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産経west2018.6.11 11:00更新 http://www.sankei.com/west/news/180611/wst1806110001-n1.html 
奈良のシカ50頭が突然、市街地を爆走…衝撃映像から原因を探ると


古民家が軒を連ねる奈良市の住宅街を、ひづめの音を響かせて爆走するシカの大群−。5月中旬の早朝、国の天然記念物「奈良のシカ」のうち約50頭が突如、奈良公園を離れ、群れをなして市街地を走り出した。その模様はツイッターに動画でアップされ、瞬く間に全国のユーザーに拡散、ニュースにもなり話題を集めた。地元の人もあまり目にしたことがないシカの“奇行”。原因は何だったのか。(桑島浩任)

50頭もの群れが突如…
 5月13日午前6時ごろ、近鉄奈良駅と奈良女子大を結ぶ通りで驚きの事態は起きた。同大生活環境学部2年の田中菜穂さん(19)はアルバイトに行くため駅に向かって歩いていると、交差点を曲がって近づいてくるシカの姿が見えたという。
 「最初は4、5頭だった。また草を食べにきたのかと…」。奈良公園に近い大学の構内でシカが草をはむ姿は、学生たちにとっておなじみの光景だ。ところが、いつもとは違い、曲がり角からわき出るように現れたのはなんと数十頭。これには、ただ驚くばかりだった。
 「とにかく動画を撮らなきゃ」。身の危険を回避するように道の端に逃げ、慌ててスマートフォンを取り出した。あっけにとられながら撮影した15秒間の動画をツイッターにアップしたところ、大きな反響があった。テレビを中心にメディアもこの動画を取り上げ、「奈良のシカ 暴走映像」として有名になった。
 「ちょっとぐらいは話題になるかなと思ったけど、まさかこんな騒ぎになるとは…」。リツイートの通知はひっきりなし。テレビ局からの取材依頼も殺到し、動画の再生回数は140万回を超えた。一躍、時の人になった田中さんは「私が戸惑っているのを見て、友達は笑ってました」と振り返った。

複数の群れが合流か
 シカの群れはどこに向かったのだろう。午前6時半ごろ、奈良女子大近くの目撃現場から南西約200メートルの市道沿いで、パトカーに乗っていた警察官2人が北に向かうシカの群れを見ている。また、別の学生は同7時ごろ、奈良女子大の正門から大学構内に入っていく10頭以上の群れを目撃している。
 それにしても、驚くべきはその数だ。田中さんが撮影した動画には、50頭近くが映っている。大学の近くで生花店を営む男性(43)は「(群れは)多いときでも7、8頭。それ以上は見たことがない」と驚く。シカとなじみの深い地元住民にとっても、予期せぬ事態だったようだ。
 なぜ群れをなして駆けだしたのか。奈良公園内でシカの保護施設「鹿苑(ろくえん)」を管理運営する一般財団法人「奈良の鹿愛護会」の職員は「動画を見ると、周囲を落ち着きなく見回している。何かに驚いて走り出し、見知らぬ場所に迷い込んだのではないか」と指摘する。シカはリーダー格の一頭が常に周囲を警戒し、危険を感じると仲間を率いて走り出す習性があるという。
 映像からシカの大群にはオスとメスが混在していることも分かった。発情期である9〜11月ごろを除けば、子育てに参加しないオスはメスとは別に群れを作るのが一般的。職員は「人のいたずらか犬に驚き、複数の群れが一緒に逃げた可能性が高い」と推測する。

シカとは節度を持った付き合いを
 今回の一件ではけが人や事故などは報告されておらず、シカの群れも無事に奈良公園に戻ったとみられる。だが、一歩間違えればどうなったことか…。
 古来、「神の使い」としてあがめられてきた奈良のシカ。昔の人たちはどうやってシカと共存してきたのか。
 奈良の鹿愛護会の臨時研究員は「江戸時代中期ごろは、各町内に木戸が設置され、シカの行き来を制限していた」と話す。人が通行する際だけこれを開け、シカが自由に歩き回らないようにしていたらしい。こうした木戸は本来、防犯用だったが、奈良では町の事情に即した独自の用途で活用されていたようだ。
 また、新薬師寺(奈良市)の近くでは「ばったり戸」と呼ばれる高さ約2メートルの扉を設置し、シカが奈良公園外に極力出ないようにコントロールしていたという。
 もっとも、住民とのトラブルが全くなかったわけではない。「シカの角で人がケガをしたという事例や農作物の被害が、行政や愛護会の資料に記録として残されている」(同研究員)。時を経て最近は、鹿せんべいをあげるのをじらした揚げ句、シカにかまれるなどの被害に遭う外国人観光客が後を絶たない。
愛護会の担当者は「人に慣れているとはいえ、シカはあくまで野生動物。予想外の行動を取ることもあるので、節度を持って付き合っていくことが大切」と訴える。
 一方、奈良女子大の近くに昔から住んでいるという女性(72)は「このあたりにシカがいるのは当たり前のこと。観葉植物を食べられたら追い払うけどね」と、あまり気にした様子はなかった。
 今回の一件はネットがもたらしたニュースといえそうだが、シカと人が一緒に住む古都・奈良ならではの出来事は多くの人にどう映ったのだろう。
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    シカの大群と遭遇した路地で、衝撃的な体験を振り返る田中菜穂さん=奈良市


以前にも記事をアップしましたが、異常なことが続いています。
なんとかしなければ!



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世界のフシギ探検ch
ザ・衝撃タイム
産経west 2018.4.30 15:00更新 http://www.sankei.com/west/news/180430/wst1804300006-n1.html
【歴史インサイド】 信長は「本能寺の変」なくても失脚していた…三重大教授が新たな視点で真相に迫る

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      本能寺の変のあと、光秀が送った直筆の密書
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    新史料などを基に「本能寺の変」の真相に迫る藤田教授=3月4日、松江歴史館

 日本史上“最大のミステリー”の一つとされる「本能寺の変」。天正10(1582)年、天下統一を目前にした織田信長が家臣の明智光秀に京都・本能寺で討たれた事件は、光秀の動機や黒幕の存在などこれまで諸説紛々さまざまな推論や検証が飛び交ってきた。これに終止符を打つべく、関連著作を多数発表してきた藤田達生・三重大教授(日本史学)が3月、本能寺の変をテーマにした特別展(2〜4月)を開催した松江市の松江歴史館で講演。「解明された本能寺の変」と題し、近年相次ぎ見つかった史料に触れながら鋭く真相に迫った。講演の主な内容を紹介する。

家臣団は仲違い、政権は不安定
 「『本能寺の変』なかりせば…」と言われるが、実はあってもなくても
 結果は同じだったと思う。信長が強烈な個性の持ち主だけに強大な政権だったと誤解しがちだが、案外弱いところがある。信長の専制的な性格が災いし、家臣団はしばしば仲違いやクーデターを起こして政権は不安定。本能寺の変の直前には臨界点に達しており、光秀が突出して大きな事件を起こしたのではなく、そういう土壌があったとみるべきだ。
 光秀は、200〜300年に一人の名将だと私は思う。信長に重用されたのは武将としてだけでなく、外交官としての側面も大きかった。外交交渉で高い能力を発揮し、無血で四国を切り取っていった手腕が評価されたのだ。


“終わった人”足利義昭の真骨頂
 本能寺の変の10日後に当たる天正10年6月12日の日付で、光秀が反信長勢力の豪族に送った「光秀最後の密書」といえる直筆の書状が昨年9月、見つかった。
 書状には「上意(将軍)よりご入洛のために…」とある。この時期に京都から離れて入洛を画策した将軍は、「鞆(とも)の浦」(広島県福山市)で“亡命政権”を作っていた足利義昭しかいない。義昭は天正元年、槇島(まきしま)城の戦いで信長に敗れ、今では“そこで終わった人”扱いだが、義昭の真骨頂はむしろそこからだ。
 平成26年にも大きな発見があった。林原美術館(岡山市)から出てきた「石谷(いしがい)家文書」。その中に、四国の戦国大名・長宗我部元親が、光秀のおいの斎藤利三に出した手紙があった。光秀の外交を担当していた利三への手紙だから、事実上光秀に出したものだ。
 それには、「四国の領有をめぐる信長の命令に、答を出さなければいけないが遅れて申し訳ない」などとある。当時、信長が四国の国分けを進めていて、四国を制していた元親にとって厳しい条件を提示された。
 この対立が、交渉に当たっていた光秀も追い込み、その中で本能寺の変を考えるいわゆる「四国説」が浮上。信長が隙を見せたから光秀が天下を狙ったという「単独謀反説」が長らく主流だったが、石谷家文書が見つかってこれを主張する研究者はいなくなった。
 義昭と光秀は、「永禄の政変」のあと、義昭が足利家復興のため各地を渡り歩いていた際に知り合った間柄。これらの文書から見えるのは、2人は本能寺の変以前から結びついており、光秀が義昭の命令を受けて実行したという状況だ。

優秀な光秀への死に等しい処遇
 石谷家文書からは、信長が長宗我部一辺倒だった四国政策を、天正9年後半から徐々に変更したことが分かる。そこには、織田家臣団の派閥抗争があった。
 四国では長宗我部と三好が最終抗争を繰り広げ、長宗我部は光秀を使い信長の力を背景に三好を圧倒していた。だが三好側も、中国地方を信長から任されていた羽柴秀吉と手を結んでいた。秀吉も自らの生き残りのため、三好の水軍衆が必要だった。
 光秀と秀吉というライバルが、中四国で生き残りをかけた争い。秀吉がさまざまな策を駆使して力関係を逆転させ、四国でも秀吉−三好方の動きが早まり、光秀−長宗我部方がどんどん追い込まれた。
 抗争の勝敗が見えてくる中、大規模な国替えも進んだ。畿内周辺は秀吉派が占め、光秀は出雲・石見行きのようだった。優秀な光秀のことだから当地で名君になったかもしれないが、文学や芸術に秀で、京都を支配できる力を持つ彼が中央を去るのは、「死」に等しい処遇だったと思う。
 また、光秀は自らの生き残りだけでなく、「あるべき国家を守る」という使命を持っていたと思う。当時の信長の思想・行動に対して「朝廷を相対視し、従来の伝統的な国家を壊す」という危機感を抱いたため、「謀反人といわれようともこれを阻止しなければならない」と考え、動いたのではないだろうか。

天下統一を考えたのは信長だけ
 本能寺の変は、大きく3層構造をなしていたといえる。基層の部分は、「四国の覇者」をめぐる長宗我部と三好の争い。中層は、西国支配における織田家臣団の派閥抗争。上層部分は、伝統的な室町将軍と新しい国を作ろうとする信長のぶつかり合いだ。
 本能寺の変を理解する上で重要なのは、義昭が京都から追放されたからといって、すぐに室町幕府が滅亡して近世に変わるわけではない、ということ。信長の「安土幕府」と義昭の「鞆幕府」が国の方向性をめぐり、諸大名を巻き込みながら大きな内乱状態に突入していったとみるべきだ。
 最後に−。戦国大名が現れて各地で争覇戦を展開した時代、教科書は「やがて天下が統一された」と書くが、分権と集権はまったく逆のベクトル。大名らは自分の国を強くし、富ます努力をした。「天下統一」を考えたのは信長だけだ。
 信長が戦国大名の一人にとどまらずに天下統一を目指し、日本が集権的な国家に移っていったのは、世界でも早い。そうした意義について世界史的なレベルで問われなければならない。

私は特に歴史マニアではないですが、歴史ドラマなどで単に通説を覆す視点で描いてみたという構想には違和感を持ちます。悪人とされてきた歴史上の人物は実は“良い人”だったとか、その逆とか。
でも、光秀は信長とソリが合わずに絶えずイジメられてきて、ついに堪忍袋の切れたという設定もステレオタイプで、あとは配役のことだけが話題になるとか。
どちらも歴史をつまらなくしていると思います。

創作は自由だとはいえ、歴史ものを作る人達は今以上に、歴史をじっくり勉強して、そのうえでの人物描写などをお願いしたいです。


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