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ワンダーフォーゲルの山紀行
18才から50年山を歩いています。全国あちこちの名峰や関西の山を四季歩いています。スキーも大好きです。

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雪山讃歌
   作詞/西堀栄三郎
   作曲/モントロ−ズ
  
1.雪よ岩よ われらが宿り
  俺たちゃ 町には住めないからに
  
2.シールはずして パイプの煙
  輝く尾根に 春風そよぐ
  
3.煙い小屋でも 黄金の御殿
  早く行こうよ 谷間の小屋へ
  
4.テントの中でも 月見は できる
  雨が降ったら ぬれればいいさ
  
5.吹雪の日には 本当に辛い
  ピッケル にぎる手がこごえるよ
  
6.荒れて狂うは 吹雪か雪崩
  俺達 そんなもの 恐れはせぬぞ
  
7.雪の間に間に きらきら光る
  明日は のぼろよ あの頂に
  
8.朝日に輝く 新雪ふんで
  今日も行こうよ あの山こえて
  
9.山よサヨナラごきげんよろしゅう
  又来る時にも 笑っておくれ
 
 
 この歌もよく歌いましたね。この歌が作られた経過は以下のようです(ウィキペディアによる)。


 1927年(昭和2年)1月、京都帝國大学山岳部の仲間たちと群馬県吾妻郡嬬恋村の鹿沢温泉に来ていた西堀榮三郎(のち第一次南極観測越冬隊隊長)が、冬場の雪で足留めを食らった際に、退屈を紛らわせるために仲間たちと「山岳部の歌を作ろう」を話し合い、詩を書いた。それがこの曲である。
 
 山岳部の仲間内で気に入っていたという『いとしのクレメンタイン(Oh My Darling, Clementine)』のメロディーに言葉を当てはめ、好きなままに詩を作ったということを、西堀自身が後に著書で明かしている。
 
 この曲が世に出た時は、作詞者不詳とされたが、桑原武夫(京都大学人文科学研究所教授)が西堀榮三郎を作詞者として著作権登録の手続きを行った。この著作権印税に拠って京都大学山岳部の財政が潤ったという逸話もある。
 
 後に、鹿沢温泉に『雪山讃歌』の歌碑が建立された。 また、この歌の発祥の地である嬬恋村では、正午を告げる防災無線のチャイムに使用している。


 では「いとしのクレメンタイン」はどうしてできたのでしょうか。これも二木紘三さんの解題でどうぞ。


 歌詞と曲は、パーシー・モントローズが1880年ごろに作ったとされています。ただし、曲については、H. S. トンプソンが1863年に作った「Down by the River Liv'd a Maiden」が下敷きになっているという説があります。

 世界各国でさまざまな歌詞がつけられており、わが国では、西堀栄三郎(元南極越冬隊長)らの作詞になる『雪山讃歌』がよく知られています。
 この歌はゴールドラッシュのころのカリフォルニアが舞台になっています。
 1848年、カリフォルニアのアメリカン川沿岸で砂金が発見されると、世界中から一攫千金の夢見る人びとが殺到しました。とくに1849年には10万人もの男たちがカリフォルニアに殺到したといわれています。原詞の1番にある「フォーティナイナー」は、そうした金鉱掘りを指しています。
 余談ですが、ジョン万次郎も帰国の費用を貯めるため、金鉱掘りをしていたそうです。

 歌詞は、金鉱掘りの娘が川に落ちて死んだ話を歌ったものです。金の夢にとりつかれて娘を未開の地に連れてきたあげく死なせてしまった父親――その慟哭が聞こえてきそうな歌詞ではありませんか。
 この歌が世界的に知られるようになったのは、1946年に公開された西部劇『荒野の決闘』(原題はMy Darling Clementine)の主題歌に使われたことがきっかけのようです。
 ジョン・フォード監督の手になるこの映画は、OK牧場の決闘を軸に、伝説の保安官ワイアット・アープ(ヘンリー・フォンダ)と元外科医の賭博師ドク・ホリディ(ヴィクター・マチュア)の交流、さらに東部からやってきたドク・ホリディの許婚者クレメンタイン(キャシー・ダウンズ)への淡い恋心を描いたものです。
 モノクロの美しい画面とクレメンタインのメロディーとが相俟って、この映画をただの活劇ではない詩情を感じさせる作品に仕上げています。
 実在のドク・ホリディはペンシルベニア歯科大学卒の歯科医師でしたが、この映画では外科医(surgeon)となっています。
 
青い山脈(昭和24年)
 
 作詩 西条八十  作曲 服部良一
 1 若く明るい 歌声に
  雪崩は消える 花も咲く
  青い山脈 雪割桜
   空のはて
  今日もわれらの 夢を呼ぶ

2 古い上衣よ さようなら
  さみしい夢よ さようなら
  青い山脈 バラ色雲へ
  あこがれの
  旅の乙女に 鳥も啼く

3 雨にぬれてる 焼けあとの
  名も無い花も ふり仰ぐ
  青い山脈 かがやく嶺の
  なつかしさ
  見れば涙が またにじむ

4 父も夢見た 母も見た
  旅路のはての そのはての
  青い山脈 みどりの谷へ
  旅をゆく
  若いわれらに 鐘が鳴る
 
 
 明るいメロディでいっせいを風靡した歌です。高校時代にこの歌でフォークダンスを踊ったっけ。山に入っても大いに歌いましたね。
 
 なお歌詞の中にある「雪割り桜」とは何でしょうか。これもネットで調べてみました。 「雪割り桜」は「椿寒桜」の異名だそうです。根雪の残るまだ寒い時期に満開を迎える、春の訪れを知らせる花です。
 
イメージ 1
 
 雪割り桜はこんな様子をさしていうのでしょうか。この画像は昨年GWに守門岳(新潟県魚沼地方)に行った際、途中見かけた桜です。
 
 続いてこんな解説が載っていました。こんな解説を読むとなるほどと思います。


 この曲を理解するには「時代」を考えなくてはなりません。3番の詞にもあるように、この曲が出たのは戦後の「焼け跡」の時代でした。長い苦しい戦争が終わり、国土は焼け人々は闇市を徘徊しながらも、新しい時代の幕開けに切ない希望を持っていたのです。
 曲の原作となった石坂洋二郎の小説「青い山脈」が発表されたのは、終戦から2年しか経っていない昭和22年の朝日新聞の紙上でした。封建的な因習に支配される田舎町に赴任した、民主的で知性溢れる若い女性英語教師をめぐる話で、当時は考えられなかった男女同権や自由な恋愛観が新鮮に描かれていました。

 雪割り桜の咲く下には、まだ古い冬の時代の名残があります。辛く厳しい冬の時代の上着を脱ぎ捨て、明るく輝く春への希望が溢れた詞なんですね。つまり「古い上着」とは封建主義・軍国主義のこと、身軽で平等な民主主義がこれからの時代だ、という意味です。

 曲の4番、 父も夢見た 母も見た 旅路のはての そのはての 青い山脈 みどりの谷へ・・・悲惨な旅路の果てに父母も夢に描いていた緑の谷とは、誰も殺されない悠久の平和の世界なのです。
 
 
 惜別の歌 
 
【作詞】島崎 藤村
【作曲】藤江 英輔

1.遠き別れに 耐えかねて
  この高殿に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ
2.別れと言えば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな
3.君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ
4.君がやさしき なぐさめも
  君が楽しき 歌声も
  君が心の 琴の音も
  またいつか聞かん この別れ
   
 
 「惜別の歌」は次の解説のように中央大学の学生歌ですが、私らが山で歌っていたときはそんなことは知らずに歌っていました。島崎藤村の詩だということもあってもっと普遍的な歌のように思っていましたね。以下ネットで見つけた解題です。


  『惜別の歌』は中央大学の学生歌です。
この『惜別の歌』は中央大学の学生にとっては『蛍の光』にも代わる歌とされ、親しき友­と別れる時、別れ難き心情に駆られた時、この歌を歌って別れるのを常としています。ま­た、卒業式歌として卒業生以下出席者全員が起立して厳粛に歌う大切な歌となっておりま­す。
 『惜別の歌』は昭和20年、中央大学予科生の藤江英輔(ふじええいすけ)氏の作曲で、­作詩は島崎藤村の「若菜集」の「高楼(たかどの)」の詩です。東京板橋の陸軍造兵廠第­三工場に学徒勤労動員中、戦地に赴く学友を送る歌として作られました。いつしか造兵厰­で、出陣学徒を送る歌、惜別の歌になっていました。工場で一緒に働いていた他校の男子­学生や東京女子高等師範等の女学生らもみんなこの歌を覚えてくれて、戦後、彼らが上の­大学に行ったり、地方へ帰ったり、教師として赴任先で歌ったりして、全国に広がったと­のことです。また、この『惜別の歌』は中央大学の後輩たちへと受け継がれて学生歌とし­て定着していきました。
 昭和26年の夏ごろ、中央大学の音楽研究会・グリークラブが、­『惜別の歌』のレコーディングを企画した際、この第1節3行目の歌詞は「悲しむなかれ­我が姉よ」で遠方へ嫁ぐ姉を思う姉妹愛の詩でありましたが、この「姉よ」を「友よ」と­替えて広く愛唱されて来たため、レコードに吹き込むには原詩の著作権者の諒承が必要で­した。偶々藤江英輔氏が勤務先の新潮社で島崎藤村の遺児翁助氏と面識があり、翁助氏よ­り改作の追認を受けたとのことです。
 昭和30年頃より各地の盛り場に「歌声喫茶」が続­々と出現して、この『惜別の歌』も全国の「歌声喫茶」で大いに歌われました。レコード­会社は「歌声喫茶」に着目してリクエスト回数の多い歌を次々にレコーディングして売り­出していました。『惜別の歌』も昭和36年に小林旭のレコード発売に伴い作曲者探しが­ありましたが、レコード会社の訪問が発売予定の1週間前だったため、楽譜に書いた『惜­別の歌』は『惜別の唄』となっており、歌詞の4番が削られて3番までとなっていました­。「もう発売を待つばかりです」と言われては否も応もなく、断る余地は残されていなか­った。こういう形で世に出たのもやはり何かの〝めぐり合わせ〝だったかもしれない、と­藤江英輔氏は述べられております。
琵琶湖周航の歌
 
    作詞  小口  太郎
    原曲  吉田  千秋
1  われは湖の子  さすらいの
      旅にしあれば  しみじみと
     のぼる狭霧や  さざなみの
      志賀の都よ  いざさらば
2  松は緑に  砂白き
      雄松が里の  乙女子は
     赤い椿の  森蔭に
      はかない恋に  泣くとかや
3  浪のまにまに  漂えば
      赤い泊火  なつかしみ
     行方定めぬ  浪枕
      今日は今津か  長浜か
4  瑠璃の花園  珊瑚の宮
      古い伝えの  竹生島
     仏の御手に  いだかれて
      ねむれ乙女子  やすらけく
5  矢の根は  深く埋もれて
      夏草しげき  堀のあと
     古城にひとり  佇めば
      比良も伊吹も  夢のごと
6  西国十番  長命寺
      汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)遠く去りて
     黄金の波に  いざ漕がん
      語れ我が友  熱き心

  
 
 この歌は加藤統紀子が歌ってヒットする以前から歌っていましたね。しかし当時旧制三高の寮歌なんて知らなかった。以下高島市のホームページから解説をどうぞ。


琵琶湖周航の歌
 「今日は今津か、長浜か」と歌われる「琵琶湖周航の歌」。琵琶湖の美しい自然と、周航のロマンを情緒豊かに歌い上げたこの歌は、大正6年に高島市今津町で生まれました。時代を越えて歌い継がれるこの名曲は、市の宝物です。
 琵琶湖遊覧の基地、今津港。周航の歌が刻まれた碑が建てられ、桟橋の突端には「赤い泊火」がある。太古からのこの美しい琵琶湖の風景が、周航の歌を生んだ。
 
歌の誕生
 大正6年6月、第三高等学校(現京都大学)二部クルーは学年末(当時7月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていました。小口太郎ら一行は大津の三保ケ崎を漕ぎ出て、1日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、2日目の6月28日は、今津の湖岸の宿で疲れをとっていました。
 その夜、クルーのひとりが「小口がこんな歌をつくった」と同行の漕友に披露し、
彼らはその詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節に乗せるとよく合ったので、
喜んで合唱したということです。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。
 
琵琶湖周航について
 三高では明治26年に初めて琵琶湖周航が行われ、以後学生たちによる恒例行事になっていました。昭和15年ころまで行われていました。三保ケ崎から西岸を北上する時計回りのコースで、4泊5日、もしくは3泊4日の日程。使われたボートは、フィックス艇といい、固定座席で、漕手6人、舵手1人、他1〜2人でチームを組みました。
 
作曲者はだれだ
 歌詞はその後、補完され、翌大正7年に6番までの全歌詞が完成しました。そして三高の寮歌として、学生たちの愛唱歌として広まっていきました。また幾多の歌手がレコードに吹き込み、昭和46年夏、加藤登紀子の大ヒットへとつながっていきました。
 このころの歌集には、作詞作曲小口太郎、または三高ボート部となっていましたが、小口太郎の人物像すら不詳で、熱心な研究者の手で究明が始まります。そして冒頭のような事実が判明していきました。曲は「ひつじぐさ」のメロディを借りたものとわかり、昭和54年には「作曲者は吉田千秋」と名前まで特定できましたが、身元は不明のまま。
 平成5年6月に、今津文化会館で開催された「琵琶湖周航の歌開示75周年記念イベント」の準備のさなか、実行委員会は「吉田千秋は大正4年に東京から新潟県に転居している」との手がかりで、新潟県の地元新聞に消息探しを依頼したところ、
偶然にも関係者の目に止まり、ついに作曲者の詳細な人物像が判明したのです。
大海から針を探すにも等しい吉田千秋探しは、急転直下の展開をみせたのでした。
 
アルプス一万尺
 
曲: 作曲者不明(アメリカ民謡)
詞: 作詞者不明

1アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを さあ踊りましょ
2昨日見た夢 でっかいちいさい夢だよ のみがリュックしょって 富士登山
3岩魚釣る子に 山路を聞けば 雲のかなたを 竿で指す
4お花畑で 昼寝をすれば 蝶々が飛んできて キスをする
5雪渓光るよ 雷鳥いずこに エーデルヴァイス そこかしこ
6一万尺に テントを張れば 星のランプに 手が届く
7キャンプサイトに カッコウ鳴いて 霧の中から 朝が来る
8染めてやりたや あの娘の袖を お花畑の 花模様
9蝶々でさえも 二匹でいるのに なぜに僕だけ 一人ぽち
10トントン拍子に 話が進み キスする時に 目が覚めた
11山のこだまは 帰ってくるけど 僕のラブレター 返ってこない
12キャンプファイヤーで センチになって 可愛いあのこの 夢を見る
13お花畑で 昼寝をすれば 可愛いあのこの 夢を見る
14夢で見るよじャ ほれよが浅い ほんとに好きなら 眠られぬ
15雲より高い この頂で お山の大将 俺一人
16チンネの頭に ザイルをかけて パイプ吹かせば 胸が湧く
17剣のテラスに ハンマー振れば ハーケン歌うよ 青空に
18山は荒れても 心の中は いつも天国 夢がある
19槍や穂高は かくれて見えぬ 見えぬあたりが 槍穂高
20命捧げて 恋するものに 何故に冷たい 岩の肌
21ザイル担いで 穂高の山へ 明日は男の 度胸試し
22穂高のルンゼに ザイルを捌いて ヨ−デル唄えば 雲が湧く
23西穂に登れば 奥穂が招く まねくその手が ジャンダルム
24槍はムコ殿 穂高はヨメご 中でリンキの 焼が岳
25槍と穂高を 番兵において お花畑で 花を摘む
26槍と穂高を 番兵に立てて 鹿島めがけて キジを撃つ
27槍の頭で 小キジを撃てば 高瀬と梓と 泣き別れ
28名残つきない 大正池 またも見返す 穂高岳
29まめで逢いましょ また来年も 山で桜の 咲く頃に
 
 
こんな童謡みたいな歌まで歌いましたね。ウィキペディアで調べてみると原曲はアメリカ民謡だそうです。知りませんでした。


ヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle)は、アメリカ合衆国の民謡で、独立戦争時の愛国歌である。
 
日本では「アルプス一万尺」の題の訳詞(歌詞の内容は無関係)で知られている。
ヤンキードゥードゥルを原曲として、日本語で登山にまつわる歌詞(おおむね甚句形式)がつけられたのが「アルプス一万尺」である。作詞者は諸説あるが不詳。児童の手遊び歌としてポピュラーな題材の一つでもある。

槍ヶ岳と小槍
この歌の「アルプス」は日本アルプスのことで、「一万尺」(約3030メートル)はその高さを表す。1番の歌詞の「小槍の上で アルペン踊りを さあ踊りましょ」の「小槍」とは、槍ヶ岳の山頂(標高3180m = 10494尺)付近にある岩である。ただし、小槍はロッククライミングの技術がなければ登れず、頂上も非常に狭いため、実際にそこで踊るのは不可能であり、元来は仲間うちのコミックソングとしての性格が強い。
 
歌詞は全部で29番まであり、槍ヶ岳から西穂高岳や奥穂高岳、穂高岳をめぐり、上高地へ縦走する内容となっている。このほかにもかなり下品な甚句形式の歌詞がつけられ、さまざまな替え歌が歌われている。
 
コーラス部分は「ランラララ〜」等とスキャットするのが通例である。

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