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産経west 2018.4.30 15:00更新 http://www.sankei.com/west/news/180430/wst1804300006-n1.html
【歴史インサイド】 信長は「本能寺の変」なくても失脚していた…三重大教授が新たな視点で真相に迫る
本能寺の変のあと、光秀が送った直筆の密書
新史料などを基に「本能寺の変」の真相に迫る藤田教授=3月4日、松江歴史館
日本史上“最大のミステリー”の一つとされる「本能寺の変」。天正10(1582)年、天下統一を目前にした織田信長が家臣の明智光秀に京都・本能寺で討たれた事件は、光秀の動機や黒幕の存在などこれまで諸説紛々さまざまな推論や検証が飛び交ってきた。これに終止符を打つべく、関連著作を多数発表してきた藤田達生・三重大教授(日本史学)が3月、本能寺の変をテーマにした特別展(2〜4月)を開催した松江市の松江歴史館で講演。「解明された本能寺の変」と題し、近年相次ぎ見つかった史料に触れながら鋭く真相に迫った。講演の主な内容を紹介する。
家臣団は仲違い、政権は不安定
「『本能寺の変』なかりせば…」と言われるが、実はあってもなくても
結果は同じだったと思う。信長が強烈な個性の持ち主だけに強大な政権だったと誤解しがちだが、案外弱いところがある。信長の専制的な性格が災いし、家臣団はしばしば仲違いやクーデターを起こして政権は不安定。本能寺の変の直前には臨界点に達しており、光秀が突出して大きな事件を起こしたのではなく、そういう土壌があったとみるべきだ。
光秀は、200〜300年に一人の名将だと私は思う。信長に重用されたのは武将としてだけでなく、外交官としての側面も大きかった。外交交渉で高い能力を発揮し、無血で四国を切り取っていった手腕が評価されたのだ。
“終わった人”足利義昭の真骨頂
本能寺の変の10日後に当たる天正10年6月12日の日付で、光秀が反信長勢力の豪族に送った「光秀最後の密書」といえる直筆の書状が昨年9月、見つかった。
書状には「上意(将軍)よりご入洛のために…」とある。この時期に京都から離れて入洛を画策した将軍は、「鞆(とも)の浦」(広島県福山市)で“亡命政権”を作っていた足利義昭しかいない。義昭は天正元年、槇島(まきしま)城の戦いで信長に敗れ、今では“そこで終わった人”扱いだが、義昭の真骨頂はむしろそこからだ。
平成26年にも大きな発見があった。林原美術館(岡山市)から出てきた「石谷(いしがい)家文書」。その中に、四国の戦国大名・長宗我部元親が、光秀のおいの斎藤利三に出した手紙があった。光秀の外交を担当していた利三への手紙だから、事実上光秀に出したものだ。
それには、「四国の領有をめぐる信長の命令に、答を出さなければいけないが遅れて申し訳ない」などとある。当時、信長が四国の国分けを進めていて、四国を制していた元親にとって厳しい条件を提示された。
この対立が、交渉に当たっていた光秀も追い込み、その中で本能寺の変を考えるいわゆる「四国説」が浮上。信長が隙を見せたから光秀が天下を狙ったという「単独謀反説」が長らく主流だったが、石谷家文書が見つかってこれを主張する研究者はいなくなった。
義昭と光秀は、「永禄の政変」のあと、義昭が足利家復興のため各地を渡り歩いていた際に知り合った間柄。これらの文書から見えるのは、2人は本能寺の変以前から結びついており、光秀が義昭の命令を受けて実行したという状況だ。
優秀な光秀への死に等しい処遇
石谷家文書からは、信長が長宗我部一辺倒だった四国政策を、天正9年後半から徐々に変更したことが分かる。そこには、織田家臣団の派閥抗争があった。
四国では長宗我部と三好が最終抗争を繰り広げ、長宗我部は光秀を使い信長の力を背景に三好を圧倒していた。だが三好側も、中国地方を信長から任されていた羽柴秀吉と手を結んでいた。秀吉も自らの生き残りのため、三好の水軍衆が必要だった。
光秀と秀吉というライバルが、中四国で生き残りをかけた争い。秀吉がさまざまな策を駆使して力関係を逆転させ、四国でも秀吉−三好方の動きが早まり、光秀−長宗我部方がどんどん追い込まれた。
抗争の勝敗が見えてくる中、大規模な国替えも進んだ。畿内周辺は秀吉派が占め、光秀は出雲・石見行きのようだった。優秀な光秀のことだから当地で名君になったかもしれないが、文学や芸術に秀で、京都を支配できる力を持つ彼が中央を去るのは、「死」に等しい処遇だったと思う。
また、光秀は自らの生き残りだけでなく、「あるべき国家を守る」という使命を持っていたと思う。当時の信長の思想・行動に対して「朝廷を相対視し、従来の伝統的な国家を壊す」という危機感を抱いたため、「謀反人といわれようともこれを阻止しなければならない」と考え、動いたのではないだろうか。
天下統一を考えたのは信長だけ
本能寺の変は、大きく3層構造をなしていたといえる。基層の部分は、「四国の覇者」をめぐる長宗我部と三好の争い。中層は、西国支配における織田家臣団の派閥抗争。上層部分は、伝統的な室町将軍と新しい国を作ろうとする信長のぶつかり合いだ。
本能寺の変を理解する上で重要なのは、義昭が京都から追放されたからといって、すぐに室町幕府が滅亡して近世に変わるわけではない、ということ。信長の「安土幕府」と義昭の「鞆幕府」が国の方向性をめぐり、諸大名を巻き込みながら大きな内乱状態に突入していったとみるべきだ。
最後に−。戦国大名が現れて各地で争覇戦を展開した時代、教科書は「やがて天下が統一された」と書くが、分権と集権はまったく逆のベクトル。大名らは自分の国を強くし、富ます努力をした。「天下統一」を考えたのは信長だけだ。
信長が戦国大名の一人にとどまらずに天下統一を目指し、日本が集権的な国家に移っていったのは、世界でも早い。そうした意義について世界史的なレベルで問われなければならない。
私は特に歴史マニアではないですが、歴史ドラマなどで単に通説を覆す視点で描いてみたという構想には違和感を持ちます。悪人とされてきた歴史上の人物は実は“良い人”だったとか、その逆とか。 でも、光秀は信長とソリが合わずに絶えずイジメられてきて、ついに堪忍袋の切れたという設定もステレオタイプで、あとは配役のことだけが話題になるとか。
どちらも歴史をつまらなくしていると思います。
創作は自由だとはいえ、歴史ものを作る人達は今以上に、歴史をじっくり勉強して、そのうえでの人物描写などをお願いしたいです。
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