くにしおもほゆ

羅針盤を見誤ることなかれ

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 パチンコ屋の倒産を応援するブログ 』(exciteブログ)より転載させて頂きました。


(以下、転載記事  ↓のタイトルをクリックして元記事に行けます)

今年も一年ありがとうございました。 


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今日の記事はやたら長いです。先に謝っておきます。
いろいろ省略できる部分があるのですが、
そこはブログ主の気まぐれです。
ご容赦ください。

みなさんは応仁の乱はご存知だろうと思います。

室町幕府の諸大名への影響力を失わせ、
戦国時代の幕開けとなったと言われる戦争です。

応仁の乱に至る道を解説しようとすれば
嘉吉の乱や享徳の乱などについても説明しなければなりません。
詳しくやるとこの記事何本分になるかわからないので
簡単に書こうと思います。(それでも長いです)

くじ引き将軍と言われた足利義教が嘉吉の乱で暗殺されると、
10歳に満たない足利義勝が将軍を継ぐことになりました。
ここで足利義勝の擁立をした細川持之が実権を掌握しました。

細川持之は足利義教を暗殺した赤松満祐討伐を指示しますが、
これがうまくいかず、山名宗全らを討伐に派遣するのみならず、
西国の大名にも討伐令を出し、
さらには朝廷に赤松満祐討伐令を出させて
ようやく赤松満祐討伐を達成させました。
ですが細川持之自身もほどなくして病没します。

当時、幕府の助言者的立ち位置だった管領職は
畠山氏と細川氏で交互に受けもっていました。

このため、細川家だけでなく畠山家、将軍側室の日野家なども
幼い義勝を通して幕府に介入していきました。
ですが義勝は将軍就任から8ヶ月で病死します。

そしてすぐに弟の足利義政が将軍職を継ぐことになりました。

兄義勝と同じく若くして将軍職を継いだ形の義政だったため、
兄の時と同じく有力大名などによる幕政への関与が続くことになり、
室町幕府の権威が大きく損なわれ、
将軍による諸大名への影響力が低下することになります。


室町幕府には関東に邪魔な存在がありました。
それは関東の足利家でした。

足利尊氏が京に幕府を開くにあたって
それまでの幕府のあった鎌倉は
関東における重要な都市となっていたこともあり、
鎌倉に室町幕府のコピーとして鎌倉府を作り、
関東を統治させようとしたのです。

足利尊氏は嫡男の足利義詮に将軍職を継がせると
その弟の基氏に鎌倉を治めさせるようにしました。

こうして鎌倉公方と呼ばれた関東の足利家ができるわけですが、
当初は将軍の血筋を絶やさない為の分家でもありました。

ところが幕府に次ぐ権限を認められている上に、
幕府の後継者にもなれる血筋とあれば、
上洛して将軍職を簒奪しようという野望を持つ人間出て来ないはずがなく、
足利義満の代には畿内で起きた乱に乗じて
しばしば幕府を脅かそうとする動きを見せるようになります。

こうして室町幕府にとって鎌倉公方はいつのまにやら
仮想敵となっていきました。

一方で関東武士は独立心が強く、
鎌倉府は決して安泰といえる状態ではありませんでした。

上杉禅秀の乱が起きると
鎌倉公方の支配力が低下しこの構図はよりはっきりとしました。

そこで足利持氏の代になると
鎌倉公方が関東の直接支配力を強めようと動きます。

ところがこの動きを牽制しようと室町幕府が介入しました。
これでさらに室町幕府と鎌倉公方の関係が悪化。

そんな中で室町幕府では将軍の足利義量が亡くなり、
足利義教が後継者となりました。

鎌倉公方足利持氏は
将軍の足利義教への対抗姿勢を強めていました。

間に入って室町幕府と鎌倉公方の仲裁役に徹していた
関東管領上杉憲実が鎌倉と幕府との対立にならないように
人事などにも逐一介入する事に対して
持氏は上杉憲実を敵とみなしていくようになります。

そして足利持氏は上杉憲実討伐へと挙兵します。
これが永享の乱です。

ところがこれが幕府への背信とみなされ、
室町幕府は上杉家へ援軍を送り、
さらに足利義教は朝廷へ働きかけて持氏を朝敵に指名させました。

幕府にケンカを売りながら
幕府との仲裁に動いていた上杉家に攻撃を仕掛ければ
実質二正面作戦となるわけですから一気に戦局が悪化しました。

そして朝敵にされたこともあって
持氏方から多数の離反も出ることになり、
持氏がの起こした乱は2ヶ月で敗北、
持氏は鎌倉の土牢へと幽閉されます。

上杉憲実は自分を殺そうとした持氏に対して恨むどころか
関東に無駄な乱を起こさせないように
将軍義教に持氏の助命を嘆願しました。

しかし、義教は足利持氏とその息子を処刑して
自身の息子を鎌倉公方に据えようと考えました。
そこで義教は上杉憲実を繰り返し脅して、
ついにこれに折れた上杉憲実を通して持氏父子を自害させました。

これによって持氏の遺児達が蜂起するも幕府はこれを鎮圧。

ここまではうまくいっていた足利義教でしたが、
畿内を中心に大名家の家督相続へ積極的に介入し、
意に反した大名は決して許さず殺害するという
恐怖政治を行っていたため義教の評判は非常に悪いものでした。

その恐怖政治によって次は誰が将軍に討たれるのか、
次は赤松満祐ではないかという噂が出ていました。

噂を警戒した赤松満祐は宴を開いて将軍を招請、
御成になった将軍義教を暗殺しました。

まだ義教の子供達は10歳に満たず、
その弟たちを鎌倉公方に送り込むには早すぎますし、
何よりも将軍家の威信を保つ為にも赤松満祐の討伐が最優先となりました。

まだ幼い足利義勝、義政らを通して実権を握っていた大名達は
足利義教の構想とは真逆の
「持氏の遺児に鎌倉公方を継がせる」
という判断をしました。

こうして足利義政が将軍に就き、
鎌倉でも持氏の遺児であった万寿王丸が元服、
足利義政(このころは義成と名乗っていた)
から一字もらいうけて足利成氏と名乗り鎌倉公方を継ぎました。

ほぼ同じくして上杉方も
憲実の息子が17歳で家督を相続しましたが、
実際には上杉憲実から家臣達が実権を奪ったものでした。

鎌倉公方として関東での支配権を固めたい足利成氏と、
実力で領地を奪取しこれを維持したい上杉家の家臣達が対立。

そして上杉家と鎌倉公方足利成氏で合戦へと発展します。

一方で幕府の実権はというと
義政が若いこともあって管領となった細川勝元が掌握しました。
この細川勝元が露骨に上杉家へ肩入れします。

さらには幕府において細川勝元にならぶ存在で
親足利成氏派だった畠山持国が病死。

ここに鎌倉公方足利成氏は幕府へのパイプ役を失いました。
上杉家に肩入れを続ける細川勝元へ
なんとか交渉をするためのカードが消滅しました。

足利成氏が幕府と交渉して事態を打開するためには
細川勝元に直接話すしかありません。

ところが細川勝元は
「上杉家を通さなければ一切相手にしない」
と足利成氏にすでに申しつけていました。

足利成氏には細川勝元と交渉する窓口が実質的になくなったわけです。
ところが上杉家とは対立中です。

完全に手札がなくなった場合はどうなるか?
そうです。
もはや実力で障害を排除するしかありません。

ここに、のちに約30年も続く享徳の乱が起こりました。

室町幕府はこの乱に乗じて上杉方を支援し、
足利成氏の討滅を狙いました。

将軍足利義政は異母兄の足利政知を鎌倉公方にしようとして
関東へと送り込みます。

が、足利成氏は幕府がけしかけた豪族や
上杉家などからの攻撃を凌ぎきり、
また鎌倉周辺に親足利成氏派の豪族が多い事もあって
足利義政の成氏誅滅〜兄正知による関東支配計画は頓挫しました。

一方で足利義政は義教のように
積極的に有力大名家へ介入して後継者を変えさせるなどして
幕府の影響力を大きくしようとしていました。

そんな中で義政は斯波氏の後継者に足利政知に繋がる渋川氏を入嗣させ、
斯波氏の兵を実質的に足利政知方の戦力にし、
これで関東支配をさせようと企みました。

上杉家を通して足利成氏を滅しようとした義政でしたが、
いつのまにやら「足利政知を通しての関東支配」
ということに注力していたわけです。

これで足利政知と上杉家が対立。

足利義政と細川勝元の行動によって
室町足利家、鎌倉足利家、扇谷上杉家が
三つ巴の対立になりかかりました。

これで慌てた義政は急遽足利政知の権限を縮小。
さらに斯波氏に入嗣させた渋川氏を失脚させ、
自ら失脚させた斯波義敏を再び斯波家当主に復帰させようとしました。

ですが渋川氏から入嗣させ斯波氏当主となっていた斯波義廉が
おとなしく党首の座を明け渡すはずなどありませんでした。

また、足利義政は畠山氏の後継争いにも介入していました。

これが畠山義就が有力大名だった山名宗全を頼る原因となります。
斯波義廉もまた山名宗全を頼り幕府と対立します。
一方で畠山義就と対立していた畠山政長は細川家との結束を強化。
こうして細川方と山名方の対立構図が作られていきます。

ほどなく文正の政変がおき、
義政の側近で大名家への介入を受け持っていた伊勢貞親が失脚します。

義政は側近を失い、
細川勝元と山名宗全の権力争いに介入する事ができなくなりました。
ここから応仁の乱となっていくわけです。

乱は細川家、山名家でそれぞれが
周辺の大名に働きかけて他家を次々に巻き込んでいきました。

しかしながら、側近を失ってパイプを失い
自らの切れるカードも失っていった幕府は
京の都で戦争をやっている山名家と細川家を
止める事ができません。

ここで大義名分を作る為に
山名宗全方は足利義政の弟の足利義視を将軍に立てました。
そして将軍を僭称させた義視に
九州・四国の大名に参戦するように檄を飛ばさせました。

当然そうなれば細川方もこちらこそ正当な幕府方であると
たとえば山名方の領地などを餌にして
大名を参戦させるなどして対抗しました。

こうして戦線が畿内から全国規模へと広がって行き、
極めて無責任に
それぞれの地域での大名同士の対立構図が次々に作られていきました。

幕府は方々に飛び火した対立の原因の一部を作ったこともあり、
これらの対立を全く止められませんでした。
挙げ句、この戦争を引き起こし拡大させた
山名宗全も細川勝元も世を去ってしまい、
もはやなんのために戦争を続けるのかわからない状態となり、
山名家と細川家はここに講和をして停戦します。

しかし、それまでに細川、山名両家が
東海、北陸、近畿、中部、
あらゆる場所で大名同士の対立を作ってしまったこともあり、
乱を止める事はできませんでした。
ようやく形だけ応仁の乱が終決したのは
山名家と細川家が講和して3年も後でした。

応仁の乱によってそれぞれの大名は
幕府に所領を安堵してもらってもなんの意味もなくなり、
実力が全てという状況を作り出してしまいました。

幕府の力が無くなってしまったために
幕府の命令を無視してもなんの制裁も受けないからです。

幕府の権威は完全に地に落ちてしまい
統治能力を失いました。
これが戦国時代へとつながっていくわけです。


余計な敵を作って自滅したり、
余計な事をして自ら切れるカードを潰していって戦争を不可避にしたり、
この当時の事例から私達が学べる事は少なくないと思います。


さて、はしょりまくってもこの長さなわけですが、
この応仁の乱へ至った流れを経済の面から見てみましょう。

室町幕府は発足当初から直轄領の少ない経済基盤の弱い幕府でした。
足利義満のときは幕府の経済政策が功を奏して
全盛期を迎えることになりましたが、
義満の時代が終わると再び幕府財政は弱体化していきます。

挙げ句に勘合貿易で荒稼ぎしていたはずが、
その種銭すら作れなくなり、
ついには幕府は勘合符を売りに出すにまで至ります。

そして有力商人や守護大名達が勘合符を利用しさらに経済力を強化。

幕府よりも有力守護大名家の方が経済力があるという状態になりました。

経済力が弱く、実力を維持できない幕府が
中途半端に諸大名に介入したところで
反抗されるのは容易に予想ができると思います。

だからこそ足利義政が積極的に介入を繰り返したものの
義政の命令を大名達が無視して所領確保に勝手に奔走し、
細川方、山名方を通しての乱の拡大になっていったわけです。

この反省を踏まえて江戸幕府では地方の大名に
参勤交代で経済力を常に削ぎつつ、
幕府直轄領で交通の要所と経済の要所を押さえて
幕府の支配力を保とうとしたわけです。

末期には拡大しつづけた大奥に食いつぶされたようですけど・・・。


さて、現代に視点を移しまして、
日本の財界人、特に商社は自分達の利益を優先させる方便として
「経済的に裕福になれば民主化する。中国の為なんだ」
と嘘を繰り返して支那への資本注入と技術流出を
積極的に行ってきました。

なにせ支那へ輸出できない工作機械でも
バラして部品だからという事にして持ち込んだり、
民主党政権で大使に抜擢された丹羽宇一郎に至っては
伊藤忠で支那の農産物生産を拡大させ
これを日本に輸出させることで荒稼ぎしました。

そして伊藤忠が取り扱っていた農産物は・・・・
どうみても日本から勝手に持ち出した品種です。本当にありがとうございました。

中共は経済的に発展していくほどに、
周辺国への侵略の強化し、
また周辺国どころか世界に対して取る態度も尊大になっていきました。

それでも今でも都合が悪くなれば
我々は発展途上国なのだから途上国扱いして優遇を続けるべきだと
すぐに都合良く弱者面するあたりは
西朝鮮という呼び名にふさわしいですが。

そして経済力で日本を追い抜けると確信すると
いよいよ日本への侵略行為も加速させてきました。

その豊富な資金から多額の工作資金も作り出して
米国政府内にも大量のパンダハガーを作り出す事で
自分達の世界侵略計画を妨害されないように
米国内の政治をも麻痺させていきました。

そこで次のステップとして南シナ海を埋め立てて軍事基地を建設。

賄賂漬けの米国民主党政権は
これを見逃し続けて基地を完成させるに至りました。


中国共産党がこうした拡大政策をとれるのは
為替操作によって世界の工場として
世界各国からの資本投入をさせてきたことも大きいですが、
六四天安門事件で国民を戦車で轢き殺すなどして
世界から経済制裁をされて孤立していたときに
日本の政界で実権を握っていたのが田中派でした。
(とくに幹事長小沢一郎が我が世の春を謳歌していた時期でもある)

周囲の反対を押し切って天皇皇后両陛下の訪中を強行。

日本が世界最強の外交官ともいえる天皇皇后両陛下を
訪中させると言う事は日本が中共を許したと
世界に受け取られることになったでしょう。

これで西側諸国の経済制裁が次々解除されていきます。

その後、日本は財務省主導で円高デフレ維持政策が続けられ、
経済はひたすら停滞。

財務省主導の円高誘導による経済停滞政策は
国内産業の空洞化が進め、
支那など海外への工場移転が相次ぐことになります。

これでますます中国共産党が調子付くことになりました。

一方で日本はというと財務省日銀に阿る財界人どころか
労働者の権利の保護を名目に組合費をかき集めている連合までもが
財務省日銀に阿って増税を主張する始末です。


中国共産党が日本に対する態度をどんどんと
尊大な物にしていった背景には
経済力で日本に追いつき、追い越していった。
国力で日本に勝っているという彼らの自信があるわけです。

日本は財務省が主導する経済停滞政策、
人件費の調整場面で組合は労使馴れ合いで
若者に全てのツケを背負わせる、俺達は勝ち逃げするという選択を行い。
結婚適齢期の若者は低収入で所帯もろくにもてない
そういうような状況になって少子化も加速したと思います。


財務省は増税に反対する声を「ポピュリズム」として
全て悪だと財務省内でも教義にしている状態で、
とにかく増税を永遠に続けることで
財務省の省益を拡大させ続けていくという考えしかありません。

この財務省主導の不況維持政策によって
自殺者がずっと3万人の大台を維持させられたりした件については
財務省官僚どもは人殺しだと言えます。

また、日本の経済をひたすら停滞させることで
相対的に日本の地位を低下させ、
日本の安全保障すら脅かし続けているという点でも
財務省官僚どもは国賊であると断言できます。

ブログ主は財務官僚の家族が世間からイジメ殺されても
もっとやれと言ってしまいそうになるほど
財務省の重ねてきた罪は大きいと考えています。


一方で安倍政権は戦後最長政権になろうとしています。

安倍政権が長期政権になっているのにはいくつも理由がありますが、
最も大きいのは経済的に民主党政権のときよりも遙かにマシだから
という点であると考えます。

しかしながら明らかに赤化統一を目指している文在寅、
沖縄は和が領土と国内教育をしている中国共産党。
核ミサイルで我が国を脅している北朝鮮。
北朝鮮を利用して日本を草刈場にし続けようと考えるロシア。

安全保障環境は急速に悪化していると言えます。

だからこそ安定政権が重要なのですが、
財務官僚は日本人をどれほど殺そうと
省益が一番という姿勢を全く変えていません。

財務省は自分達の思い通りにならなければ、
いつでもマスゴミに次々にネタをリークし、
時に無実であっても国税庁を動かして査察に入らせ
財務省に逆らう物を黙らせるという事を繰り返してきました。
この権力はまったく変わっていません。

安倍総理は安全保障環境が抜き差しならない状況のため
日本国と日本国民の敵である
巨大な権力を有し続けている財務省との二正面作戦を避ける為に
増税延期とは決して言いません。

言ったら途端に財務省からの攻撃が始まるのがわかっています。

2014年に消費税10%への増税を延期したのは
財務省の中でも特に増税への執念を燃やし続け、
増税を正義と信じて疑わなかった香川俊介が亡くなった
という事も大きかったでしょう。

香川俊介は政局になろうとお構いなしで裏で動き続けました。

菅官房長官に「お前が動くと政局になるから今回は動かないでくれ」
と言われてもなお反論して増税のために
裏で走り回っていました。

かつて小沢一郎が実権を握っていた細川内閣では
小沢一郎が深夜に細川総理に国民福祉税7%を発表させましたが、
これを発案したのが香川俊介だったそうです。

福祉に係る予算は人口ピラミッドの偏りから
その後30年以上は増え続けるわけで
福祉目的税という名目にしてしまえば、
延々と増税していけるという企みが、
この当時から財務省(当時は大蔵省)にはあったわけです。

話を戻しましょう。

財務省は安全保障上も日本の最大の敵となっています。
そして消費税増税延期のためには
国民の多くが財務省が嘘を主張し続けている事実を
共有しなければなりませんが、
残念ながら情弱層が情報源にしているテレビや新聞は
新聞だけ軽減税率対象にしてもらうという
無意味な空手形という疑似餌に釣られて、
消費税増税しろとしか言いません。

そして今でも財務省が長年国民を騙す為の嘘として流布してきた
「国の借金がー、国民一人当たりXXX万円の借金だー」
と財務省のプロパガンダを垂れ流し続けています。

日銀が金融緩和を続けたことによって
日銀の国債保有率が上がり45%になっています。
(↓このへんにグラフあり)
http://www.garbagenews.net/archives/2126503.html

日銀は日本政府の子会社であり、円を刷っています。
すでに日本政府の実質的な負債は減り続けているわけです。

財務省が長年言い続けて来た「国の借金がー」
「財政再建がー」という言葉に騙され続けて来た日本国民でも
フェイクニュースばかり垂れ流す
テレビや新聞しか情報源のない情弱層は
これにまんまと騙され続けているわけです。


考えてみてください。
1982年に鈴木善幸総理が「財政非常事態宣言」を出して
緊縮財政を推し進め、
1995年には村山内閣で武村正義大蔵大臣が「財政危機宣言」を出しました。
そして村山内閣は消費税の5%への増税を決定させて
橋本内閣への置き土産としてこの爆弾を置いていきました。

財政危機宣言などと言いながら日本は財政破綻しましたか?
財務省の資料によれば1995年の国の国債残高は297兆円となっています。

破綻する破綻すると散々騒ぎ続けて、
5%に消費税を増税したら
むしろ景気が悪化して
かえって税収が落ち込んだだけでした。

財務省がマスゴミを通して煽り続けてきましたが、
財政破綻などせず今に至っています。

そして今や日銀引き受けによって
実質的に国の借金は減っているのが現実です。

消費税増増税しなければ財政再建できない。
景気がよくなっても税収は上がらないと
財務省が言い続けてきた事が嘘だとはっきり裏付けられたと言っていいでしょう。


来年、消費税を増税すれば
オリンピック前に景気にトドメを刺すことになりかねません。

そして景気が悪化すれば安倍政権の支持率も維持できなくなるでしょう。

消費税増税によって景気が悪化すればその責任を与党になすりつけ
声高に叫び続ければ再び政権を奪取できる。
野田佳彦はこれをねらって2段階増税法案を全力で通したのですから。


安倍総理には財務省を守る姿勢をこれまで全く変えてこなかった
麻生太郎を押し切って消費税増税阻止のための解散に打って出るべきです。

たとえ安全保障環境が緊迫していようと、
譲位などの国家行事があろうとも、
国家の将来を考えれば、
なんとしても財務省の狙いである
「不景気に戻すことで省益拡大」
という事を挫くことが最も良い一手となるでしょう。

来年は解散を打って衆参同日、消費税増税廃止と動いて欲しいです。
これができるのであれば、
超高齢化で先細りしている反日勢力にも大打撃を与えられるでしょう。

経済力というのは国力に直結するのですから、
安全保障という点からもとても重要なのです。

年末なのに総括ではなく
来年の願望を長々と書いてしまいました。

たまにはこういうのも・・・長すぎて読み疲れたかもしれませんが。

これに懲りずに来年もお引き立てくださいますようお願いします。

今年も一年ありがとうございました。



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