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ふとぱらりらん、どんとこちゃ。

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そこに虹がある

「同じ虹を見ることはできない」という話を読んだことがある。

虹は、太陽光線が空気中の水滴に入り屈折してできる「現象」。
目に入った光が網膜で映像を結び、虹として認知される。
視認する目の位置が変わると、受け取る光情報は違う。
よって、二人の人間が虹を見つけ「あ、虹だ」と同時に指差しても、彼らの目が違う位置にある以上その虹は絶対に同じではない……という話。
まあつまり、認知は個々人の立脚地(個性・環境等)で変化し、「同じ」という感覚は怪しいという話だ。

そういえば、
虹の捉え方は文化により変わるそうだ。
昔、日本や中国では凶兆だったらしい。現代は、どちらかといえば吉兆か?
(……というより神秘性を失ってしまったと言うべきか)

そういえば、
日本人にとって虹は七色だが、国や文化により違うそうだ。
六色、五色、言語によっては三色なんて場合もあるらしい。
連続した色の変化を表現しているわけだから、どれが正解とは言えない。

ひとつの現象が、違って見え、違った感情を呼び起こし、違った表現を生む。
「あ、虹だ」と指差した二人の間に横たわる、この何層もの隔たり。
もし二人が、互いの認知も感想も表現も違うと知ったとき、彼らはどうするだろうか。

不安に思うか。不思議に思うか。
同じでない相手を疎むか。知りたいと願うか。


現実の世界には虹がたくさん掛かっている。
見る人の位置によって姿を変え、有象無象の感情を引き起こし、千差万別に表現される、厄介な虹が。

私はある時期、あれやこれやが、すべて虹に見える人間だった。
四六時中、考えた。実体の無い「現象」の群れを深く考えた。
考えを口に出すことは混乱を呼びそうだった。他人の暗い感情を招きそうだった。
招くことは構わない。それは私と他者との間に横たわる隔たりが成したことだから。
こう言ってもらえるなら。
「俺にはそう見えない」「俺は違う感じ方をした」「俺ならそういう表現はしない」
互いに手を伸ばせば、指先くらいは触れるかもしれない。

しかし私は怖かった。もし、こう言われたら?
「虹なんか無い」「虹があるなら証明してみせろ」「お前に虹を語る資格は無い」
「そんなものが見えるのはお前だけだ」「お前は異常だ」「お前の発言は有害だ」

私は、惑った。
私が発信することは間違いかもしれない。何かを傷つけるかもしれない。
そして封印することにした。
考え得たものたちは時間とともに散逸した。


あのときには存在しなかった新しい世界にログインし、私は迷っている。
ここでも同じことだ。
発信したら撤回できない。間違いかもしれない。何かを傷つけるかもしれない――

ああしかし、そこにあるもの、質量は無くとも間違いなく存在している現象を、表現したいのだ。
私は虹そのものを分析したいのではない。虹に動かされた心がここにあると、表現したいのだ。
声を上げることで、虹を違う位置から見、感じ、表現する人を探すのだ。
「そこに虹がある!」

もし、私たちが、互いの間に横たわる隔たりを恐れ、
それを感じさせる虹を恐れ、
虹という言葉を発することを恐れ、
そしてついには虹という現象などなかったかのように口を閉ざしてしまったとき、
表現は虚しく、力無きものとなり、やがては死ぬだろう。
世界は上滑りのものだけが幅をきかせ、本質は無視され、発展しなくなるだろう。

現実のしがらみから解かれた仮想世界には、
「あ、虹だ。私にはこう見える、こう感じる、こう表現する」
という無邪気な表現が溢れている。輝いている。そこかしこに。

あの力が呼び覚まされる。虹を探し見つめ、感じ、ありのまま表現したいという衝動。
先駆者達が、私の前を走っている。
出遅れたけれど、私も走ろう。加速しよう。肩を並べよう。そう遠くない。


ここはいい世界だ。実体は無くとも、精神が宿っている。




【著作者】わたりとり
【初回発信日】2005/9/6 (記事「そこに虹がある」)

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