ブラン・オール―白き乙女と金の竜

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 双竜山からトラロック王国の地へ足を一歩踏み入れた途端、初夏のなまぬるい空気を肌で感じたルーガであったが、目の前の青年の、冷気を誘う冴えた青色の瞳に見つめられると、体感温度が下がったような気がした。
 それは恐怖といった感情ではなく、心の内をさらりと撫でられたような妙な感触がし、自然と背筋が伸びてしまう、まるで故郷のユルグ老を思い出させるものだった。
「どうかされたか」
 訝(いぶか)る言葉とは思えないほど単調な口調で問われ我に返ったルーガは、首を横に振った。
「いや、失礼。確かに俺はルーガ・レクス、黒竜族長だ。――しかし、迎えにきたとは?」
 言外にその素性を疑った黒竜族長のもっともな質問に、ジェイスと名乗った青年は気分を害した様子もなく答えた。
「王立図書館薬草学部長補佐、セルジュ・ディローヌから話しは全て聞き及んでいる。ルシフェルカが随分と世話になり、感謝している。別宅ではあるが、ぜひ当家へお寄りいただきたいのだが、いかがか」
 嘘のつきようもない内容に、ルーガは青年が確かにアニス伯爵家現当主であると確信し、明るい声音で率直に胸の内を明かした。
「まさかアニス伯爵御自ら迎えに来てもらえるとは思わなかった。それに、どうやって俺たちが到着する日が分かったのか教えてもらいたいな」
 相手が貴族であろうと、その素性を知ったルーガの口調はくだけたものになる。隣でギルウスが困ったような表情をしたが、若き黒竜族長のそれが相手に対する好意の高さを推し量る材料であることを知っていたため、あえて何も言わないようだった。
 ジェイスもルーガの口調のことは気にならなかったようだが、彼の太陽のような明るさには少々驚いたらしく、冷たい色をした瞳に温度が生まれた。
「ルーガ、あなたはセルジュとリノンから聞いた通りの人のようだ。それから質問の答えだが――まず、義妹の恩人だ。私が迎えに行くことは当然であるといえるだろう。そして、今日という日が何故分かったかというと」
 ジェイスは瞳だけでなく、今度はうっすらと表情に温かさを乗せた。
「ヴァロアルスという聖名(せいめい)で気づくかと思うが、私の先祖には有翼人(ゆうよくじん)がいる。したがって、その血筋から受け継いだ異能力であなた方が来ることを感知できた」
 つまり精霊が報せてくれたのだ、とジェイスは最後に言い加えた。
 事情を知ったルーガはすっかり感心顔だ。ジェイスに心の距離も含めて一歩近づく。
「トラロック王国の伯爵にウォルド王国の血筋とは驚きだ。ルシカの存在を受け入れたことも頷ける。それで、別宅へ行くという話だが、ルシカには会えるだろうか」
 ルシフェルカに対する好意を隠そうともしないルーガであったが、ジェイスは快く首肯した。
「旅の疲れが取れないので寝かせているが、面会はできるだろう。それよりも、少々気がかりがあって急いでいる。できればあちらで待たせている馬車の中で続きを話したい」
「何かあるのか」
 無表情に近いジェイスは淡々としていたが、急ぎと聞いたルーガが真剣な面持ちになった。
 馬車に乗るべく後ろを振り向きかけていたジェイスは歩を止めると、首を縦に振った。
「王立図書館からルシフェルカに会いに来る人物がいる」
「それは……」
「――ルシフェルカを被検体にしていた、医術学部長だ」
 その後、アニス家別宅までの道のりには、馬に幾度も鞭打つ音と、激しく回り続ける車輪の音が鳴り響いたのは言うまでもなかった。
 国境線の意味合いを持つ連山・双竜山は、各山々に出入り口を設けている。これには、お互いの国々を安心して往来できることと、他国の情報をいち早く知ることができる利点があった。しかし、中にはその出入り口を利用せず、秘密裏もしくは緊急事態のため山を越えようとする者たちもいる。そんな輩を取り締まっているのが、白竜族と黒竜族なのである。そして、彼らが誇りをかけて守る山々は今日も何事もなく、多くの旅人たちが山道を行き交っていた。
 その人々に混ざり、双竜山を西側、つまりはトラロック王国側へと下山するひときわ目立つ二人組があった。
 若き黒竜族長ルーガと、左竜ギルウスである。
 二人とも長身で、特にルーガなどはその輝く金色の髪と端正な容貌が人目をひいたが、やはり何といっても、両者からあふれる力強い気力と自信が並々ならぬ存在感を示し、すれ違う人々の視線をくぎ付けにした。
「ああ、白竜族長の説教は長かったな。あんなに誰かにしぼられたのは何年振りだろうな」
 もうすぐ山裾に到着するという時に、様様なことを思い出したルーガは、辟易した様子でため息をついた。
 すっかりいつもの調子を取り戻している黒竜族長に、ギルウスが小さく笑った。
「お前を本気で反省させることができるのは、白竜族長様しかおられないだろうな。たまにはいいだろう、落ち込んでみるのも」
「そのたまにが、あんな雷を食らうことだなんてごめんだね。同じ失敗はしないと肝に銘じたよ」
「良い心がけだ。やはり今回の件はお前にとって悪いことばかりではなかったようだな」
「……まぁね。これでルシカにも堂々と会えるんだ。さぁ、急ごうか、アニス伯爵家の別宅へ」
 気を取り直したルーガが歩く速度を上げた。それに余裕の表情で続くギルウス。
 そんな二人が双竜山を下り、トラロック王国へ一歩足を踏み入れると、そこで一人の青年が待っていた。
 青年は仕立ての良い服装から高貴な家柄の者であることがわかる。さらに、物静かな佇(たたず)まいが良く似合い、やや感情表現に乏しいが堅実そうな光を宿した切れ長の目が見るものの心を捉え、只者ではない印象を与えた。
 青年は、ルーガたちの姿を見ると、迷いなく悠然とした足取りで近寄り声をかけてきた。
「不仕付けで申し訳ない。あなたは黒竜族長、ルーガ・レクスで間違いないだろうか」
 見た目の印象を裏切らず、抑揚が少ない口調が一瞬、ルーガの中で王立図書館員のセルジュ・ディローヌの面影と重なる。青年からは危険な気配を感じることはなく、それは傍らのギルウスが態勢を変えていないことで確信が持てた。
 何も言わないルーガの心を読み取ったかのように青年が淡々と続けた。
「私はジェイス。――ジェイス・ヴァロアルス・アニス。ルシフェルカの義兄だ。あなたを迎えに来た」
 昼食後ルシフェルカは発熱がみられ、イオンが処方した薬湯を飲み眠りに落ちていた。
 熱で顔を赤くした少女の呼吸が落ち着いてくると、傍で見守っていたリノンは安堵し、腰掛けから立ち上がった。
「ルーガ、遅いわね」
 空気の入れ替えにと部屋の窓を開け放ち、昼食時の温かな風を取り込んで呟く。女性にしては長身で、きらめく生命力にあふれたリノンが窓辺に立つと、初夏の午後のぬるい風までもが活気を取り戻すようであった。
 独り言に思えたその呟きには答える者があった。金髪の美少年・イオンだ。いつもルーガにからかわれてばかりの立場である彼は、ふんと鼻を鳴らした。
「きっと、白竜族長にしぼられているんだよ。双竜山に不法侵入した輩を勝手に逃がしたんだから。それより、伯母さんは里に戻らなくていいの? ギルウスさんもルーガに同行していて、館は主人不在でしょう」
 イオンはルシフェルカの額に触れ、薬湯がきちんと効いていることに、よし、と小さくうなずいた。
 見た目は普通の美少年、しかしながらその真剣な表情は一人前の医者である甥っ子に、リノンはあらためて感心していた。しかも、このアニス家別宅に来て、トラロック王国王立図書館に就学することが決まってからは、なおさら大人びてきたように思える。
「ルシカの傍にいることは、ルーガの指示でもあるわ。事態が完全に落ち着くまでは、ここにいるつもり。ジェイス様も了承済みよ」
「なるほど。王立図書館の連中が簡単にルシカさんを諦めるとは思えないしね」
 難しい顔をしながら頷くイオンがあまりにも少年らしくないので、頭が良すぎるのも考えものだ、と伯母として苦笑したリノンである。
 と、そこへ、ルシフェルカの義兄であるレスリィが顔を出した。いつもの明るい笑顔ではなく、警戒心をあらわにした硬い表情だ。
 レスリィは眠っているルシフェルカを起こさぬよう声をひそめた。
「王立図書館の医術学部長が来ている。ルシフェルカに直接会うといって聞かない」
「そんな……突然、しかもジェイス様がいないときに来るなんて! ルーガたちと話し合って、ルシカを解放すると決めたはずでは」
 眉間にしわを寄せて怒りの声を上げたリノンは、慌ててルシフェルカが眠っていることを確かめた。幸い、少女が目を覚ました様子はない。
 親友である少女のこととなると、つい熱くなってしまうリノンに、彼女の甥が静かに声をかけた。
「落ち着いて、伯母さん。とにかく、今のルシカさんに面会は無理なのだから、会わせるわけにはいかないよ。レスリィ様、ジェイス様はいつ戻られるのですか」
 十二歳という年齢を超えた菫色の理知的な瞳を受けたレスリィは、自身もリノンと同じく焦燥感に駆られていたことを内心で認め、ふと上着の襟を正し背筋を伸ばした。
「兄さんは双竜山の入山口に人を迎えに行ったんだ。予定では今日の昼過ぎ――つまり、そろそろ戻ってもいいはずだ」
「そうですか。では、医術学部長には待っていただくようお願いしましょう。あの、レスリィ様、ひとつお願いがあるんですが……」
 イオンはルシフェルカの傍を離れ、すらりと背の高い青年の前に立つと、その柔和な表情の顔を見上げた。しかし、いつもの自信家の彼らしくなく、少々発言を躊躇している。
「どうしたんだい、イオン。言ってごらん」
 そのレスリィの声音が、どんな時も優しいルシフェルカを彷彿させたことに勇気をもらったのか、イオンは再び口を開いた。
「実は、医術学部長に俺を会わせていただきたいんです」
 この発言に驚くかと思われたリノンは意外にも静かな面持ちをしており、それを見たレスリィは即座に少年が次に言わんとすることを予測したのだが、念のため問うてみた。
「イオン……。何故なのか訊いてもいいかい?」
 もちろん、と、イオンは金色の髪を揺らして肯いた。
「ご存じだと思いますが、俺は王立図書館の医術学部に就学することが決まっています。でも、昼食前にルシカさんと話していて自分の気持ちに気づいたんです。俺が探究したいのは薬草学だということに」
 偽りない素直な気持ちを打ち明けたのであろうイオンは瞳を輝かせていた。そこには大人に強要されているといった悲愴な色は微塵もなく、完全に己の意思を以って決断しているということが伝わってくる。
「そうか。では、イオンは薬草学部に入るため、医術学部長に断りに行きたいというわけだね」
「はい、お願いします。その……やはり許してもらえないでしょうか?」
 最後は幼さを見せたイオンに、子どもが大好きなレスリィは嬉しそうに口角を引き上げた。
「まさか。学ぶのはきみだ。子どもだからといって医術学部長に面会してはいけないということはないよ。おそらく兄さんでも同じことを言うと思う。では早速――」
 レスリィがそう言いかけた時であった。寝台から、か細い声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「わ……たし、も、行く」
「ルシカ。起こしてしまってごめんなさい。だめよ、寝ていないと」
 起き上がろうとしたルシフェルカの傍にリノンが慌てて駆け寄り、寝かしつけようとしたが、熱で顔を赤くした少女の懇願するような視線にいつものごとく負けてしまった。
「ルシカ、無理をしてはいけないよ。もうお前は王立図書館とは関係なくなったのだからね。何も心配することはない、あとは兄さんたちに任せておくれ」
 リノンに半身を起してもらった妹をレスリィがさとそうとしたのだが、存外頑固な少女は譲らなかった。
「私も自分のことは自分で決着をつけるべきでしょう。お願い、レスリィ兄様」
「ルシカ……」
 優しい水色の瞳が潤んでいるのを見て、誰がその願いを拒むことができるであろうか。
 答えはすでに決まっていた――。
「忘れていたよ、アニス家の誰一人としてお前に敵わないんだった」
 レスリィの大きなため息がこぼれたが、温かな陽光に満たされた部屋には久方ぶりに笑い声が戻ってきたのであった。
 懐かしい我が家に戻ってから、早くも十日が過ぎていた。
 双竜山の山裾に建てられたアニス伯爵家別宅は、事実上ルシフェルカのための館であった。北の大国ウォルド王国にある『神々の森』で拾われた少女は、言葉を解さぬ赤子の自己防衛本能とも言うべき異能力を当時より発揮していた。少しずつ言葉を話すようになってからは、さらにその力が増幅され、本宅では暮らすことができなかったのである。
 だが、周囲の生気をもらい受けるという力は本人にすら上手く制御できず、ルシフェルカの命を救うために人里離れた別宅で暮らすようにしたものの、それでも異能力はとどまることを知らず、前アニス家当主が、王立図書館に協力を求めるという苦渋の決断を下したのであった。
 ルシフェルカは、出て行った時と変わらない自室の寝台で安心して体を休めている間中、今は亡き義父であるアニス伯爵や、二人の義兄らとの思い出、そして王立図書館でセルジュと過ごした日々に思いを馳せては、そのあとにルーガを思い出してため息をついていた。
 と、昼前の投薬時間であると、イオンが部屋に訪れた。
「ルシカさん、やっぱり自宅が一番のようですね。顔色が良いです」
 寝台脇に設けられた物置台に投薬のための道具と液体の入った瓶を手際よく並べ、白い右腕を自ら出したルシフェルカに美しい笑みを見せた。そして、縫い針よりも細く短い投薬用の針を薬液で消毒すると、すまなそうに少女の白い細腕に差し入れた。針にはブラン・オールから作られた薬を入れた瓶が繋がれており、瓶を斜めに傾けると、体に薬が入っていくようになっていた。
「針を刺したところが痛くないですか? 腕を交互に替えてはいますが……」
 イオンらしい気づかいに、ルシフェルカは大丈夫、と微笑んだ。
「王立図書館にいた時、セルジュもよくそうやって訊いてくれたわ。でも、あの頃使っていた薬は炎症止めで副作用が強かったけれど、今は元気になる薬だから平気よ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
 ルシフェルカがセルジュについて気さくに話すので、当初、王立図書館員だと警戒心をあらわにしていたイオンも、その印象が変化したようであった。
「ねぇ、イオン」
 投薬はやや時間がかかるため、その間イオンは付ききりである。いつもは眠ってしまうルシフェルカだが、今日は珍しく話を続けた。二人きりの今しか訊くことのできないことだ。
 イオンの菫色の宝石のような瞳が、優しくルシフェルカに向けられた。それを眩しそうに見つめると、少女は静かに切り出した。
「あのね、昨日、ジェイス兄様が報せてくれたのだけれど、王立図書館は、もう私を被検体として扱うことはないんですって」
 大声は上げなかったものの、イオンの表情が寝耳に水とばかりに驚愕のそれになっていった。
「あの、それって」
「私が王立図書館に出向いて、きちんと話さなければいけなかったのだけれど、お兄様やセルジュ、それにここにはいないけれど、ルーガが、私の体の負担になるからって……」
 また皆に迷惑をかけてしまった、とルシフェルカが付け加えると、驚いていたイオンは慌てて頭を横に振って力強く否定した。今のルシフェルカには、歩いて五日以上かかる王立図書館に行って、気難しい学者相手に説得することなど無茶なのだ。それに、誰ひとりとして負担に感じながら行動した者はいないことは分かりきっている。
「条件は、双竜山に王立図書館員が不法侵入した今回の件を穏便に収めること。それから、セルジュが、私の能力について無害であることを証言してくれたことも大きいわ。あとはね……」
 そこで、ルシフェルカは突然涙ぐんで声を詰まらせた。
「どっ、どうしたんですか、あの、俺、何か悪いことでも――」
 普段は大人顔負けの知識と弁舌を披露するイオンも、少女の涙には慌てざるを得なかった。しかも投薬中であるため、動くこともできず、助け船を求めて無意味であるが周囲を見回すその様は、まさに見ものであった。
「ちがうの。イオン、あなた、王立図書館に就学するのでしょう」
 今のルシフェルカに、笑う余裕はなく、怯えたようなまなざしでイオンを凝視している。
 そうして、切れてしまいそうな声で問うた。
「あなたが就学することも条件に入っている――違う?」
 イオンが絶句していたのは、瞬きを数回する程度で、その場の緊張感はすぐに笑いにとって代わられた。
「ルシカさん! 何を言い出すのかと思いましたよ」
 繊細な針を扱っている少年は、笑いで手元に震えが伝わらぬよう、必死になっている。
「笑い事じゃないわ。もし本当なら、それだけはやめて。私はきちんと自分で話しをしに行くから。あなたは黒竜族の里にとってだけではなくて、双竜山に必要な人だわ。私なんかのために未来を決めてはいけない」
 本気でイオンを案じているルシフェルカに、少年はようやく笑いをおさめ、一息ついたあとなぜか嬉しそうな表情になった。と同時にブラン・オールの薬液が入った瓶も空になったので、針を抜きながら話しだした。
「ルシカさん。たしかに、この間、セルジュ・ディローヌから就学の勧誘を受けましたし、それに応じることにしました。でも、俺、今初めてルシカさんが王立図書館から解放されたことを聞きました。あのセルジュって人、ひと言もあなたのことを引き合いに出したりしませんでしたよ」
 少年の言葉を信用しきっていないのか、ルシフェルカはまだ不安そうにしている。
「嘘なんてついていませんよ。俺、薬草学を極めたいんです。今、すごく注目しているものがあって、それを探し出して研究します。それがうまくいけば、黒竜族の里の皆の役にも立つし」
「本当に本当?」
「本当に本当です。俺、自慢じゃないですけど、お世辞と嘘は言えないんですよ」
 イオンが腕をそっと掴んで掛け布団の下に入れてやると、ルシフェルカはやっとひと心地ついて呟いた。
「決心して出てきたのに、結局何もできなかった。なんだか自分が情けないわ」
「何を言っているんですか。ルシカさんには目に見えないものをたくさんもらっているんですよ。元気に動けないルシカさんは、元気に動ける俺たちが欲しくても手に入れられなかったものをくれたんです。――感謝しています」
「イオン……あなたは命の恩人だわ。私のほうこそ、感謝しきれないのに」
 ルシフェルカの春の泉色の瞳に吸い込まれそうになったイオンは、ふいに泣きそうになって慌てて目をそらした。
 目の前の優しい少女を心から想っていたから、必死になって薬草について学んだ。生まれながらに恵まれた才能を持てあましていた少年に、学ぶ意義を与えてくれたのだ。
 それが、今後の彼の人生にとってどれだけ有用な宝になったことか。
 声が震えそうになっていたイオンは、言葉の代りに心をこめた笑顔を向けた。
 すると、ルシフェルカは再び命の恩人である少年に礼を言った。
「本当にありがとう、イオン」
 少年の真意はともかく、真心だけは十分に受け取ったルシフェルカの、偽りない言葉であった。
 双竜山を西側へ下山すると、初夏本来の温かさを肌で実感することができた。
 大気はやや乾いているが、風が吹けば額の汗が冷やされ、爽快な気分だ。
 同じ時間が流れているはずの世界でも、やや涼しい双竜山と比較し、リノンに背負われたルシフェルカはそっと息をついた。
 体力の回復を待たずにトラロック王国に戻ることになったルシフェルカは、発熱で火照った額と頬を撫でてくれる風にうっとりと目を閉じた。

 西の大国トラロック王国。その中枢である王立図書館へ向かい、自分はもう被検体にはならないことを自らの口で宣言するため、ルシフェルカは居心地の良い黒竜族の里を出てきたのだった。
 同行してくれたのは、ルシフェルカを背負うリノン、そして体調管理をしてくれるイオンの二人だ。セルジュは先に出発し、ルシフェルカの義兄二人に事の次第を報告しているはずであった。
 ルシフェルカたち一行は、大幅な遅れもなく第一の目的地である山裾のアニス家別宅へ到着した。今はまだ緑の葉をつけた銀杏の木が玄関へと導く小道は、トラロック王国らしく整然と敷き詰められた石畳となっており、その両脇にはよく手入れされた花壇が初夏の花々を色とりどりに咲かせていた。
「ルシカ、そんなに長く離れていたわけではないけれど、懐かしいわね」
 ルシフェルカを背負ったリノンが優しく笑った。
「お兄様たちは元気かしら……」
 強い倦怠感でぐったりとしながら呟くルシフェルカを元気づけるように、イオンが前方を指差しながら声を弾ませた。
「ルシカさん、顔を上げてみてください。決心して下山したかいがあったみたいですよ」
 イオンの言葉にリノンも頷いたので、ルシフェルカはのろのろと顔を上げた。
 そうして見えたのは、穏やかな土色に近い石を敷き詰めた小道を走ってくる青年であった。
 青年はすらりと背が高く均整のとれた体型をしており、こざっぱりと短くした柔らかな栗色の髪が、ルシフェルカとまるで本当の兄妹のように似ていた。服装は伯爵家子息らしく真白い絹の中着の上に深みのある葡萄酒色をした襟付きの上着を着ており、革の長靴を履いた長い脚が駿馬を彷彿させる、申し分のない外見であった。
 その青年を見たルシフェルカは、大きく見開いた目にみるみるうちに大粒の涙を湛えたのだった。
「レスリィ兄様……!」
「ルシカ!」
 リノンの背中から覗く小顔のルシフェルカを認識した青年も、大きな声で少女の名を呼んだ。
 青年――ルシフェルカの義兄のうちの一人であるレスリィ・アニスは俊足で、さほど待たずにルシフェルカ達のもとへ駆け寄ってきていた。そして、息も切らせていない爽やかさと輝く笑顔でリノンとイオンに礼を述べると、待ちきれないといったていで、背負われたルシフェルカに手を伸ばした。
「声……声が出せるようになったんだね。ああ、事情はセルジュから聞いたよ。僕は待ちきれなくて、ジェイス兄さんよりひと足先に早駆けしてきたんだ。どれ、ここから先は僕がルシカを連れて行こう」
 本当の肉親のように可愛がってきた義妹との再会に興奮を隠しもしない、おおらかな性格のアニス家の次男は、柔らかな栗色の髪を弾ませてルシフェルカをリノンの背中から譲り受けた。
 レスリィは口の端を目一杯に引き上げて破願一笑すると、腕の中のルシフェルカに頬ずりし、歩きだした。傍から見れば驚く大仰な可愛がりぶりも、リノンとイオンにとっては以前から見慣れたもので、ほほえましいものであった。
 ルシフェルカは、七つ年の離れた兄の顔を見上げながら、嬉しくてその胸にしがみついた。
 優しいレスリィ、懐かしい別宅、そして今となっては心地好ささえ感じる空気。
「おかえり、ルシフェルカ」
 レスリィの囁き声に、ルシフェルカは目じりから涙がこぼれ落ちるのを感じながら頷いた。
 辛い現実から逃げだしたが、やはり、帰ってきてよかったのだ――と。

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