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ろんぐろんぐたいむはろう

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かどまつ


今年は、年賀状のやりとりだけ続けていた中嶋先生と、いよいよ会えるかもしれない。
あたりまえとされている道をあたりまえのふりをして歩きつづけることは、あたりまえの心ではとてもしんどいことだ。と、速くも気づいてしまった子の、先達として、再び。そうして、そのような子を持つ親の大先輩として、新たに。


数年前の年賀状で、先生は「鳥を待つ」と詠っておられた。
今日いただいた詩には……暑い夏、濁り切った池の底の魚がひとときの夕立ちに歓喜するけれど、その後の日照り空に「雨は降らず 世界は枯れていく」と、ある。

思い違いかもしれないけれど、私はいま、先生の詩が、わかるように思うのです。
ゆたかであるということは、この私に、いつでも十分な実りと平安が約束されている、ということではなかった。努力すればそれが手に入れられる、と約束されるものでもなかった。約束など何も無かったのだった。
まだ見ない鳥を待つ。池の底で歓喜の雨を待つ。世界には私には、圧倒的な未知と欠乏とが在るということを知り、だからこそ「明日にはきっと」と待ち望む。そういう心なしに、人の精神のどこにも、ゆたかさが住む処は無いのだ。

いつか私の子にも、世界はゆたかであると感じる瞬間が来てほしい。だから私は、
あの子がいま、約束されている確かさなど無いという恐れを、自分はまだ何も知らず何も出来ずこれから何も為し得ないかもしれないという虚しさを、体と心いっぱいに感じ取っていることを、むやみに妨げてはいけないのだと思う。


まあでもね。
そうとわかるようになっても、毎日はまあまあ、しんどいっすよ。私にも親心ってものがあったんですね。驚きです。それもまた、うれしいのですが。
先生、またお会いできる日を楽しみにしています。


*****


「Capital Forest」の公開場所は、下記に移しました。


素人のモノカキが住むのに特化した機能性、しかも広告表示いっさいなし、素晴らしいなと思っていたら、角川とはてながタッグを組んでいるサービスだった。
住人が、まあとにかく、若い! と、トップページに並ぶタイトル群を眺めて、いつも感じる。
私はもう、この世界ではシルバーなんだなあ。おもしれえや。

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このきなんのみ

たぶん私は、ある方面に対しては、相当怒りっぽいのだろうな。
理屈に合わないこと。建前と本音が、言っていることとやっていることがあまりに違うこと。を、私は酷く嫌う。

ただし、個人が、その人自身の問題として、そのようであることについては、私はほとんど気にしない。個人の内面においては、そのようであることとは、そのようであらざるを得ないこと、だと思えるからだ。つまり、それは人のあるがままの自然であり、弱さであって、思考や選択の結果ではない。
個人の内面において、理屈に合わないことを、公への言葉通りに動かない我が身を、いっさい許さないなどという態度は、非人間的なことだ。もっと言えば、そもそも不可能なことで、可能だと思い込んでしまうことは、重大な錯誤だろう。
私はそう思っているから、Webの表現空間においても、他人の不合理や矛盾に対して、たんに不合理であること矛盾していることだけを理由に、その表現を嫌ったことはない。批判したこともない。むしろ、そういう表現をこそ味わい深いと好んで読んでいた。


私が怒りを押さえられないのは、「集」においての不合理、狡猾、といったものだと思う。現実の多数の他人に関わり多大な影響を与えながら、権力構造の中で他人を抑圧しながら、理屈に合わないことを押し通そうとする態度や、綺麗事を言いながら自己の利益ばかり追う態度を。
そういったものに、私は物凄く鼻がきき、いったん嗅ぎ取ってしまうと、寝ないでこうやって慣れないスマホでちまちま文章打たずにいられないほど頭から離れない、ようするに怒ってしまうので、とても、疲れる。
ちなみに、事が起きたのは今日ではない。まだ持ち越している。冷静になろうと、10年前のrage記事群を読み返してもいるが、なかなかもてあましている。


個人を対象に怒りを向けたいとは思わない。私は、事が集のステージで起きているからこそ、怒っている。
けれども、、、公的に、つまり、なんらかの肩書きに基づいて言葉を発している人であっても、問題のかなりの部分は、その人個人の人格に根ざしたところにある。ならば、どうするか、という。
どうするか、というのは、現実の対応としてその人を批判するとか弾劾するとかいうことではない。私自身は、そのような集のステージにおいても「そのようにあらざるを得ない」人を前にして、彼にどのような眼差しで心持ちで、どのような理解をもって、あるいは理解することを留保して、向き合うか、という。


ちょっちぷんさんの文章が思い出される。
事が「個」のステージにあるとき、人の精神世界の負に対する向き合いかたは、私と驚くほど似ていた。同じと呼んでいいほど、ベクトルが一致していた。
けれども、事が集のステージに移ると、ちょっちぷんさんは私とはかなり角度が異なった。私にとっては、相変わらず「あらざるを得ない」様相を呈している問題なのだが、ちょっちぷんさんにとっては、意思と選択の領域に厳然と位置する、「あってはならない」問題のように見えた。
どちらの捉え方が正しいか、ということではなく、たんに、捉え方が異なる、というだけだが。ただ、こうは思う。

私のベクトルは、集のステージににおける悪を黙認する恐れがある。一言でいえば悪人にアマい。人がその本性として持つ弱さを、ステージを問わず、肯定し続ける道なりだからだ。
その恩典として、と云うべきか、代償として、と云うべきか、迷うが、人という存在への憎悪を抱く恐れはない。
私は、怒りによって疲れきってしまうことや、精神世界が混乱し一時的に荒むことがあったとしても、人そのものへの憎悪やその予感によって、自らの精神世界を傷つけることはない。

ちょっちぷんさんのベクトルは、この点においては、私のほぼ逆を行く。人間というものを深く理解しながら悪に対して健全であり続けることは、自身の精神界にとってはたいへんなリスクを伴うのだと、私は知った。
このテーマに取り組むときは、心身ともに余裕があるときを見計らい、細心の注意を払って思考を進めておられたのを思いだす。
それは、ちょっちぷんさん御一人にとってそうする意味が在り、可能性がある、思考の道なりなのだろうと思う。
お元気かな。


で。

私は自分の道をいくしかないわけだが。今ちょっと、どうしたもんかな、と。言葉がそろそろ尽きてきた。
なにか、言葉以前の領域に、ぼんやり明かりが灯るように、見える。なにか。

何だろ、あれ。

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かおださん

会社のSNSに顔を載せるのがイヤで、おもちゃのトリの写真を載せていたら、同感の人が多かったらしく、あっというまに人外の巣窟のようなプロフィールリストになっていた。
で、こりゃいいやと喜んでいたら、たいへんエラいかたから、顔写真以外は登録するなと全員一斉回覧が配信された。

私はリアルでもここでも脳内でも、他人を蔑称でよんで憂さを晴らしたことがないし、そもそもそうしたいと感じないたちだ、ったはずだが、あの文字列については、読んだ瞬間ためらいなく、

ふざけんなジジイ

と思ってしまった。

わりと珍しい反応で、ちょっとおもしろい。

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流されやすい、と評されていた人が、私には、かなり頑固な性質に思えて、その頑固さがなにかよくわかるカンジもし、なんでだろう、と、

紳士的で腰が低い、と周りから安心されていた人が、私には、かなり横着で謙虚さに欠けると、感じられて、その両面が彼にとっては必然のシーソー運動のように感じられ、なんか腹立つけどなんでや、と、


他人への心配りが絶妙で、物事への洞察も鋭いと自認している人が、私には、他人の尊厳への配慮と自分自身をふりかえることには驚くほど鈍感だと、見えて、だが私とはあるいみ対極に位置するその精神はちょっとやそっとじゃわからん不思議にも見えて、なんかもうほんとに気分はノらんがこんちくしょーなんなんじゃ、と、


などなどなど、に向かって、あまり言葉を探さずにざっくりぼんやりと、彼ら彼女らの振るまいや顔つきや話しかたを眺めて聴いてみることにした、その結果、


そういったことを、以前の私なら、人の表と裏だとか、長所と短所だとか、なにか分類するような吟味して是非を判じるような、そういうやり方で、言葉の上での決着を試しただろう、が、

それも間違ってはいない、が、

最近になって、というより、ここ最近ほんとうによく感じるのが、

ある人の、とても厄介な行動の傾向は、もしかしたら、そのひとの突出した美点、他人からすればその人の真の魅力につながる何物かが、たんに周囲の影響で変奏されて表出しているのではないか。
と、思うようになった。


もしそうだとしたら、私にできることは、やっぱりとどのつまり、嬉しいことに、それらを理解すること、理解しようとし続けることに、尽きるのかもしれない。

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みみへん

文化の僻地に住んでいると、たまの東京出張は楽しみ。2時間の空きがあれば何かは見たり聞いたり歩いたり。で、こないだは鈴本亭で久しぶりに生落語を三本。
誰か掛けてくれないかと永らく待っていた替り目がとうとう聞けて、嬉しかったしまあ面白かったんだけど、私がずっと聞いてきた志ん生のとは当然違っていて、あ、やっぱりそうだよな、となった。

受験勉強の夜、ヘッドホンでテープがへろへろに伸びきるまで聞き込んだ、ホルストの惑星も、そのあといろいろな指揮者演者のCDを手当たりしだい聴いたが、どれも、あ、こうなっちゃうか、となってしまう。
演奏の上手い下手ではなく、好き嫌いでもない、たんに、リズムも音色も息づかいまで耳に馴染んでしまったものについては、似ていて違う何物かではもうだめなんだ、というだけで。本当に音楽が好きな人というのは、似ていて違う幾万ものバリエーションをこそ楽しむのだろうから、私のこの耳は音楽好きという範疇にはなくて、たんに最初に受け入れたものに愛着してしまう偏屈穴なんだな。微妙絶妙な味を選り分ける美食家にも、万人を愛せる心広い人にも、まったく憧れないが、耳の受け入れ間口が広い人は、正直、羨ましい。どんな世界がそこにはあるのだろうかと。

それはそうと、トリの太平さんの「一文無しってすごい」には笑った。上手かったなあ。あのリズム、声音、息遣いまで、今も覚えている。久しぶりに、丸ごと穴に収まる音源に出会えた。
あ、そういうことか。要は、器が狭いか広いかなんてどうでもいいんじゃ、新しいのを入れてけや、と。てんてけてけてけ。

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