。
著者は醍醐に隠棲していたから、なかなか現実味があって面白い話になっています。

まず、光秀が落ちてきて討ち取られる経緯が詳しく述べられています。

「明智光秀、山崎敗軍の時、この里の百姓怒りて、落人を捕へ、物の具剥ぎける。
 夜に入りて、光秀主従三騎、この里を落ち行きけるに、
 百姓聞きつけ、槍をもて、垣のこなたより突きければ、
 光秀が脇腹突き通しぬる。
 馬上三町こたえて死にけらし。」

はじめは光秀とは知らずに突いたのですが、後に光秀と知れ、突いた農民は大手柄だと評判になりました。
この農民を小栗栖の作右衛門といって、以後、武勇で名を知られるようになります。


さて、作右衛門の息子を喜兵衛といい、これまた武勇の誉れがありました。
その武勇譚の一つが年老いてからの白狼退治です。
喜兵衛が60歳を過ぎたころ、小栗栖には狼が出たので、みな恐れ、道行く人もなくなってしまいました。
若者何人かが退治しようと相談しているのを聞いた喜兵衛は、
「まだまだ若い者には負けんぞ」
という心持になったようです。

で、雨降る夜更けに蓑を着て、手には鎌を持ち、墓場のわきに潜んで狼を待ち伏せることにします。
しばらくすると、白狼が喜兵衛を見つけ、ゆっくり近づいてきました。
そして突然飛びかかってきました。
喉に食いかかろうとするのを、喜兵衛は鎌で首を掻っ切りました。

喜兵衛は四足を括って、若者たちの集まる家にもっていきました。
若者たちは大いに驚き、また称賛しました。

「いやとよ。
 重くて引き扱ひたり。
 酒を買うて、この労をたすけよ。」

そういって、喜兵衛は笑ったそうです。

さて、これはいつごろの話でしょうか。
『醍醐随筆』は寛文8年(1668)から10年の間の記事です。
著者中山三柳がこの話を聴いたのは、喜兵衛の次か、さらに次の世代のことのではないでしょうか。
おおよその見当として、喜兵衛がだいたい寛永頃に老年期に入ったとして、それから30年後の聞書ということになります。
実話かどうかもひっくるめて、このへん、もう少し調べてみたいと思います。

※画像は小栗栖の旧家です。

イメージ 1

イメージ 2

近世前期、京都の医師に中山三柳という人がいます。
この人は醍醐の里にしばらく隠居していましたが、その際、書き綴った文章をまとめて『醍醐随筆』と題して刊行しました。

 * * *

先月は妖怪について、ちょっとした論文を書いておりましたが、それも無事というか、一応、脱稿して出版社に送付。
一段落ついたところです。
で、今月は主としてこの『醍醐随筆』の解題(伝本の報告)を仕上げるのが優先課題となります。
東京堂出版が長年出している『仮名草子集成』に収録する予定です。
作品の本文はとうに入稿し、今校正原稿が手もとにある状態ですので、解題が出来ればこれも刊行の運びとなります。

 * * *

閑話休題(それはさておき)。
三柳が過ごした醍醐の里は京都の南東に位置する土地です。
その名の通り、醍醐寺の麓にあります。
『醍醐随筆』には、ここ醍醐やすこし南にある宇治の出来事や名所についても書かれています。
昨年、実際に歩いてみましたが、団地が建ち並び、あまり雰囲気が伝わらなかったのは残念ですが、まあ仕方ないですね。

画像は何の変哲もない山の写真ですが、それなりに歴史があります。
川の名は山科川。
その手前が醍醐の里。
向こうに見えるのは小栗栖(おぐるす)の里。
ここは山崎の合戦で敗れた明智光秀が落ちてきたところです。
山に入ると、明智藪といって、光秀が竹槍で突かれて落命したという場所があります。

なお、中山三柳の墓は京都の黒谷にあります。
これはHPのほうに挙げておきました。
http://narazuke.ichiya-boshi.net/inubou.html
ご参照ください。

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